羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 次の日。オフィスへと向かうエレベーターホールで三浦さんに出くわした。きっと今までもこういうことはあったんだろうけど、やっぱり昨日までとは意味合いがちょっと違ってくる。意識するよな、少なからず。
「おはよー三浦さん」
 自分でもどうかと思うくらいのにこやかさで挨拶をしてしまったのだが、三浦さんはぺこりと軽い会釈をして「……はざす。朝から眩しいすね」と返してきた。なんだかはしゃいでしまったのを見透かされているようで恥ずかしい。というか、眩しいって何、俺? そんなテンション高かった? うるさい?
「すみません。うるさかった?」
「え、何が? 兎束さんて変なとこネガりますよね」
 そうだろうか。なんだか三浦さんと喋っているといつもより自分の言動が気になってしまう。元々他人から自分がどういう風に見えているのかには敏感だと思うしその分気を付けてるんだけど、更にって感じ。
 不思議なことに一夜明けて三浦さんに対する妙な緊張が生まれてしまって、どう雑談すればいいかも分からない。エレベーターの中を無言で過ごしてオフィスに入り、いつも通りタイムカードを記録する。
 三浦さんはというと俺の葛藤をよそに、どこか遠いところを見ていた。何考えてるんだろ。俺には分からない。

「あー三浦さん? ヤバいよねあの人」
「やばいって?」
「優秀すぎるって意味。研修期間で一時期一緒に作業してたから実感あるんだけどさー、私が開発部で頑張ってんのが馬鹿みたいに思えるわー」
 まあ所詮私は文系SEだけど、と微妙な自虐でため息をつく同期の開発部女子。こういうとき同期の人数が多いと助かることが多い。ちょっと情報収集すればすぐに色々と話が聞ける。
 今日のお昼は開発部同期女子のランチに交ぜてもらった。とは言っても、開発部の女子って珍しくて同期はこの子だけなんだけど……。要するにただの二人ご飯だ。今日はたまたま、マシンのアップデートで出社していたらしい。『久々に誰かとご飯食べたい!』と午前中にお誘いがかかったので渡りに船というわけ。
 やはり営業部よりは開発部の方が三浦さんとの接点はあるらしく、その女子はすらすらと三浦さんについて喋る。
「私さ、新人の頃に一回三浦さんのコーディング――えーと、パソコンに色々な命令する呪文みたいなの書くやつ、見せてもらったことあるんだけど」
「うんうん」
「私みたいな凡才はさー、基本的に『この呪文は正しいか』とか『この呪文で正しく動くか』とかを逐一確認しながら書いてんのね。エラーが出たらひとつひとつ潰しながら進む感じね」
「なるほど……?」
「でも三浦さんは、ぜーんぶ先に書いちゃってから最後に手直しすんの。もうね、何? どうして? って感じ」
「なんか凄そうなことだけは分かった……!」
「そ。凄いんだよね。私とかは目の前のバグしか見えてないんだけど三浦さんには全体の構造がちゃんと見えてるんだろうなぁ……他の人なら動作確認に費やしてるはずの時間が殆どかかってないから作業めちゃくちゃ速いんだよ」
 その子の言葉からは、純粋な尊敬が読み取れた。なんだか自分のことのように嬉しくなってしまう。俺はこういう技術面のことはよく分からないからどうしてもぼんやりとした『凄いんだろうな』という感情で終わってしまうけれど、開発部の奴らには三浦さんの凄さがくっきりと実感できるのだろう。
「……俺もちょっと勉強してみようかな。えーと、プログラミング? ってやつ」
 勉強したら、三浦さんがどれだけ凄いのかもっと分かるかも。そんなことを思いながら言うと、その子は「いいんじゃん? 三浦さんに教えてもらえば? あの人聞いたら教えてくれるよ、意外と」と笑った。
「まあ、若干言い方キツいっていうか誤解を生む言い回しするけど……。三浦さんのコードお手本にしたらかなり勉強になると思う」
「やっぱ言い方キツいんだ……」
「私も研修の最終課題やってるときに一瞬教えてもらっただけだけど、『ハ? なんでそうなるんですか?』って百回は言われた気がするもん」
「怖! できる人に詰められるのめちゃくちゃ怖い……」
 容易に想像できる。なんなら声のトーンまで脳内で再現できそうだ。
 俺は面白いくらいに震え上がってしまったのだが、目の前のその子はからっと笑って「やーでもさ、あの人の『なんでそうなるんですか?』はマジで言葉通りの意味しかないよ」とすかさずフォローを入れてくる。
「三浦さんにはゴールまでの道のりが一直線で見えてるから、他の人が蛇行しまくってるのが理解できないんだと思う」
 あの言い方のせいで開発部の他の人たちは敬遠してたけど、私はそこまで嫌じゃなかったな、とその子は言った。
「……意外と好感度高い感じ?」
「男は仕事ができると三倍よく見える」
「わ、分かるなあ……!」
「あはは。兎束も別ベクトルで仕事できるじゃん。三浦さんもねー、兎束の三割くらいでも愛想があれば技術営業としてだって使いたいのにって部長がぼやいてたよ」
 そんなこと言われてたのか。というか三割って。つまり今は三割未満だと思われてるってこと? 相当じゃない?
 何と返していいのか分からず苦笑い。しかし直後に、昨日一緒に飲んだときのことを思い出してふと考える。別に愛想悪くなかったし、あれなら十分客先に出てもいいよなー、なんて。
「……三浦さんも愛想よくしてくれるかもよ」
「そうかなぁ」
「そうそう。ああいう普段無愛想な感じの人が意外と……んん、たらしだったりするんだよ……」
 喋ってる途中で昨日の三浦さんの台詞がフラッシュバックしてなんだか恥ずかしくなってきてしまったのだが、予想外なことに「あー、そうかもね」と同意されてまじまじとその子を見てしまった。
「え、何。同意したのに」
「や……なんでそう思ったのかなと思って」
 もしかして、俺が知らないだけで開発部とは親しく交流してたとか? ああいう感じの三浦さんのこと、この子も知ってるのかな。
 なんとなくもやっとしたものを感じてしまう。俺だってつい昨日、ちょっとだけ仲良くなれたくらいなのに。まあ、名前も自信持って言えないくらいの関係性だったから仕方ないのかもしれないけど……。
 そんな俺のもやもやをよそに、その子は少しだけ悩んだような顔をした。これはちょっとオフレコにしてほしい話なんだけど、と言われて若干緊張する。
「三浦さんってさー、よくよく見るとキレイな顔してるじゃん?」
「………………はい?」
「あ、マジで言わないでよ!? セクハラになっちゃうから! ……まあそれはともかく、あの人ってオタクっぽい割にモテない男特有のにおいがしないし案外女慣れしてるかもね、みたいな」
「どっちかというと『モテない男特有のにおい』の方がセクハラじゃない……?」
 だって要するに、童貞臭いとかそういうやつじゃん……?
「確かに。訂正します。……女に対して変に緊張してない。これでどうだ!」
 達成感に溢れる『これでどうだ!』をいただいてしまった。
 ……まあ、なんとなく伝えたいことは分かる。そもそも三浦さんが女の人に対して緊張するような人だったらこの子に『ハ? なんでそうなるんですか?』とか言えないもんな。
 ふと気付けばもう随分と時間が経ってしまっていて、俺たちは慌てて残りの食事を胃に収め、オフィスへと戻る支度をする。お昼ごはんと一緒にこの微妙なもやもやも消化されればいいのにな、なんて思いつつ。
 噂話で白熱したのが若干三浦さんに申し訳ないような、ちょっと複雑な気持ちだった。

 そして、打ち合わせ途中の休憩時間でのこと。給湯室へコーヒーを淹れに行くと、またもや三浦さんと鉢合わせした。三浦さんはプラスチックのマドラーでくるくるとマグカップの中を掻き回している……のだが。
「三浦さん、それココア?」
 辺りに漂う甘い匂いに思わず声を掛けると、三浦さんは今気付いたとでも言いたげに顔を上げて、ぱちぱちと瞬きをする。
「そうですけど。甘いもの欲しくなるんですよね、午後」
「あー、やっぱ頭脳労働だから? いいですねココア」
 飲み物のチョイス、なんか意外で可愛いな。栄養ドリンクじゃなければブラックコーヒーとか飲んでるイメージだったけど、ココアが正解か。
 そんなことを考えていると、三浦さんはじっと俺のことを見つめてくる。お昼に話した女子社員の、『よく見るとキレイな顔してるじゃん?』という言葉が思い出されてどきっとした。うわーだめだ、意識しないようにしとこう。変なこと口走ったら困るし。
 にしても見すぎじゃないだろうか。どうしたんだろう。
 そう思っていると、三浦さんが動いた。まだ開封したばかりと思しき箱からスティック状の粉末ココアを取り出して、一本差し出してくる。反射的に受け取ったら微かな笑い声が聞こえた。
「――あげる。おいしいよ」
 眼鏡の奥の瞳が楽しそうに細められる。囁くような声に返事をする間もなく、三浦さんは給湯室から出て行ってしまった。
 ……なんだあれ。なんだあれ……!
 いや、冷静に考えると俺だって似たようなことはするけど。するけどさあ! 俺みたいにいかにも軽そうな奴がするのとは訳が違うじゃん!? レア度が!
 どうしよう、お礼も言えなかった。ありがとうって言いたかった。今から座席までお礼言いに行くのは重いかも。メッセ送る? わざわざ改まって? それもなんか変じゃない?
 よく分からない鼓動の速さを落ち着けたくて、貰ったばかりの粉末ココアを紙コップの中に投入しお湯を注いだ。ふわりと甘い匂いが漂う。
「……おいしい」
 一口飲んで、ほう、と息をついた。ココアなんて数年ぶりに飲んだかも。
 打ち合わせの再開時刻が迫っていることに気付く。俺は慌てて会議室に向かう。入室した瞬間、「あれ、兎束さん甘い匂いする〜」と女子社員に口々に言われたので、「甘い物パワーで午後も乗り切ろうと思って!」なんて軽口で返す。
 内心は、まったく鼓動の速さに気持ちが追いついていなかった。
 紙コップに触れた指先がとても熱いのも、きっとココアのせいだけじゃなかった。

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