羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 畳のいい匂いで目を覚ます。
 静かな部屋だ。障子に太陽の光が透けている。ふかふかの布団は温かく、障子越しに時折さわさわと風の音が聞こえる。
 一瞬状況が掴めなくて、けれど自分が気を失う直前のことを思い出せた俺は状況整理よりも先に頭を抱えた。意識が朦朧としていたとはいえ、とんでもないことを言ってしまった。未成年相手に公然猥褻で訴えられるなんて洒落にならない。社会的に死ぬ。
 どうかどうか警察のご厄介だけは……と神頼みするしかない俺である。それにしても、なんでこんなタイミングで発情期が来たんだろうか? ホルモンバランスでも狂ってたのかな。
 何にせよ薬の管理の徹底を心に誓った。二度とごめんだ、こんなの。
 ……幸いなことに体調は既に落ち着いている。薬がよく効いているらしい。
 一息ついて思い返すのはやはり俺を助けてくれた男の子のことで。あのときは半分意識トんでたから細かいことはよく覚えてないんだけど、すっごく優しい声の子だった。産まれた瞬間から勝ち組支配者階級だからもっと俺様で偉そうな感じに育つもんだと思ってたんだけど、全然そんな感じしなかったな。
 とにかく助けてもらったお礼を言わなくちゃ。
 起き上がって、服装が最低限整っていることを確認して障子を開けた。すると。
「ああ、お目覚めのようですね。お体の具合はいかがですか?」
「万里が血相変えて帰ってきたから何事かと思ったけれど、大事無いようでよかったよ」
 障子の向こう、広い広い庭に面した廊下の先に、俺より少し年下だろうか……というくらいの男女が立っていた。その二人よりも更に向こうに、俺のことを助けてくれた子が速足でこちらに歩いてきているのが見える。「兄さん、姉さん。すみません、騒がしかったでしょうか」どうやら兄弟であるらしい。記憶に違わない優しい声音に胃があったかくなる感じがする。改めてよく見てみると、お姉さんの方はあまり似てないけど、お兄さんとはそっくりな顔立ちをしていた。
 よかった、もう顔色悪くないですね――と笑ってくれたその子に安心して、「あ、ありがとう。助けてくれて……」と数メートルの距離を駆け寄る。いや、もう、完全に油断してたんだけど、不用意に近付いてしまった。
 不自然な距離でその子が立ち止まったのにも、その子のお兄さんたちが廊下から庭に降りたのにも、理由が無いわけなかったのに。
「う、わ」
 くらくらした。匂いで分かる。この人たち全員αだ。
 広い屋敷で換気が十分すぎるくらいできてるから気付くのが遅れた。おそらく俺のことを気遣って一定の距離以上近付かないでくれていたのだろう。
 特に男の子とそのお兄さんは遺伝子が近いからなのか俺の受ける影響が強くて、別に密着なんてしていない当たり前の距離感なのに軽く酩酊でもしているかのような気分だ。度数の強いアルコールが充満してる空間にいるみたい。一人だけならまだしも何人もは流石にキツい。
 その人たちは俺の短い呻き声に素早く身を引いて、更に距離をとってくれたばかりか風下に移動してくれた。おまけに「申し訳ありません。出てこない方がよかったですね、私たちは」という謝罪つき。や、優しすぎる……。「兄さん、抑制剤は飲んだんだろう?」「もちろん。まだ効ききっていないのだろうか……申し訳ないことをしてしまった」という会話から察するに、わざわざ俺のために薬を飲んでくれたらしい。抑制剤って飲むと具合悪くなったり眠くなったり少なからず副作用出ることもあるのに……自業自得でぶっ倒れた俺の介抱のために、わざわざ。
 結局、お兄さんたちは「念のため医者を呼んで参りますので」なんて、気を悪くした風も無く笑顔でどこかに歩いていってしまった。残ったのは、学ランの上着を脱いだ状態の男の子だけ。
「すみません、もっと離れた場所で事情を説明していればよかったです……具合、悪くなっていませんか?」
「や、へーき……あの、お兄さんとお姉さん? あの人たち、抑制剤……」
「ああ、大丈夫ですよ。今この家にいるαは全員抑制剤を服用しましたから。ご心配なく」
「えっ待って何人いるの!? っつーかそうじゃなくて! 俺のためにごめん、飲まなくていいもの飲ませちゃった……って言いたかった」
 その子は首を傾げて、「αとして生まれたなら当然では? あなたが謝ることは無いと思います」と言った。
 俺たちΩに責任を求めてこないなんて、優しいんだな……と感動してしまう。こんな優しい子に俺はとんでもないことを口走ったわけなんだけど、都合よく忘れてくれてないだろうか。言及すると藪蛇になりそうで何も言えない。
「あの……名前、教えてもらってもいい? ……迷惑かけたお詫び、させてほしい」
「そんな、お気になさらないでください。すみません、ほんとうは病院に運べればよかったんですが……早朝でしたし、薬で落ち着いているなら来院の必要は無いと言われてしまって。この家はαが多いですから、やっぱり不安でしょう」
「いやいや気になるから……! お詫びしないとずっと気にしちゃうから……! 病院も、普段行ってるとこ以外に知られるのちょっと怖いし寧ろここで介抱してもらえてよかったよ。ありがとう」
 俺の必死の訴えが面白かったのか、その子は口元に手を当てて上品に笑った。三白眼気味の瞳に薄いくちびる。なんとなく冷たそうなイメージを湧かせる顔のパーツだけど、物腰柔らかで表情が優しいから全然怖そうには見えない。黙ってたら誤解されるタイプ……かも?
「津軽万里といいます。千里万里の万里です」
「万里? マリちゃんだ……」
「ま、まりちゃん……」
「名前、かっこいいしかわいいね」
 思わず顔がほころぶ。マリちゃんはどうしてだか、ほんのちょっぴり耳を赤くした。
「おれも、あなたのお名前伺ってもいいですか?」
「俺? 俺はねー、由良雪人……理由の由に、良い悪いの良いに、冬に降る雪に人、です」
「ええと……雪人さん?」
 遠慮がちに名前を呼ばれてどきっとした。発情期で頭おかしくなってたとはいえ一瞬でもこの子に『抱いてほしい』と思ってしまったことは確かで、かなり気まずい。俺とは違ってマリちゃんは平然としてるから、余計に。
「――っあ、の、周りの奴からは『セツ』って呼ばれることが多い……かも」
「セツさん。……ああ、雪だからですか。とても綺麗なお名前ですね」
「あ、ありがと……」
 脈拍が速い。薬は効いているはずなのに……なんて、自分を誤魔化す気にもなれない。俺の体が、全身でこの子のことを求めている。今まで誰にも感じたことのないような気持ちだった。αと会うのはこれが初めてってわけじゃないのに。『運命』なんて不確かなもの、まったく信じてなかったのに。
 同時に少しだけ胸が痛んだ。この感情が一方的なものだって気付いてるから。
 俺が両親から聞いた『運命の番』っていうのは、もっと、出会った瞬間お互いだけになるみたいな……そういう、問答無用の繋がりだった。そもそも発情中のΩのフェロモンはかなり強烈で、番を持たないαには覿面効果的であるというのが通説だ。発情期、薬も無しに偶然出くわしてしまうとそのまま犯されてしまう可能性も高い。ただのαとΩが出会ったときすらそうなのだから、仮にお互いが『運命の番』とやらならもっと強烈な何かがあるはずだ。
「――セツさん? 大丈夫ですか?」
「え、あ、……うん。大丈夫、薬も効いてるみたいだし。でも念のために帰って休もうかな」
「それがいいですね。タクシーを呼びますから、少し待っていてください」
 俺に背を向けて歩き出そうとするその子の後姿に、思わず声を掛けそうになってすんでのところで思いとどまる。
 運命を信じる? なんて。
 怪しい宗教じゃあるまいし、きっと笑われて終わりだろう。


 マリちゃんと入れ替わりで、お手伝いさんらしき人がお医者さんを連れてきてくれた。軽い問診の結果は異常なし。発情期が変なタイミングで来た原因は今のところ不明。慣れている病院で再度診てもらった方がいい、とのことだ。どうやらこのお医者さんはこの家のかかりつけ医らしい。よかった、ヘタに大きな病院に連れて行かれなくて。知り合いとかいたらすげー嫌だし。
 ふと庭に視線をやると、マリちゃんのお兄さんらしき人がじっと池を見ているところだった。……鯉にエサやってる? この人がお医者さんを呼びに行ってくれたはずだから、きっと俺を気遣って部屋には近付かずにお手伝いさんに言伝をしてくれたのだろう。
「こんにちは……あの、さっきはすみません。避けるみたいになっちゃって」
 池に近付いて声をかけた。一人だからか、はたまたその人が抑制剤を飲んでくれているからか酩酊感はすっかりなくなっている。甘い匂いもほんの微かに感じるだけだ。
 その人はやっぱり気を悪くした様子も無く、穏やかそうな表情で「いいえ、とんでもない。突然αばかりのところに連れてこられてしまっては不安だったでしょう」と静かに言う。……マリちゃんに声似てるかも。でも、声も表情も似てるのにどきどきはしない。触れたい、とか、触れてほしい、とかは一切無い。
「マリちゃ……えっと、万里くんの、お兄さん?」
「正確に言うと従兄です。同じ家で育ちましたから、兄弟と言っても差し支えはないでしょうが――ああ、ご挨拶もせずに失礼致しました。私は津軽遼夜と申します」
 丁寧に腰を折ったその人にびっくりしてしまう。そんな風にしてもらうような立場じゃないから俺!
 敬語使わなくていいよ、寧ろ使わないで、とお願いすると僅かに悩ましげな表情をされたものの控えめに頷いてくれた。「少しだけ……なら」うん。少しだけでもいいよ。できる分だけで。
 お互いに軽く自己紹介をして、なんとはなしに池の鯉を眺める。マリちゃんはまだ戻ってこない。家が広いから、移動に時間がかかるのだろう。
「このお家、αの人が多いんだね」
「そう……ですね。そういう家系です」
「そっかー……だから平気なの?」
「平気、というのは」
「万里くんとか、俺の近くにいても割と大丈夫そうにしてた……から。αの多いお家だと、うっかりΩに出くわしてもいいように訓練してるのかなーと思って」
 本当は、既に番がいるかどうかについて知りたかったんだけど。ストレートに聞くにはあまりにも品が無いし失礼だと思ったのでこういう表現にした。なんで俺ばっかりこんなに反応してしまうのか、俺にそういう魅力が皆無なのか、考える材料が欲しかった。
「そんな大袈裟なものではないですよ。当たり前のことを当たり前に躾けられただけです」
「当たり前のこと?」
「人のことは尊重するように。常に礼節をもって接するように。それだけです」
 その言葉を聞いて、俺はマリちゃんだけでなくこの家全体に好感を持ってしまった。だって、すごく素敵な考え方だと思ったから。要するにマリちゃんが自分の手に爪を立てる痛みを我慢してまで俺のこと介抱してくれたのも、この家にいるαの人たちが俺と顔を合わせる合わせないにかかわらず全員抑制剤を飲んでくれたらしいことも、俺を一人の人間として尊重してくれたからってことだろ?
 Ωは性犯罪の被害者になりやすい。それと同時に、αは加害者になりやすい。この社会ではそれが当たり前の認識で、そんな認識がまかり通ってしまうくらいΩのフェロモンは強い。『自衛しない方も悪い』みたいな心無いことを言う人だっている。どうしても、Ωの方がαよりも社会的地位が低い傾向にあるから尚更だ。
 でもこの家の人たちは、きっとそんな社会の風潮に対して真っ当に憤ってくれるのだろうと思う。加害者にならないため、ではなくて、誰かを傷付けたりしないために抑制剤を飲んでくれる。
「……津軽さん。『運命の番』、見つけたいと思ったことってある?」
 思わず尋ねてみた。αであるこの人は、運命を信じているのだろうか。……マリちゃんに聞く勇気は無かった。
 遼夜さんは口元に手を添えて目を細める。マリちゃんに比べて、幼さが抜けている分更に目つきは鋭かったけれど、それでもやっぱり優しそうな笑顔だと感じた。
「ふふ、実はもう見つけているんです。おれには勿体無いくらいのすてきなひとです」
 相手はΩかと思いきやβらしい。思わず首を傾げる俺に、「何が運命かなんて自分でいくらでも決めればいいと思いますよ」と彼は言った。
「おれの母も生涯の相手に選んだのはβの男性です。誰かを想う気持ちは自由だ」
「……誰かを好きになった後に『運命の番』に出会っちゃったらどうするの?」
「不思議なことを仰る。好きになった相手が運命でしょう」
 遼夜さんはさらりと、何の気負いも無い声音で言った。この人もαなら、Ωの暴力的なまでのフェロモンについてよく知っているはずだ。知った上でこういうことが言えるというのは――俺にとって、そう、すごく、励まされる事実だった。
「――誰にでも、身を焦がすような恋はできる。できないわけがないんだ、αだとかβだとかΩだとか以前に、おれたちは人間なのだから」
 人間なのだから。
 ……そっか、俺、Ωとかいう以前に人間だった。こんな単純なこと、もう随分と長い間思い出せなくなっていた。
「……おや。万里があなたを捜しているようだ。すみません、話し込んでしまいましたね」
「や、俺から話振ったんだし……! 変なこと聞いてごめん、できれば忘れて!」
 振り返り、慌てたようにこちらに駆けてくるマリちゃんに「ごめんね勝手に庭出ちゃって」と謝る。マリちゃんはふるふると首を横に振って、「タクシー、あと五分くらいで来てくれるみたいです」と笑った。
 門の近くまで行って待ってよう、ってことになって、並んで歩く。
「楽しそうにお話されてましたね」
「そ、そう? ちょっと、話の流れで恋バナしてましたみたいな……」
 きょとんとされてしまった。「セツさんは今、恋をされているんですか?」純粋な問いかけがいたたまれなくて、いやーどうだろ……とごにょごにょ濁してしまう。マリちゃんの方を見られなかった。熱のこもる視線で俺の気持ちに気付かれそうで怖かった。
「……ええと、兄さんも姉さんも相手の方がいらっしゃいます」
 突然そんなことを言われて反応に困った。どういう意図だろ? ……もしかして浮気狙ってるとか思われてる!? その誤解はかなり困る!
 俺が最悪の場合の想像を巡らせている間に、門の傍へと到着してしまった。口を開くより早く、マリちゃんの声が耳に届く。
「でも、あの、おれはまだ相手がいないんです」
 ――えっ、それってどういう意味?
 思わず見つめた先で、マリちゃんはにこっと笑った。ほんの少しだけ恥ずかしそうに。
「……あ、タクシーきましたね。お気をつけてお帰りください」
「えっ、ちょっ」
 言葉の通り門から滑り込んできたタクシーを見て焦る。このままじゃ帰れない。俺は鞄の中のノートの端を破って、掌の上で十一桁の数字を書き連ねた。メールアドレスを書いてる暇は全然無かった。
「これ、俺の番号!」
 マリちゃんの手にノートの切れ端を押し付ける。「電話、夕方なら大体とれると思う……から」マリちゃんが嫌なら無視してくれればいい。とにかく、ほんの少しでも希望を残しておきたかった。
 返事を聞くのは怖くて急いでタクシーに乗り込む。扉越しに見たマリちゃんは、俺に向かって手を振ってくれていた。ばいばい、って。
 小さく手を振り返す。心臓がまだどきどきしている。耳が熱い。
 期待しちゃダメなんだろうけど、あんな反応されたら二回目を想像してしまう。
 また会えるかな。
 全然治まってくれない動悸に、俺は手をぎゅっと握りしめた。

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