羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 家に帰って、音楽を専門的に学ぶ大学について少し調べてみた。検索して一番上に出てきたサイトを色々見てみたら、大体今くらいの時期に「課題曲」というものが発表される……らしい。芸術系の学部ということでもちろん実技があって、弾くだけでなく音を聴くことや正確に発声することも求められることがあるそうだ。ひとくちに「音楽の学部」といっても、曲を弾く人、作る人、指揮をする人――その種類は多岐にわたる。
 次に調べたのは通学時間だ。とりあえず有名どころを一校選んで、路線を検索してみた。地元から新幹線の通っている駅まで電車で行って、新幹線に乗って、着いたらそこからまた学校の最寄まで電車。どう短く見積もっても二時間以上だ。
「遠いなぁ……」
 思わず独り言が漏れた。そして、真砂との会話の続きを思い出す。
『受験対策とかは、音大用のをしてるんでしょ』
『ん。行きたいとこ母親がOGだし、ツテとか使って音大受けるための勉強はそれなりに早く取り組めたと思う。普通の大学で言うオープンキャンパスみたいなのもちゃんとあって、長期休みに行ったりとか……あ、そのときは髪黒かった。もちろん』
 どうやら神原一家は元々その都会の方に住んでいたらしくて、真砂も本来だったら希望する音大の附属高校を受験するつもりだったらしい。けれどお父さんの転勤で引っ越すことになってこちらに家を買って、もうここに定住するつもりのようだ。つまり実家はずっとここってことかな?
 お母さんは元々自分の母校の講師をしていたけれどこちらに移り住んでからは勤め先の学校も変わって、空いた時間をピアノ教室をして過ごしているんだとか。今回の大学受験、真砂にしてみれば地元を出るというよりは戻る、って感覚なのかもしれない。なるほど、だから前に「高校には知り合いいない」みたいなこと言ってたのか。
 ……もしかしたら、ピアノやってること馬鹿にされたくないから音楽高校行きたかったのかな。そういう学校に行けば周りは音楽やってる人ばかりだろうから。
 おれは軽くため息をついた。真砂のピアノは素晴らしいものだと思う。将来の夢も、その技量に根ざしたものだ。都会に出て専門的なことを学ぶのはきっとあいつの人生にとって必要なこと。そう思うのに、やっぱり寂しい気持ちがした。

 じりじりと、なんとなくの不安を抱えながら時間は過ぎていった。ある日真砂が担任と立ち話をしているのを見かけて、つい話の内容が気になってしまったおれは二人の会話が終わるまで待つ。
 うちのクラスの担任は、教師の中でもそこそこ珍しい「真砂を怖がらない教師」だった。怖がらないから担任に宛がわれたのだろうか? 何故かこのクラスでの授業の受け持ちは無い。担任なのに。ぼんやり考えているところに会話を終えたらしい真砂がこちらに気付いて、小走りに駆け寄ってくる。
 ……うーん。優越感。何故だ。
「響? どうした?」
「えー、んー、珍しく先生と喋ってたから。どうしたのかなと思って」
「ああ……ほら、進路の面談。予定が入って日程ずれるとかなんとか? 流石に願書出す段階になったら色々隠しておけねえし、心の準備しねえとな」
 うぬぬ……そっかぁ、学校側にばれちゃうのか。ちょっと残念だけど仕方ない。いつまでもおれたちだけの秘密にはしておけないのだ。だってこいつのピアノはいずれ、もっと広く人に聴かれるようになるはずだから。
「……なあ」
「ん? どしたの?」
「なんかお前最近機嫌悪い?」
「えっ! 全然そんなことないよ」
「そうか? ならいいんだけど……オレが何かしてたら嫌だなと思って」
「何も無いってー! おれそんな不機嫌オーラ出してた? ごめんごめん」
 不機嫌なのではない。きっと寂しいのだ。真砂が遠くに行ってしまう気がして。いずれ物理的にも遠くに行ってしまうのが分かっていて。
 よく分からない焦燥感をなだめつつ、おれは頭の中でカレンダーを思い浮かべながら努めて明るく言う。
「そ――そういやもうちょっとしたら合唱コンクールじゃん?」
「そうだな、今年は確か会場ホールだし……最後の年に被ってよかった」
 上手く話題が逸れてほっとする。この学校の合唱コンクールは、三年に一度体育館ではなく大きなホールを借りて行われるのだ。毎年ではないのは予算の関係なのだろうか? ともかく、有終の美という感じでなかなかいいタイミングだ。
「今年は誰が指揮者と伴奏やるんだろーな」
 なんとはなしのおれの言葉に、真砂は少しだけ難しそうな顔をした。「どったの?」「いや……んー、なんでもねえ」もしかして弾きたいのかな、と思ったけれど、なんでもないとこいつが言ったのだから無理に聞き出すことはしないでおこう……と理解者ぶってみるのだった。

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