羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「さて、二週間後の合唱コンクールですが…………このクラスにはピアノを弾ける人がいません! つまり伴奏ができません!」
 六時間目のロングホームルーム。担任がタメにタメて言ったのは、なんとも嬉しくない感じのクラス事情だった。
「せんせー! 普通はそういうのってクラス替えの時点で配慮されるようになってるんじゃないんですかー」
「よい質問ですね。確かにそうなってますが、この学年はそもそもの経験者の絶対数が少なすぎて平等に分けられませんでした。三組の戸塚さんが分割できればよかったんですけど……あ、実はひとつ下の学年には各クラス二人ずつくらい経験者がいるらしいですよ」
「じゃあ俺たちのクラスはアカペラですか?」
「おっ。かっこいいですね。先生は、お隣のクラスから出張してもらえばいいかと思っていました。でも一人で四曲ってどうなんですかね、きついですか?」
「ところで先生は弾けないんですか」
「いいこと教えてあげますけど、高校の数学教師ってピアノが弾けなくてもなれるんですよ」
 漫才みたいなやりとりを聞きつつ、おれはちらりと隣を見る。途端に真砂と目が合って、なんとなく嬉しくなった。だって、たぶん同じこと考えてたんだろうなって分かったから。
「……伴奏者、いないんだって」
「やっぱりな……そんな気はしてたんだよこのクラス」
 どうやら真砂は、過去の二年間を経てこの学年で伴奏のできる人間についてはしっかり把握していたらしい。同年代の身近な奴がどれだけ弾けるか気になるから……とのことだった。こないだ難しそうな顔してたのってこれのせいかな。伴奏者がいないってこと、真砂は事前に予想していたのだ。
 ここで真砂が手を挙げたら、ヒーローみたいに見えるだろうな。
 おれは、豊かな音が流れるあの小さな空間を思い出す。人のいない音楽室はまるで箱庭だった。誰にも邪魔されずに、真砂が真砂らしくいられる場所。でもきっと、いつまでも閉じているわけにはいかないのだ。おれたちだけの秘密にしているのは、もったいないことなのだ。
 おれは真砂を応援したい。これから先もずっと、楽しそうにピアノを弾いているところを見たい。そうすればこの胸のもやもやや寂しさが薄れるような気もする。
「……弾かない?」
 意を決して小さく尋ねてみる。真砂は俯いて、
「オレが……弾いていいのか、分からない」
 と言った。
「弾きたくない?」
「そういうわけじゃない。やっぱり少し怖いってだけ。……この先人前でピアノ弾きたいなら、いちいち気にしてたらだめだって分かってる。偏見なんてどこにでもあるのにな」
 そもそも、とそいつは続ける。たとえ何を言われていたって、オレのピアノが圧倒的に凄ければみんなその凄さに黙るはずなのだ、と。今までピアノを弾くことを隠してきたのは、自分にそれだけの実力があるのか真正面から突きつけられるのが怖かったからなのだ、とも言った。
 確かに、プロの男性ピアニストはたくさんいるし、古典名作と呼ばれる数々のクラシック曲を作ってきた高名な作曲家たちは圧倒的に男性が多い。ピアノの鍵盤自体、手も体も大きい男性を基準にデザインされたものなのだろうと思う。そうでなければもう少し鍵盤の幅は狭くなっていたはずだ。
「自分に自信が無かったから、自分の好きなことにも自信が持てなかった。ピアノにも失礼だったと思う、これまで。どうしてちゃんと向き合えなかったんだろうって思ってたけど……なんか、お前と一緒にいるといい方に向かっていける気がするんだ」
 どきどきしてくる。確実に何かが変わろうとしている。真砂はきっと、新しい一歩を踏み出そうとしているのだ。
「オレは、好きなことをちゃんと『好き』って言えるようになりたい。……伴奏も、任せてもらえるならやってみたい……」
 確信した。こいつは、二週間後の合唱コンクールで素晴らしい伴奏を聴かせてくれるだろう、と。
 教室内を見回すと、隣のクラスの女子に頼むかそれともクラス内でどうにかこうにか頑張るべきかという正反対の方向で議論が白熱していたところだった。家にピアノが置いてあることをリークされた保健委員の門倉さんが、「お姉ちゃんがピアノやってるだけであたしは弾けないから! っていうか楽譜読めないし! むりむりむり!」とかわいそうなくらいに叫んでいる。おれたちには誰も注意を払っていない。
 真砂の手に指先で触れる。ピアノで鍛えられて感覚が鋭敏になっているのか、僅かに触れただけで真砂は驚いたように体を跳ねさせた。
「おれにも協力させて。いい?」
「え?」
 わけが分かりませんって顔でそれでも頷いてくれるそいつ。そんなに簡単に頷いちゃっていいのかな、と気恥ずかしくなりつつ、おれは大きく手を挙げた。
「せんせー! おれ、推薦したい人がいるんですけど!」
 おれが手を挙げたことによって注目がこちらに集まる。え、という微かな声が耳に届く。ついでに真砂も「は?」って言ってた。いや、なんでお前は驚いてるんだよ。おかしいでしょ。
「おっ。志波くん、自己推薦ですか?」
「いやいやおれは弾けないっす。でもね先生、神原くんはピアノ弾ける。伴奏もできると思う」
 一瞬の沈黙の後にざわめきが広がる。真砂は斜め下を向いて固まってしまっていて、あーまずったかな、と少しだけ不安になる。どこかから、「えー……マジ? なんか意外」と聞こえた。ああ、だめだ。それは言っちゃだめなんだよ。自分のことでもないのに泣きそうだ。どうしてなんだろう。
 一瞬で体温が下がった。……けれど、その言葉にはちゃんと続きがあったのだ。
「――意外だけど、ピアノ弾けるってかっこいい」
 確かに聞こえた。意外で、だけど、かっこいい、と。思わず隣を見る。そいつはもう俯いてはいなかった。
「神原くん。志波くんがきみを推薦してくれています」
 担任の言葉に、真砂はこくりと唾を飲み込んで微かに口を開いた。……言いよどんでいる。何を言えばいいのか迷っているのだろう。
「ああ、もちろんやりたくないなら無理にとは言いませんよ。無理強いはしたくないですもんね? みなさん」
「や、別に嫌とかではない……っす、けど」
「けど?」
「……急にピアノ弾けるとか言っても、信用してもらえないと思って」
 うーん、相変わらず変なところで気を遣うというか気が小さいというか……。心配しなくても、たとえ真砂に信用が無かったとしてもおれの言葉にはそこそこ信用があるから大丈夫だよ。なんて失礼すぎることを思っていると、担任は急に笑顔になっていきいきとした声を出す。
「なるほど。じゃあ今から音楽室に行きましょう、確かこの時間はどこも授業入ってないです。何か弾いてください」
「えっ」
「先生はショパンが好きです。きみは?」
「え、えーっと、あの、リスト……」
 ほらみなさん立って立って、と担任に急かされて立ち上がる。この担任、話を振っておいて最後まで聞かない。他のクラスが授業中なのにぞろぞろ廊下歩いて、おまけに特別教室を勝手に使っていいんだろうか。……まあいいか、教師が率先してるんだったら。
 なんか楽しみだね、とか、何の曲弾くんだろうね、とか、そういう囁き声があちこちから聞こえる。おれは思わず真砂の制服の袖を掴んだ。
「響?」
「……お前ならいける。がんばって」
 すると、そいつの表情がほっとしたとでも言いたげに和らいだ。どきっとする。これはきっと、おれにしか見せたりしない表情だろうから。
 不思議と頬が熱い。もしかしておれまで緊張しているのだろうか。
 音楽室までの道のりは、なんだかあっという間だった。

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