羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 どうやら真砂はショートショートが気に入ったらしい。やはり隙間時間で読めるのが決め手だったのだろうか。
「長編小説ってどこで読むの中断すればいいか分からなくて手出ししづらかったんだよな。本当は一気に読むのがいいんだろうけど、オレ読むの遅いしそこまでまとまった時間あんまり取れねえし」
「あー、きりのいいところまで読もうって思ってたらいつの間にか最後まで読んでたこと割とあるわ」
「次の日寝不足にならねえ?」
「めちゃくちゃなる。数学が眠すぎてやばい」
 体育祭の競技の待ち時間。おれと真砂は、日陰に入ってのんびりと玉入れの様子を眺めていた。グラウンドからは少し離れた場所なので周囲に人はいない。こういうときこそ本を読んだりしないのか、というおれの問いは、砂埃が舞って本を汚しそうだから、と丁寧に打ち返される。こういうところもかなりポイントが高い。借り物を大切に扱うのはそりゃ人として当たり前のことではあるのだが、ここまで気を遣ってくれる人というのはなかなか限られてくるだろう。
「読書感想文以外でちゃんと本読むのかなり久々だ」
「やっぱり自由時間は全部ピアノ?」
「大体はな。別に強制されてたとかじゃねえんだけど……最初は、サボったらどんどん下手になる気がして怖かったんだよ。今はもう、弾くのが生活の一部になってて。だから怖くて弾いてるわけじゃない。どんどん表現の幅が広がっていくのが今は楽しい」
 修学旅行とかのときはずっとそわそわしてた、と笑う真砂。そっか、泊りがけの旅行は鬼門なのか。
「なんだっけ、そういう格言みたいなのあるよな? 一日サボったらどうこうみたいな……」
「『一日練習しなければ自分に分かる』?」
「そうそれ!」
「『一日練習しなければ自分に分かる。二日練習しなければ批評家に分かる。三日練習しなければ聴衆に分かる』――ってやつだな。これ、言ったのピアニストなんだよ」
「そうだったんだ……知らなかった」
「まあ、ピアノに限らずある程度の技術が必要なものって全部こうなんだと思うけど。ピアノだけが特別なわけじゃない」
 そうは言っても、毎日続けるのはやっぱり大変だよ。他の人もやってるからその努力の価値が下がる、なんてことにはならない。頑張れるってすごいことだ。
「ピアノが傍に無いときとか、無意識に指で机叩いてたりするんだよな……」
「すげー。やっぱ体が覚えてんだ」
「ふ、そうかも。……ここからここまでが一オクターブ」
 おれの腕をピアノに見立てているのか、真砂がゆったりと腕の上で手を広げる。まるで鍵盤が見えているかのようなよどみない手つきだった。改めてまじまじと見つめるとやはり綺麗な手だ。身長に見合った大きな手に、ほんの少し骨ばった長い指。手首のところの骨がぼこっと出ていて、肌に淡く影を作っている。真砂の指先が触れた部分はじんわり温かい。
「……真砂の手ってなんかエロいわ」
「は?」
「全体的にエロい感じの手してる! んーと、綺麗だなってこと。ピアノ弾く男が好きな女子って割と多くね? こういうエロさに惹かれてんのかな?」
 なんだよそれ、と真砂は笑う。よかった、褒め言葉だというのは伝わったらしい。真砂の手が離れていって少し名残惜しく思ってしまったのはきっとこの涼しい気候のためだろう。体温というものは時折驚くほど温かいし逆も然りなのだ。
 おれから離れて何度か手をぐーぱーさせていた真砂だったが、やがてふと思いついたといった風にこちらを見てくる。投げかけられたのは、短い問いだ。
「お前は?」
「え、おれ?」
「響も好きか? その、『ピアノ弾く男』ってやつ」
 好きだよ、と即答しかけて声が詰まった。だって、なんか、この話の流れでおれがそれを答えるのは……ん? おかしくない? そんなことない?
「す、すきだよ」
 あっ、どもってしまった。余計に気まずいじゃん! 変に恥ずかしくなって「急になんなのぉ……」とへろへろな声をあげてしまう。ううー、告白失敗した人みたいだ。なぜおれがこんな辱めを受けなければならないのか!
 急に変な質問をしてきた真砂はというと、おれを見て「なにキョドってんだよ」とまた笑った。でもその笑顔はこれまでに見たものと全然違う。ちょっぴりいじわるな感じで目を細めて、微かに吐息を漏らすような妙に大人びた笑い方だった。厳しめな雰囲気の顔立ちと相まって非常にエロス溢れる表情である。……おれには無いものである。
「……どっちが素?」
「は? 何が?」
「おれが言うことに振り回されてわたわたしてくれる真砂はかわいかったのにー!」
「いや意味分かんね……おい、暴れるなって」
 やり場のない思いを抱えて万歳みたいに振り上げたおれの腕の、手首辺りを真砂はいとも簡単に掴んだ。いや、掴んだというよりは包んだという感じ。そのくらい、大きくて温かい手のひらだった。
「お前の手首ほっそ」
 いや、お前、めっちゃ笑うじゃん。なんなの。なんなのだお前は。謎のフェロモンみたいなものが出ていませんか、真砂さん。
「――、これは体格差的に仕方ないのでは!? 言っとくけどお前の手首も細いから!」
 気付けば玉入れはとっくに終わっていて、おれはどぎまぎしながら辺りを見回す。どうしてかは分からないのだが、この光景を誰かに見られていないかが気になって仕方なかった。

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