羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 朝倉の手を引いて、校舎の南階段の踊り場まで歩いた。この階段の上は屋上への扉があるだけで、今の時間に人は来ない。
 何故だかさっきから一言も喋らずされるがままの朝倉の表情を確認するのが怖くて、振り返って顔を見る暇もなく抱き締める。「……ごめん、朝倉の友達に嫉妬した。我慢できなかった。ごめん」あー、やばい、部活の後だから汗臭いかも。朝倉の首筋から香るシャンプーの甘さにくらくらしながらそう思った。
 やがて、小さな声で「なんで」と声が落ちる。腹をくくって顔を上げると、予想外に悲しげな表情をしていたものだから物凄く慌てた。
「ご、ごめん。やっぱ鬱陶しかったよな」
「ちがう」
「え?」
 朝倉は静かに首を振った。何度か言い淀んで、ぎゅっと拳を握って言う。
「さっきは名前で呼んでくれたのに」
 俺は思わず朝倉の手を取った。もしかして、嬉しいって思ってくれたのか。俺が下の名前で呼ぶのを、喜んでくれたのだろうか、こいつは。
「し――下の、名前で、呼んでいいのか」
「駄目なんて言ったこと一度もねえし……っつーか、お前そういう馴れ馴れしいの嫌なんだと思ってたんだけど」
 なんてことだ。俺はまた朝倉に気を遣わせてしまっていたらしい。朝倉はさっきからしきりに耳元のピアスを指先で弄んでいて、こういう沈黙が苦手なんだろうなと場違いに微笑ましくなる。
 ふと思い立って、未だに乱れている朝倉のシャツの下に手を伸ばし薄い腹筋に優しく触れてみた。細いな、と思うより先に朝倉の唇からちいさく「ひゃっ」なんて悲鳴がこぼれて、さっきの友人の男子たちに触られていたときとの反応の違いに驚く。
 まじまじと見つめてしまって、朝倉は居心地悪そうに「……んだよ言いたいことあんなら言えよ」とこちらを睨んできた。
「いや……随分反応が違うなと、思ったから……」
「おっまえ、それ本気で言ってんなら流石に怒っていいか? いいよな?」
「えっ」
「……あのなあ、ただの友達と好きな奴とで違う反応しちまうのは仕方ねえだろ。……なんでいちいちこんなこと説明しなきゃなんねーんだよ! あーもう! バーカ!」
 きゃんきゃん叫んではいるものの朝倉が俺の手を振り払わないのは、ちょっと、自惚れてもいいかもしれない。だって今こいつが目元をほんのり赤く染めているのも、俺のせいってことだろ。俺が、こいつの特別だってことなんだろ。
「……拓海、って呼んでいい?」
「いいぜ。大体、俺のこと名字で呼ぶ奴のが少ねえよ」
「はは、確かに」
「……俺もお前のこと名前で呼んでいい?」
「ああ。俺、家族以外から下の名前で呼ばれるのって幼稚園以来かも」
「マジかよ」
 朝倉が――いや、拓海が、堪えきれないって感じで笑うものだから俺まで楽しくなる。「お前そういうとこイメージ通り。なんか俺だけ特別って感じで気分いいかも」僅かに眉の下がった笑顔はとても魅力的で、続けて耳元で囁かれた低い声にどきりとした。
「――幸助、って名前、すき」
 幸せを助けるとかぴったりじゃん。と、告げる表情も声音もきらきらと眩しい。
 俺は些細なことで我慢できなくなって嫉妬して、それなのに拓海は俺が嬉しくなるようなことばかり言ってくれる。たぶん俺は名前を呼ぶたびにどんどんこいつのことが好きになるんだろう。名前を呼んでもらえるたびに、周りの奴に対して優越感を覚えるのだろう。
 きっと拓海はそのことを許してくれるんだろう、というのが、一番嬉しい。自慢して回りたい。絶対に怒られるけど。
「俺も、拓海って名前好きだ。……ごめん、急に引っ張ってきて。もうすぐ授業始まるから戻ろう」
「……結構嬉しかった」
「え?」
「なんかこう、お前があんな風に俺の友達遮ってまで、って珍しいから、嬉しかった。……でも今度からああいうのは気を付ける。たぶん俺も、お前の友達とかにされたら嫉妬する」
 朝倉はどうしてこんなに俺の欲しい言葉ばかりくれるんだろうか。天性のものなのか。だから周りに人が集まるのか。
 俺はまた我慢できなくなって、人目の無いのをいいことに拓海の頬に唇を寄せた。微かなリップ音にくすぐったそうに笑う拓海。真っ赤になって文句でも言ってくるかなという予想はどうやら外れだ。その代わり。
「……続きは帰ってからな」
 悪戯っぽく微笑まれる。
 ああ、今日は拓海の家に遊びに行くことになりそうだ、なんて、俺は満ち足りた気持ちでそっと頷いた。

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