羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「何を弾けばいいですか。完璧に暗譜できてる曲はそこまで多くないですけど……」
 音楽室に到着して腹をくくったのか、それともピアノの前に座ったことで気持ちが落ち着いたのか、真砂は堂々とした態度で言った。担任はというと、「えっリクエストまで受け付けてくれるんですか。本格的ですねえ! みなさんも考えてくださいよ」とはしゃいでいる。この担任、うっきうきじゃん……。
 クラスの大半はクラシックとそこまで縁の無い生活を送ってきたようで、ぱっと曲名が出てこない奴ばかりだ。「えー、タイトル分かんねえ。あれは? たらたらたららららんみたいなやつ」「音痴か!」「ベートーベン」「それ曲名じゃなくね?」とてんやわんやだった。
 このままだと収拾がつきそうにない――そんな状況で手を挙げたのは、一人の男子生徒。
「――なあ。マジでなんでもいいのか」
 そいつは野球部の副キャプテンで、坊主頭と筋肉でぱつぱつのワイシャツが印象的な奴だった。夏に部活を引退するまでは毎日泥だらけになって白球を追いかけていたはずだ。まるで選手宣誓みたいにまっすぐ手を挙げるものだから、これから試合でも始まるんじゃないかと錯覚してしまう。
「なんでもいいけど……まあ、なるべく有名どころで頼む」
 真砂の言葉にうん、と頷いたそいつは、そこで少しだけ視線を彷徨わせた。
 ……なあ、もしかして。おれの思い違いかもしれないけどもしかして、こいつってさ。
 そういうことだったりしない?
「……『ラ・カンパネラ』が聴きたい」
 なにそれ? と誰かが言った。あ、それ知ってる、と他の誰かが言った。あいつクラシックとか聴くの、とおそらく同じ野球部であろう誰かが言って、でも野球部副キャプテンの発言に一番驚いていたのは真砂だった。
 ゆったりとした低めの声で、「クラシック曲それしかまともに知らないけど、俺の一番好きな曲。弾ける?」と穏やかな問いかけが教室に落ちる。
 真砂は少し黙って、はっきりと宣言した。
「――弾く。オレも好きだ、その曲」
 けっして誰も示し合わせたわけじゃないのに、真砂が深く息を吐いてピアノの前で構えると、音楽室の中は途端に静かになった。鍵盤が何度か小さく鳴らされて、そして。
 そこからは、いつもの真砂だ。
 リクエストがあった曲は、曲名を知らないような奴でも演奏を聴けば「ああ、これか」と思うであろうくらいには有名な曲だった。繊細で美しい音色なのにそれを弾いている真砂の手が休む間も無く次々広範囲を跳ねていくものだから、あまりのことに思わず見蕩れてしまう。おれには目で追うのもやっとな速度で恐ろしいほど正確に打鍵を連ねるそいつ。きっと手にかなりの負荷がかかっているであろう動きなのに驚くほど優雅だ。どれだけ長い期間弾きこんできたのかがうかがえる。
 高い音がとても印象に残る曲だと思った。とにかく使う鍵盤の範囲が広くて、左右の移動が多い。似たフレーズが繰り返し、どんどん複雑に重なってやってくる。音色がどこまでも深くなる。
 みんな、息も殺して演奏に聴き入っていた。懐かしい。おれがこいつの世界に初めて触れたあの日だってそうだった。こいつの紡ぎ出す世界はこんなにも美しく、繊細で、何より情感にあふれているのだということを、みんな分かってくれただろうか。
 うっすらと涙が滲む。おれにはそれが、今自分にできる最も素直な感情表現であるように感じた。
 その涙を引っ込める暇も無く、演奏はおそらく一番盛り上がる場面へと突入した。大きく広げた手で強く鳴らされる鍵盤。ぞくりと内臓に響く音。全てが混ざり合って体の中を吹き抜けていく。時間にしておそらく二十秒ほどの奔流の後、フィニッシュは確実に、丁寧に。ゆったり長く最後の音が鳴らされて、真砂は静かに腕を下ろした。
 ――最初に拍手をしたのは一体誰だっただろう。恥ずかしいことに、少なくともおれではないということははっきり言える。そのくらい圧倒されて、指先ひとつ動かせなかったから。
 一人の拍手を皮切りに、小さな音楽室は沸いた。割れんばかりの拍手と興奮を隠し切れない人々のざわめき。おれも、痛いくらいの拍手を送る。それでもこんなんじゃ足りないと思ってしまうくらいには、真砂が聴かせてくれた演奏は素晴らしかった。
 当の真砂はというと拍手が予想外だったのかそれとも今更クラスメイトからの注目に焦ったのか、慌てたように立ち上がって深くお辞儀をした。
 きっとこれまでに何度も、こうして観客席に向かってお辞儀をしてきたのであろうことが分かる仕草だった。
 クラスメイトが口々に真砂のピアノを讃えている。「男のくせに」とか、「似合わない」とか、そんなことを言うやつは一人もいない。おれは嬉しいと同時に少しだけ寂しくなった。こいつのピアノはみんなのものになったのだ。こいつの世界は、おれ以外の大勢に向けても開かれた。おれがこの学校で最初に見つけたんだぞ、と言うのくらいは許されるだろうか。
 小鳥の巣立ちを見守るかのような気持ちに浸っていると、野球部副キャプテンが笑顔で真砂に近付いていく。
「――ありがとう。聴けて嬉しかった。お前はすごいな」
「そんな、別に……好きだったから、暗譜できてただけで」
「いや、演奏だけじゃなくて。ちゃんと好きって言えるのがすげえ。俺はずっと言えなかったから」
 お前がピアノやってるって知らなかったらきっと言ってなかったよ、とそいつはまた笑った。途端に四方八方から、「そうだよお前クラシック聴くとか初耳だし!」というような声がかかる。
「こんなガタイと見た目でさ、クラシックが好きだって言うの恥ずかしい気がしてたんだよ。それで黙ってた。好きっつってもこの曲だけだし、詳しくないのに好きって主張すんの、なんか気後れして」
 もっと線の細い奴の方がこういう趣味は似合うんだろうなって思ってて、とそいつは重ねて言う。
「そ、そんなことない……!」
 新しくあがった声は野球部とは別の女子のものだった。つっかえながらも強く断言する彼女。おとなしめのグループにいて、いつも真面目にノートをとっていて、グループワークでは書記をやってる。細いフレームの眼鏡が涼しげな子だ。あんまり目立たないし、大勢の目の前で意見を言うタイプではない。
 彼女は搾り出すように、おそらく彼女の精一杯の大声で主張する。
「わた、わたしだって、地味だし暗いけどネイルが好きでっ、お金無いからそんな頻繁にプロには頼めないけど、自分で塗ってみたりするし……! 似合わないって思われても、やっぱり好きだしっ……ていうか趣味と見た目関係ないじゃんっ」
 ばかにされるのが怖かったけどもう隠さない、好きなことを好きって言えなかったことが一番ばか、と彼女はずんずん歩いて真砂たちの前に出る。
「ありがとっ」
 すぐさま踵を返していつもの友人たちの後ろへと隠れてしまった彼女だったが、きちんとクラス全員に聞こえていたことだろう。あちこちから、「実は俺もお菓子作んの割と好きで」「私もちょっと前からこの漫画ハマってて」「同じ趣味だけど今まで言い出せなくて、一度は話してみたいと思ってた」なんて、秘密のほどかれていく音がする。
 どうして気付かなかったんだろう。
 いや――どうして自分たちだけだと思っていたんだろう、おれは。
 自分ばっかり苦しいなんて、そんなわけないに決まってるのに。こんな簡単なことも分からなくなっていた。
 ふと隣を見ると女子と目が合った。普段は話す機会も殆ど無い、黒髪眼鏡の女の子だ。寧ろおれとその周辺みたいなピアスばちばち校則違反野郎のことは怖がっている感じの子。この子の趣味は読書だということをおれは知っている。けれどこの子はおれの趣味が読書だということを知らない。
 女の子はおれと目が合って、少しだけびくっとした。でも、目は逸らさずにいてくれた。
「おれさ、実は本読むの好きなんだよねー……って言ったら、どーする?」
「え? えっと…………な、何の本が好き?」
「…………『人間失格』が好き。太宰治の」
 その子は、我が意を得たりとでも言いたげに笑った。おれの趣味を馬鹿にするような意図はどこにも見えなかった。
「わ、私も好き! 太宰は『女生徒』も好き……あと、芥川の『邪宗門』とか」
「未完の名作じゃん。おれも好きだよ、異能バトルっぽくてかっこいいよね」
 敢えて出すにしてもマニアックなタイトルだと思ったので嬉しくなってつい言及したら、その子は飛び跳ねんばかりに喜んだ。「分かってくれる人がいた! え、なんで!? なんで教えてくれなかったの!?」本を好きだってことを、だろうか。おれが本を好きだということを、こんなに喜んでくれる人もいるのか。
 ――なんだよこれ。もっと早く話しておけばよかったかも。

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