羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 俺の恋人の名前は、朝倉拓海という。
 拓海は、海を切り拓く、と書く。何事にも前向きで、人の先頭に立って色々なことを楽しみながら行える朝倉にぴったりな名前だと思う。いい、名前だと思う。
 俺はあいつの名前を一度も呼べたことがない。
 あいつの周りにはたくさんの友人がいて、その友人たちは朝倉のことを下の名前で呼ぶことが多い。それはあいつの親しみやすい人柄や、明るい性格によるものだ。親しげに接してきてくれるし、親しげに接することを許してくれる。そんな雰囲気を、あいつは持っている。
「下の名前で呼ぶタイミングを失ったんだよなあ……」
 俺が今、こんな風に頭を抱えているのには理由がある。有体に言えば……あれだ、俺は朝倉の友人たちに嫉妬してしまっている。
 あいつと正式に恋人同士になってから数か月、俺は以前よりも心持ち、気負いなく朝倉の傍にいられるようになった。クラスの中ではもう、俺が朝倉の隣にいても違和感なく受け入れられている。朝倉の恋人は未だにスポーティなショートカット美人とかいう話で落ち着いているが、まあ真相は俺と朝倉だけが知っていればいい話だろう。それはいい。いいのだが。
 あの日の朝、あいつと最初にまともに喋ったときに名字で呼んでしまったせいか、晴れて恋人同士になった今でもなんとなく呼び方を変えられずにいる。タイミングとしてはそれこそ朝倉にちゃんと告白したあの日が呼び方を変えるベストだったのだろう。けれどうっかりそれを逃した。自分の段取りの悪さがうらめしい。
 そして俺は今日も、そんなもやもやを心に抱えながら登校している。


「おはよう白川」
「あ――朝倉。おはよう……」
 部活に入っていない朝倉は、けれど通学時の混雑が好きではないという理由で早めに登校してくる。それは部活の朝練がある俺にはほんの少しだけ余裕のない時間帯で、朝倉に嘘をつき仮の恋人をやってもらっていたときはそのことを隠して登校時間を合わせたりしていたこともあった。それで一時期着替えが慌ただしくなったりもしていたのだが。
 今は、朝倉が俺に合わせてくれている。
 使っている電車の路線が同じということもあり、いつの間にか俺の家の最寄駅が待ち合わせ場所になった。朝の七時五分発、十両編成の六両目、その右端。朝倉はいつも、そこに一人で立っている。
 毎朝電車の扉が開く前、ホームに立つ俺を見つけた朝倉が扉越しに嬉しそうにはにかむ。その瞬間を見るのが、俺は好きだ。
「……白川? どうした?」
「えっ、あ、ああ……いや、なんでもない」
 電車に乗ってからも呼び方のことが頭から拭えなくて、つい上の空になってしまった。「ごめん」と謝ると朝倉は俺のことを見て眉を下げる。
 学校の最寄駅に着き、通学路を並んで歩きはじめて少し、朝倉が小さく声をあげる。
「なあ、何かあった?」
「ん? いや、そんな、別に何も」
 上手い言い訳ができずにそうはぐらかすと、朝倉は分かりやすくむっとした顔を見せて「お前最近なんか変……」と言った。
「そ、そうか?」
「……確かにお前は俺みたいに分かりやすくはねえだろうけど、俺だって昔に比べたらお前のこと、少しは分かるようになってんだからな」
 嬉しくなるのと同時にやばいな、と思った。様子がおかしいのを看破されているのもそうなのだが、朝倉は親しい人間のする隠し事をあまり好かない。特にそれが自分に関することなら尚更だ。まともに話をするようになってまだ間もない頃、「あんま裏でぐちゃぐちゃ思われてたりすんの嫌だから。気に食わねえトコあんなら言って」と釘を刺されたのも懐かしい。「悪いところがあるならちゃんと指摘されれば直せるかも」というのが理由なのも、朝倉らしくていいなと思う。
 誤魔化すのは得策ではない、が、名前を呼ぶか呼ばないかで悩んでいるなんて知られたら呆れられそうで少し怖かった。
 そもそも朝倉だって俺のことを名字で呼ぶのだ。もしあいつが呼び方についてなんとも思っていなかったらどうしよう。朝倉が名字で呼ぶ相手って、寧ろレアなんじゃないだろうか。
 ぐるぐる考えながらいい返答を捻り出そうとしたものの当然ながら不可能で、朝倉は本格的にへそを曲げてしまったらしい。
「お前が言いたくないなら、別にいい……」
「え、ちょ、朝倉」
「別にいいっつってんだろ。なんだよその目は。文句あんのか」
「あー……」
 むくれている様子は正直可愛い。短気を自称しているだけあって朝倉はすぐヒートアップするけれど、その分後に引きずらないからとても助かる。これ以上は何を言っても余計に機嫌を損ねてしまうだろうし、お互い少し落ち着こう。
 丁度校門をくぐったところだったので一瞬だけ剣道場の方に視線をやって、「悪い、俺朝練行ってくるな」と朝倉に声をかける。
 すると朝倉は、まだ若干納得いってなさそうな表情をしたものの俺の手首をぎゅっと握って、「……部活頑張って」と言ってくれた。
「……俺さ、朝倉のそういうところ本当に好きだ」
「は!? っ、んなこと言って誤魔化してんじゃねーぞバカ!」
 これは本気で怒ったからの大声じゃなくて、恥ずかしいからだ。
 やっぱり俺の恋人は最高に可愛い。
 俺はどうやったら自然に朝倉の下の名前を呼べるかを考えながら、剣道場までの距離を走って駆け抜ける。
 手首に残る朝倉の体温に、少しだけどきどきした。

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