羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「っつーかお前、風呂入れよ」
「え……」
 電子レンジを数秒おきに監視しながら男に声をかけると、意外そうな表情をされてしまう。そいつの髪からはぽたぽたと雫が滴っていて、服もぐっしょり濡れている。このままでは風邪をひくだろう。そんなことになったらわざわざ連れて帰ってきた意味がない。
「でも、おにーさんだってまだ入ってないのに」
「びしょ濡れで何言ってんだ。っつーか床! 床が濡れるんだよ!」
「えっ、あー……うん、そうだよねぇ」
「それに、さっき手触ったときめちゃくちゃ冷たかったし。体温下がるとよくねえだろ、あっためてこいって」
 髪の毛を頬にはりつけて佇むそいつは、少しの間悩んでいたようだがやがて「いいの? ほんとに? ……じゃあ、お風呂借りるねー」と脱衣所に入っていった。
 男を見送って、俺は温め直した弁当をもくもくと口に運ぶ。今すぐ寝れば六時間は眠れるだろう。睡眠時間は貴重だ。食べてすぐに寝るのは身体に悪いが仕方ない。シャワーは明日の朝でいいだろう。湯にあたって眠気が醒めてしまっても困る。
 自分の中の冷静な部分では、赤の他人が家にいる状態で無防備に寝るなんていけないと分かっている。が、睡魔は関係なしに襲ってくる。明日も仕事だ。繁忙期以外はそこそこ定時で帰れる職場なのだが、今日は特に遅くなってしまった。
 重い体をどうにか動かし、洗面所へ行って歯ブラシを手に取る。背後の扉越しにシャワーの音が響いていて、俺は少しだけ考えた後にそちらへ向かって声をかけた。
「おい」
「なーにぃ?」
「俺はもう寝るから、お前も適当に寝ろ。言っとくけど客用の布団なんざ無いからな。毛布くらいなら出しておいてやるけど」
「ん、なるべく邪魔にならないようにするよ」
「現時点で邪魔なんだが……まあいいや。あ、今から洗面所使うからな。ちょっとシャワーの出が悪くなるけど文句言うなよ」
 暫く返事がこなくて、聞こえているのかと再び声をあげようとしたとき。シャワーが風呂場のタイルを叩く音にまぎれて「……おにーさん、やっさしー」と楽しげな声音が反響するのが聞こえた。茶化しやがって。
 俺は歯磨きを済ませ、男の為にわざわざタオルを出し、本来自分用だったはずの着替えも出し、毛布も用意し、倒れ込むように布団に入った。目を閉じるとあっという間に意識は落ちていく。遠くに聞こえるシャワーの音が余計に眠気を誘って、久々に自分以外の人間の気配があることに何故だかひどく安心した。

 目を覚まして、俺は真っ先に男がどこにいるのかを捜した。毛布は目立つところに出しておいたが、寒くはなかっただろうか。
「うわっ……」
 一人暮らし用の部屋なので見る場所自体多くはなく、俺はすぐにそいつを見つけることができたのだが、思わず小さく声をあげてしまう。なぜならそいつは毛布にくるまって、膝を抱えるように座って寝ていたからだ。
 いや、確かに昨夜は邪魔だのなんだの言った気もするが、こんなあてつけみたいに隅っこで寝られても罪悪感が湧くだろ。
 俺は少しの間考えて、そいつの体を慎重に抱え上げる。おそらく成人男性であるこいつを抱えられるか少し不安だったが、少し足元がふらついただけで問題なく歩くことができた。っつーかこいつ、軽いな。
 そうしてさっきまで俺が寝ていた布団にそっと横たえる。布団の中はまだ温かかったのか、そいつは表情を緩め体を小さくしてすやすやと眠り続けた。男に寝床を分けるなんて寒気がするが、あのままじゃ俺がこいつをいじめているみたいだったのでこうするしかない。
 手早く風呂に入って眠気を吹き飛ばすと、いつものように慌ただしく準備をしてすぐに出勤時間になる。布団に入ったままの男は起きない。まったく暢気なもんだ。
 ここで叩き起こして追い出してもよかったのだが、今日も生憎の空模様。流石にこの冷たい雨の中外に放り出すなんて鬼畜な所業はできない。まあ、今日が終われば明日は久々の休みだしどうとでもなるだろう。荒れ果てたこの部屋も早いところどうにかしなければ。
 この時点で既に、男に向かって「一日で出ていけ」と言ったときの威勢の良さは萎んでしまっていた。どうやら、厄介ごとを抱え込んでしまったらしい。
 俺は心持ち静かに玄関の扉を開けて、今日こそは早く帰ってこようと堅く心に誓ったのだった。
 ああもう、結局まだあいつの名前すら聞いてないじゃねえか。

prev / back / next


- ナノ -