羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 その日は雨が降っていた。
 繁忙期の度重なる残業に心をすり減らしていた俺は、日付が変わろうかという時間にコンビニの弁当を提げ、なんとも侘しい足取りで歩く。頭の中では迫りくる納期と分からず屋の顧客と家賃光熱費の引き落とし諸々のことで一杯で、だから人影に気付かなかった。
「うわっ……!」
 こんな深夜にまさか自分以外の人が歩いてくるとは思わず盛大にぶつかってしまう。更に驚いたのは、ぶつかった相手が傘を差していなかったことだ。ふらついた相手の腕を咄嗟に掴み、「大丈夫か?」と問う。
 随分と、顔立ちの整った男だった。暗がりでも分かる。街灯にぼんやりと照らされて、そいつは怠そうに「あー……ごめんねぇ、ぶつかっちゃって」と言った。
「いや、別に……大丈夫か? 濡れてっけど」
 俺はここで、とんでもない失言をしてしまったのだ。別に本気で心配したわけではない、なんとなくいい人ぶってしまっただけだ。「大丈夫じゃない」と言われたところで俺は傘を二本も持っていないし、自分が濡れてもいいと傘を差しだすようなお人よしでもない。それなのにその時に限って気遣うような言葉を吐いてしまったのは、そいつがびしょ濡れでまるで捨てられた子犬のような目をしていたからだろう。いや、錯覚に決まっているがともかく俺にはそう見えた。見えたから、つい口出しした。それだけでなく一瞬、傘を傾けてそいつの上に差した。そしたら。
「……おにーさん、仕事帰り?」
「は? あ、ああ……」
「大変だねぇ。ね、それコンビニ弁当じゃん。自炊しないの? 栄養偏らない?」
「時間ねえし疲れてるし物理的に無理なんだよ……なあ、悪いけど俺、明日も早いし傘も余分には無いからやれねえ――」
 突然話を振ってきたそいつになんだか嫌な予感がする。適当に切り上げて帰ろうとすると、傘の柄を握った手にそいつが触れてくる。ひんやりと、あまりにも冷たい指先だった。
「――――おれを飼ってみない? おにーさん」
 薄い唇が綺麗に弧を描いて、思わず見蕩れた。数秒後、ようやく脳が言葉の意味を吟味し始める。
「は――あ? なん、……飼う、って、どういう」
「おにーさんの家におれを置いてよ、ってコト。ね、だめ? かみつかないよ。大人しいよ。掃除も洗濯も料理もやったげるし、おまけにみてくれも悪くないでしょ」
「はあ!?」
 やっぱり無視して帰っておけばよかった、と思った。変質者に話しかけられるし、弁当はこうしている間にも刻一刻と冷めていくし、踏んだり蹴ったりだ。勘弁してくれ。
「俺は男を家に招き入れる趣味なんてねえんだよ!」
「えー。女の方が問題でしょ、この場合。おにーさんのしてほしいことなんでもするよぉ? おれ行くとこないんだもん。このままじゃ雨に打たれながらコンクリートの地面で寝ることになる」
「っ……!」
 最寄りの警察署までこの雨の中、走っても十分近くかかる、と俺の脳味噌はやけに冷静にそんなことを考えていた。保護してもらえるだろうか。それ以前にこんな深夜じゃ開いてるかどうか。俺は弁当と目の前のそいつと傘を順繰りに見て、疲労感に押しつぶされそうになりながら言う。
「一日だけだ。明日になったら出ていけよ! 一日だけだからな、マジで」
「わ。ありがとぉ」
 ゆるゆると笑うそいつの顔は変わらず整っていて、憎たらしいことにこんなとんでもない要求をされていながらあまり不快感が無い。顔のいい奴は得だ。こうして色々なことを許されるのだから。
「マジで一日だけだからな……」
「もー、そう何度も言わなくても分かってるってばぁ。しつこいな」
 まったく嬉しくない相合傘をして自宅のアパートへと急ぐ。俺の部屋は、二階の一番奥の部屋。未だ名前すら名乗らない綺麗な男は、俺が扉の鍵を開けるのを宣言通り大人しく待ち、やけにお行儀よく「お邪魔しまぁす」と一歩、俺の後に続いて部屋に足を踏み入れる。
「…………、」
「……おい? どうした?」
 急に静かになったそいつを不審に思い声をかけると、とても可哀想なものを見るような目でこちらを見てくる。そして、いかにも気遣ってますみたいな口調でこう言った。
「部屋、掃除しといてあげるね……」
 おいどういう意味だこら。男の一人暮らしにしてはマシな方だろ、この部屋は。俺はかなり心外な気持ちで、しかしその直後に自分が踏みつけている布がくたびれたワイシャツだということに気付き、もうどうにでもなれとすっかり冷めてしまった弁当を温めなおすべく電子レンジの方へと向かったのだった。

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