羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 真砂の新たな一面にまんまと翻弄されてしまってちょっと悔しいおれである。気を許してくれてる、ってことなんだと思っておこう。あれもこれも全部「特別扱い」だとしたらまったく悪い気はしないし、むしろ嬉しい。
「ね、ピアノ弾いて」
「ん? 何がいい?」
「真砂の好きなやつがいい」
 風の冷たくなってきた屋上で、おれは真砂に自分の腕を差し出す。
 いつの間にか昼飯を一緒に食べることが習慣になって、それはおれにとって毎日の楽しみだった。人目につかないようにわざわざ寒い中カーディガンを制服の上着の下に重ね着して屋上に出るおれたちは、昼飯を食べ終わってから予鈴が鳴るまでの間に内緒話をする。おれの腕の上でピアノを弾いてもらうのもその一環だ。エアギターならぬエアピアノというやつだろうか? おれの腕はあるのだから完全なエアではないかもしれない。細かいところは気にしない方がいいだろう。
 そう頻繁に音楽室は使えないけれどピアノ弾いてるところが見たい……というわがままな要望は自分の腕を鍵盤代わりに提供することで叶えられた。実際に綺麗な音が鳴るわけじゃないけれど、制服越しに伝わる指の感触はまるで自分も演奏に参加できているみたいな感じがする。どんな音だろう、と想像しながら指の動きを感覚で追うのは不思議と楽しい。こんなに静かなのに、体の中は音で溢れているような気分になる。
 真砂にはきっと正解の音が聞こえているんだろうな。
「お前の腕、黒鍵が弾けねえんだけど」
「えっ、えっ、おれの腕不良品!?」
 笑い混じりに「そうじゃなくて」と演奏をストップする真砂。どうやら、おれの腕にたくましさがゼロなばっかりに、黒鍵のあるべき場所を押さえようとすると本当のエアピアノになってしまうらしい。縦幅が足りないってことか。
「じゃあふとももで弾く?」
「変態みたいだろそれじゃ」
「えー? んなことねーよぉ」
 しかしいざそいつの指がおれのふとももをちょっと指先で押さえると、途端にくすぐったくて我慢できなくなってしまった。重ね着してる腕と違って布が薄いからだろう。思わず笑い声をあげてしまって真砂も噴き出す。「こんなに動きまくるピアノ弾いたことねえよ」しょうがないじゃん、新人ピアノなんだから。大目に見てほしい。
 いつもだったらこんな感じでだらだら馬鹿やって過ごすのだが、今日はちょっと真面目な話になった。真砂が、「響はもう進路決めてるのか?」と尋ねてきたからだ。
「とりあえず大学には行くつもり。本命を学部違いでふたつ受けて、滑り止めを三校くらい……一校はセンター合格狙ってる」
「推薦とかではねえんだな」
「おれ素行があんまりよくないからねー。真砂も進学? やっぱ音楽ができるとこ?」
 即答されるかと思いきや、真砂はここでほんの少し俯いた。
「……音楽関係で行きたい大学はある、んだけど。ちょっと遠い。だから迷ってる」
「遠い? もしかして海外留学とか?」
「いやそこまでじゃねえよ……でも新幹線の距離だ。合格できたら確実に一人暮らし」
 やはりというかなんというか、何事もトップクラスの水準の学びを得るためにはまず都会に出て行く必要があるらしい。それが芸術関連の学校なら尚更なのだろう。
「本当は迷ってる暇なんてねえんだけどな。もう課題曲も発表されるし」
「んーと、親御さんが一人暮らしに反対してるとか?」
「全然。母親の母校なんだ、そこ」
 じゃあ何も迷うことなんてないじゃないか、と思う。真砂のピアノは疑いようもなく素晴らしいものだし、都会でも十分に通じるはずだ。将来音楽の仕事をしていくのにも必要な環境が向こうには揃っているだろう。
 ――あ。でも、そしたら、高校卒業したら会えなくなるのか。
 おれは進学も就職も地元を考えているから、ひょっとすると卒業したらずっと会えないかも。……それは寂しいな。まあ、おれが口出しできたことじゃないんだけどさ。
「……おれ、真砂のピアノだったらどこに行っても大丈夫だと思うよ。だってほんとに綺麗だから」
 真砂は一瞬だけ目を瞠って優しく笑った。「ありがとう。嬉しい」おれは思ったことを言っただけだし。お世辞なんか言わねえもん。でも、寂しいって思ったことは黙っておいた。なんだか恥ずかしかった、から。
 真砂はしばらく黙っていたが、やがて小さく「……ピアニストになりたいって昔から思ってた」と呟いた。
「そう、なんだ。やっぱり」
「ん……たくさん練習してきたけど、それだけでなれる職業じゃないってこともちゃんと分かってる。芸術系の学校って就職率低いから、それなりに覚悟決めて進学しなきゃなんねえ。オレ、今の時点ですら自分がピアノやってること胸張って周囲に言えねえのに……そんな奴がなんで他と競えるんだ、とか、色々……思ったりして」
 真砂は珍しくたくさん喋った。もしかして不安な気持ちが真砂をそうさせているのだろうか。
「……悪い。変な話聞かせちまって」
「なんで謝るの。いいじゃん、悩むのはそれだけ真剣に考えてるってことじゃん。周りとちょっと違うことするの、大変だろうなって思う」
 聞かせてくれてありがとう、と言ってみた。たとえ、夏休み最終日にたまたまこいつのピアノを聴いて、たまたま秘密を共有できたからこうして話してもらえたのだとしても、嬉しかった。おれが夢を話すに値する人間だと思ってもらえたってことだから。
「おれでよければ、どんどん話して」
 本心からそう言った。すると真砂の口から、意外な言葉がこぼれてくる。
「……お前だから話したんだよ」
「え?」
「もしあの日音楽室に来たのがお前じゃない別の誰かだったら、きっとオレはこんな風に屋上で飯食ったりしてなかった」
 そう、なんだろうか。おれは、もう少し自惚れてもいいんだろうか。
 咄嗟に声が出なかったけれど下手に相槌をうつのはよくない気がして、結局黙りこくってしまう。数秒の沈黙の後で、ようやく「ありがとう……」とだけ言えた。
 こいつが夢を叶えた暁には、びっくりするくらい広いホールでこいつの音を聴くことができるかもしれない。
 そんな期待と一抹の寂しさが混ざり合って、おれの心を秋の風が吹き抜けていった。

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