羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 次の日の朝、起きたら味噌汁のいい匂いがした。
「おはよー。孝成さんは魚すき? サバ焼いてるよ」
「くぁ……はよ。お前朝早くねえ……?」
 昨日は俺より遅かったのに。そりゃあ、今日は休みだからいつもより遅く起きたけど。
「暫く置いてもらうことになったんだから家事はきちっとしないとね。まあおれ、どっちかっていうと料理より掃除洗濯の方が得意なんだけど」
 一人暮らしだとなかなか掃除も行き届かないよねぇ、とサバの焼き加減を見ながら言うそいつ。昨日の残りの煮物も温め直し、器に盛る。あれよあれよという間に、ご飯に味噌汁、サバの塩焼きに煮物という豪華な朝食がテーブルに並んだ。
「……なあ、マジで毎日こんな作ってくれんのかよ」
「嘘ついたってしょうがないじゃん。作るよー。あ、嫌いなものあったら先に言っておいてね」
「好き嫌いは……特にねえよ。思いつかねえだけかもだけど」
「あはは、助かる」
 やはり今日も麦茶のコップを並べることだけに全力を注いだ俺は、いち早く席について手を合わせる。余談だが、俺と目の前の男とで使っている椅子が違う。一人暮らしだったのだから当たり前なのだが、ちぐはぐさが申し訳なくもあった。俺が背もたれの無い方の椅子で我慢しているのだからこれで勘弁してほしい。
 にしても手作りの味噌汁なんて、実家にいた頃以来かもしれない。
 脂ののったサバを噛み締めて健康的な朝食にひたすら感動する。一人暮らしをする間に早飯食らいの癖がついてしまっていたのだが、今朝はそれが勿体なくてゆっくりと食べた。
 目の前の男も、何が面白いのか笑顔で米を口に運んでいる。
 なんだろう、とても静かに食べる奴だな、と思った。喋らないとかそういうのではなく、例えばコップを机に置くときに音が殆どしない、みたいな。不思議な奴だ。
 自分にしては長い時間をかけて朝食を食べ終わり、俺は昨夜こっそり用意していた茶封筒をテーブルの上に置いた。
「これ」
「……?」
「無言で首を傾げるなよ。食費だ食費。昨日の分とか、自分で払ったっつってたろ」
「あ、ありがと……」
「因みに、四万入ってる」
「えぇっ!?」
 俺からすれば大袈裟すぎる反応をしているように見えるそいつは、食べるのが遅いのか未だにサバを半分近く皿の上に残していた。食事が冷めるだろうに、律儀にも箸を置いてしまったのでやっぱり後にすればよかった、と少しだけ後悔。手短に済ませようと心持ち早口で続ける。
「悪いがそれ以上は出せねえわ。こっちも生憎、贅沢三昧できるほど稼いでないんでな」
 封筒を渡して言う。俺は外食が多かったからか一人暮らしで三万を超えるくらいの食費を毎月使っていたので、二人で四万は厳しい気もするのだが怒られるだろうか。そう考えていたのに、予想に反して目の前のそいつは恐る恐るといった風に言う。
「……孝成さん、ひと月って……そんな置いてくれるんだ。っつーかひと月分まとめてくれるんだ……」
「は? 今更だろ、暫く泊めてやるっつってんのに」
 実は、繁忙期を抜けるまでこいつに家事を頼めないかという打算もある、とは言う必要は流石にないだろう。毒を食らわば皿まで……ではないな。乗りかかった船。これだ。
「なんかこう……おれがこの四万持って逃げるとか思わないんだね……」
「そのときはそのときだろ。狐に化かされたとでも思うわ」
 言い切るとそいつはきょとんとして、堪えきれないとでも言いたげに笑う。
「……あはは。孝成さんって変なひとー」
 変な奴に変と言われてしまった。まあ、物好きだよな、とは自覚している。けれど、人を見る目はこれでも結構ある方だ。きっとこいつは毎日の家事を誠実にこなしてくれることだろう。
 そいつが、この金額だと昼も弁当欲しいってことだよね、と確認するように見上げてくるので頷いておいた。
「っつーかこれ絶対余るよ。四万もいらないって」
「え、マジかよ。俺一人で月に三万以上食費に使ってんだけど」
「それは孝成さんがコンビニ弁当ばっかり食べてるからでしょ……」
「仰る通りで」
 冷めるから先に食えよ、と言うとそいつはちょっと迷ったような表情を見せて、「ありがとう」と箸を取る。
 こんなの別に礼を言うことでもない。こいつはちょっと、妙なところで気を遣いすぎる。短いながらも共同生活をするのだから、あまり遠慮されてもやりにくいのだ。
「にしても、そっか。余るか」
「余るよー。おれに任せて」
「じゃあ余った分はお前のものに使うか」
「はい? おれの? 何が?」
 本気で分かっていないらしいそいつに滔々と語る。コップだのちゃんとした箸だの歯ブラシだの、必要なものが沢山あるだろ、と。割り箸を使っていたそいつは警戒心丸出しで俺と茶封筒を交互に見ている。おい、失礼だな。
「いいよ別にそんな、そのくらいの金は持ってるってば」
「あのな、俺はお前に四万渡してんだよ。お前の家事にそんだけ払えると思ったからだ。質を落とさずコストカットできたならそれはお前の能力が高いからだろ。だったら、浮いた分はお前に使う権利があんの。分かったか」
「わ、分かったような分からないような……?」
「例えば、浮いた金でお前が俺のためにビールを買ってきてくれるのも自由ってわけだ」
「なるほど」
「納得してんじゃねえよ。冗談だ冗談」
 いくら全ての家事をしてくれるといってもこいつの家賃と水道光熱費でとんとんかトータルではマイナスくらいだろうが、そのくらい家事がしたくないのだ、と言えばこの状況が俺にとってどれだけ有難いかも分かってもらえると思う。
 いくら実費でマイナスだろうが、家事を全て丸投げしていいならこれ以上のことはない。人件費っつーのは高いしな、往々にして。
 軽口を叩けるくらいにはこいつに慣れたところで、とても久々にコンビニではなくスーパーに行くことを決めて立ち上がる。
「ゆっくり食ってろよ。俺、出掛ける準備すっから」
「え、どこ行くの?」
「お前人の話聞いてたか? お前のもん買いに行くんだよ。部屋着だっていつまでも俺の着せとくわけにはいかねえし」
「んー……孝成さんってお人よしだね……」
「そうか? いいんじゃねえの別に、こうして美味い飯も食えたし」
 こちらを気遣わしげに見てくるそいつ。なんだよ、俺は男に顔色窺われながら生活する趣味はねえんだよ。
 俺は思案する。数十秒にも満たない時間だったが、それだけで十分に言うべきことは定まった。
「なあ、ロールキャベツ食いたい。お前作れる?」
「え、と……うん、作れるよ」
「今日の夕飯、よろしく」
 この家での役割がきちんとあれば、まあそこまで負い目を感じることもなくなるだろう。暫くは積極的に色々頼んでみて様子を見よう。
 俺のこの作戦はうまく作用したらしく、そいつは嬉しそうな表情で「トマトベースとコンソメベースと、あとはクリーム系もできるよ。孝成さんの好きなやつにしようね」なんて言ってくる。おーおー、そんな笑顔になっちゃって。
 そいつの綺麗な顔がこれまた綺麗に綻ぶのを見て、俺は満足し鼻歌なんて歌いながらそいつの出掛ける準備が整うのを待ったのだった。

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