羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 武道に雑念を持ち込んではならない。
 部活のときに考えるのは部活のことだけだ。気持ちの切り替えができて助かった。朝倉に応援してもらえたし、いい練習ができたと思う。
 けれど、部活が終わってしまえば途端にあいつのことが心に浮かんだ。下の名前で呼んだら、あいつはなんて言うだろう。驚くだろうか。それとも、笑顔で返事をしてくれるだろうか。
 いつもより早く部活が終わったので、早く朝倉の顔が見たくて気が急いた。小走りに教室に入ると、視界にはすぐあいつのオレンジがかった茶髪が見える。意識をしていなくても自然と見てしまうし、勝手にあいつの姿を捜してしまう。我ながら好きすぎて恥ずかしい、なんて、誰に見られているわけでもないのに周りが気になった。
 朝倉がふと、話をしていた友人から視線を外す。それはとても自然な動作で、きっと皆には分からなかっただろう。
 教室を目だけでゆるやかに見渡したそいつと、視線がかち合った。
 ほんの一瞬、朝倉の目が細められる。口角が少しだけ上がる。……ああ、笑ってくれたのか。
 嬉しい。好きなひとが自分を見て笑ってくれるなんて、俺は幸せだ。
 朝倉は俺を特別扱いしてくれている。言葉や行動の端々からそれが分かる。だから、俺も「特別」を返したい。分かりにくい、と朝倉を不安にさせたくはない。
 俺があいつのことを下の名前で読んだらきっと喜んでくれる――なんて、期待をしてみたい。

 そんな思考を遮ったのは、朝倉の周囲で起こった笑い声だった。あの集団はいつも賑やかで、行事などではいつも話の中心にいる。最初のうちは騒がしくて少し苦手意識を持っていたのだが徐々に接する機会も多くなり、クラスの牽引を率先してやってくれる彼らのことをすごいなと思うようになった。
 あまり露骨にならない程度に視線を向けると、とても楽しそうに喋っている。
 ……こういうことを言うと余裕のなさが露呈して嫌なのだが、スキンシップ過多じゃないか? なあ、ちょっと近すぎるだろ。俺とだって朝倉にそんな近くでくっついていることなんてそうそうないのに。
 いや、分かっているのだ。朝倉の周りには、朝倉に似て明るくて親しみやすい人が多い。彼や彼女たちにとってあの距離感は、何らおかしいところのない当たり前のものなのだろう。いちいち気にしている俺の方が朝倉にとってイレギュラーな存在に違いない。
 けれど、俺はあんな風に人前で気安く肩を抱いたり名前を呼んだりできないのだ。それが悔しい。俺がもっと明るかったら、あんな風に大勢の前でも何も気にせず、近くでくっついて騒いだりできたのだろうか。
 そんな考えても仕方のないことで悩んでしまう。というかあの集団、身体的接触が多すぎるんだよ。いわゆるボディタッチというやつだ。
 羨ましく思いながら様子を窺っていると、突然集団の一人が朝倉の服の中に手を突っ込んだので動揺しすぎて思わずペンケースを落としてしまう。
「白川、落としたよ。大丈夫?」
「あ、ああ……大丈夫、ありがとう」
 前の席の友人が拾ってくれたが、お礼を言うにも身が入らない。というかそれどころじゃない。何をやっているんだあの集団。どういうことだ。
「拓海おまえ腰ほっそ! 貧弱! うけるー!」
「は? どこが貧弱だよどこが、俺は無駄な脂肪がついてねえだけだっつーの!」
「いやいや、時代は細マッチョだからね。なあ見て見て最近ジム行ってんだけど腹筋割れてね? オレ強くね? インストラクターに綺麗なおねーさんいてつい会員になっちゃった」
「バーカそんな不純な動機よりちゃんと部活で鍛えてる奴のがいいだろ」
「え、拓海帰宅部じゃん。無所属じゃん」
「俺じゃなくて例えばの話をしてんだよ頭わりーな!」
 なるほど話は大体分かった。聞き耳を立てていた俺は観察を続行する。本当はすぐにでも止めたいが不審がられてしまうだろう。それにしても、「部活で鍛えてる奴」って俺のことでいいのか。期待するぞ、勝手に。
 どうやら話題は続行しているらしく、現在はというと男同士で腹筋の硬さ比べをしている。お前ら全員ほぼ帰宅部だろ。鍛える要素、ないだろ。朝倉も、そんなべたべた触るなら俺の腹筋にすればいいのに……なんて裏切られた気分になってしまった。
 俺以外の奴にあまり触らせるな、触るな、と言ったら、鬱陶しがられるだろうか。
 そもそも朝倉本人はこの程度、大した接触だとは思っていない。おまけにあいつは恋人がいたとしても友人もきちんと大切にするタイプなので、行動を縛り付けるのはきっと好まれないだろう。くだらない嫉妬をしているなあ、と我ながら心の狭さにげんなりした。
 朝倉たちの会話を盗み聞きしながら葛藤を重ねる俺はおそらく相当気持ち悪いだろう。少し離れたところからこっそり見るしかできないのが悲しい。
 なんて思っていると、ジム通いを始めたと言っていた男子が何やら隣の席に座っていた女子から茶化されたらしい。「なんだとおまえー! こんなぺったんこの腹がいいのかー!? やっぱり顔か!? 所詮腹筋より顔が大事なんだろ!」なんて、言ったかと、思えば。
 そいつは朝倉のシャツをがばっと捲り上げて、「うわっさみーんだよバカ!」と朝倉は割とどうでもよさそうにその男子をあしらっていて、でも俺の、俺の恋人の肌が胸のほんのすぐ下の辺りまで丸見えになっていて。
 あっごめんもう無理。流石にこれは、我慢できない。
 勢いよく立ち上がる。真っ直ぐ、朝倉を目指して歩く。焦げ茶色の瞳が俺を捉えて、そいつの視界が俺で占められていることに言いようのない喜びを感じながら口を開く。
「――拓海、ちょっと来て」
 腕を掴んで引き上げると、思いの外簡単に朝倉の体は浮いた。
「邪魔してごめん。ちょっと……こいつに話があるから」
 何か文句でも言われるかと思ったのだが、どうやら朝倉の友人たちは皆さっぱりとして付き合いやすい人ばかりらしい。「おー、いってらっしゃーい」「仲良いねー」とにこやかに手を振られてしまった。こんな好意的に接されると自分の心の狭さが後ろめたくなるが、今は誰もいないところへ行くのが先だ。

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