羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 会社に着いて、俺は途端に家のことが心配になっていた。あいつ、部屋を荒らしたりしてねえだろうな。
 どうして見知らぬ他人を家に入れておまけにそのまま残してきてしまったんだろう。なんとなく、あいつに放っておけない雰囲気があったんだ、と自分に言い訳をしてみる。ふわふわと掴みどころがなくて、それでいて人懐っこい感じ。っつーか、明らかに歳も近そうなのにお兄さん呼ばわりされる筋合いはねえんだよ。
 俺はそんな脈絡のない思考をとっちらかす。ルーチンワークと化した朝礼をこなし、メールチェックや業務に追われ、昼は外回りのついでに短く済ませ……なんてしていると、時間は飛ぶように過ぎた。定時を一時間ほどオーバーしてまだパソコンの前に座っていたところ、「お前昨日遅かっただろ、明日が休みなら今日は早めに帰れ」と嬉しすぎる言葉を貰う。幸いなことに同僚や上司には恵まれているのだ、俺は。

 そんなこんなで、昨日よりも三時間以上早く家に帰れることになった。最高の休日前夜だ。
 俺は昨日とは一変してうきうきとした足取りで家路を急ぐ。調子に乗ってコンビニでビールまで買ってしまった。少し悩んで、二本。他に人がいるのに俺一人だけ飲むってのもあれだしな。
 掃除は全部明日に回して、今日はとにかくゆっくりしよう。そう思いながら玄関の扉を開けると。
「あ。おにーさんおかえりー」
 そこには信じられない光景が広がっていた。
「……!? な、お前、ここ」
「? どしたのおにーさん、すごいぶさいくになってるよ」
「誰が不細工だ!」
 にこにこと笑顔で失礼すぎることを言ってくるそいつにとりあえず怒鳴って、俺はもう一度部屋を見渡す。
 俺の部屋が、俺の部屋じゃないみたいになっていた。有体に言うと、めちゃくちゃ綺麗な部屋になっていた。洋服はアイロンはかかっていないまでもきちんと畳まれていて、床に落ちていた頃とは比較にならないくらい整っている。床はほこりもなく、うっかり出しっぱなしにしていたDVDもテレビ横の棚に整然と並び、最近時間がなくて水につけておくだけにとどまっていた食器類もぴかぴかになっていた。溜め込んでいた洗濯物も全て洗濯済みだ。
 そして駄目押しに、キッチンには豆腐と鶏肉と大根の煮物が用意されていた。よく見ると玉子も入っている。
「わ、ビールある。おにーさんお酒飲むんだ。なら酒のつまみもいるよね」
「お……おい、」
「腹減ってんでしょ? 今あっためるから待ってて。ついでにもう一品作っちゃうから」
「待て待て待て待て勝手に話を進めるな。この部屋どうなってんだ? どういうことだ?」
 コンロの前に移動しようとするその男の腕を掴むと、そいつはへらっとした表情で「え、掃除しといたげるって言ったじゃーん。綺麗になったでしょ?」と少しだけ得意気に言った。
「あ。言っとくけど、肉とか豆腐とかちゃんとおれが金払ってるからね。何も盗ったりしてないよ」
「盗っ……いや、別にそれは疑ってねえけど! お前鍵開けっ放しで買い物に出たのかよ。冷蔵庫の中、ロクなもん無かっただろ」
「え? 部屋掃除してたらソファのマットレスの下にスペアキー挟まってたから借りた。はい、これ返すね」
 そう言って手渡されたのは、俺が失くしたと思っていたこの部屋の予備の鍵だった。ぐうの音も出ない。寧ろ見つけてくれてありがとうと礼を言わなければならないくらいかもしれない。
「ね、おれも腹減ってるから離して。っつーか話なら食いながら聞くからさー」
「えっ、お、おう……」
 俺は、そいつが手早く夕飯のセッティングをするのを手持ち無沙汰に見守っていた。自炊なんて暫くやってない。そいつが棒立ちの俺を見て、「賞味期限切れのもの、結構あったから捨てといたよ」と笑ったので余計にいたたまれなくなった。
 それにしても、縮こまって寝ていたのが嘘のように我が物顔でキッチンを使う男に混乱する。何か話しかけてみようかとも思ったのだが、腹の虫が盛大に鳴いてまずは胃を満たすのが先かと思い直した。
 慣れた手つきで料理をする男に、せめてコップくらいは並べようと棚を探る。……誰かと食事するのって久々だな。
「でーきたっ。おにーさんこれ運んでー」
「分かった」
「おれもビール欲しいなぁ……」
「物欲しそうな顔してんじゃねえよ、言われなくてもお前にだってやるつもりだっつの」
「やったーありがとー」
 目の前に作ってくれた奴がいるので、物凄く久々に「いただきます」と声に出した。
「……!」
「うまい?」
 美味いなんてもんじゃなかった。っつーか手作りの飯なんて最後にお目にかかったのはいつだって感じにご無沙汰だったんでちょっと泣きそうになったくらいだ。酒のつまみも短時間で作られたはずなのに美味くて、この家にこんな味の出せる調味料なんてあっただろうかと舌鼓を打ちつつ内心首を傾げた。
 米まで炊きたてで、部屋は綺麗で、おまけにめちゃくちゃ飯が美味い。ビールも美味い。そして明日は休み。明日は休みだ。最高だ。
 これで飯を作ってくれたのが可愛い彼女とかだったらよかったんだがなあ。まあ、これ以上の贅沢は言うまい。
「……お前、今日はあんな隅っこで寝るとかやめろよ」
「んー? ああ、やっぱおにーさんが布団に運んでくれたんだ。ありがとー」
「いや、あのまま放置したらいじめみたいだろ……」
 そいつはにこにこしながら大根を口に運んで、目を一層細く三日月の形にすると「それよりさ、『今日は』って、今日も泊まっていっていーの?」と聞いてくる。
「は? ……あっ」
 つい話の流れでそんなことを言ってしまった。失言だ。慌てて訂正しようと思ったのだが、そいつはそれを見越したように「暫くここに置いてくれたら、毎日ごはん作って部屋もぴかぴかにするんだけどなぁ」なんて言う。
 俺は男の胡散臭さと、目の前の美味い料理、一日で魔法のように綺麗になった部屋とを天秤にかける。
 考えながら玉子を箸で割るととろっと半熟だった。うーん……美味い……。
「……まあ、この美味い飯と掃除の分くらいは……ここに居てもいいぜ……」
 一分も考えず負けた。完敗だった。だって家に帰ってから家事を何もしなくていいって、かなり心が軽くなるぞ。しかもたぶん俺がやるより早いし質もいい。男はというと、「やった。当面の宿ゲットー」なんてふわふわ笑っている。
 どうもこいつは、人に警戒心を与えない雰囲気を持っているらしい。なんかこう、危害を加えられたりとかしない気がする。
「……おい、お前」
「なに? おにーさん」
「俺は『お兄さん』じゃねえよ。安来っつーんだ。安来孝成」
「やすぎ、たかなり……」
「安い、来る、で安来。親孝行の孝に成田空港の成で、孝成。覚えとけ」
「分かった。孝成さんね」
 覚えとけとは言ったがいきなり下の名前で呼べとは言ってない。まあ、お兄さんだの何だの呼ばれるよりはましか。
「なあ、暫くここにお前を住まわせるのはいいけどよ。お前も名前くらいは教えとけよな」
 呼び方が分からないと不便だろう。すると男はコップの麦茶を飲みほしてから、さらりと言う。
「あ。おれ名無しだからさぁ、適当に呼んでよ。孝成さんがつけてくれていーよ」
「はあ!?」
 何を言い出すんだこいつは。名前が無いって、そんなわけないだろう。
「はは、信じてないって顔してる。まあいいけどね。おれは名前が無くても困らないし」
「いや、困らないことはないだろ……」
「因みに、前のひとはおれのこと『アキ』って呼んでた。秋に拾われたから。その前のひとは『チカ』だったよ。死んだペットの名前だったんだって。孝成さんも、呼びやすいように呼んでくれていいよ。おれ、ちゃんと返事できるから」
 やっぱり変な奴だ、こいつ。
 名前が無い、というのが本当だろうと嘘だろうと、それを笑って言えてしまうこの男の心情を俺は少しだけ気にしながら、その疑問をビールと共に流し込んだ。

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