羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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※「オメガバース」という特殊設定を用いた話です。
 苦手な方や意味をご存じでない方はご注意ください。


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 こんな世界はとっとと滅びてしまえばいいと思っていた。
 男女性の他にα、β、Ωという括りが存在する世界。少数の優れた奴と、大多数の普通の奴と、極少数の差別される奴。産まれた瞬間から支配者層はほぼ確約されていて、社会もそのように動いている。くっだらねえ。男と女だけでも面倒なのに、毎日毎日嫌気が差す。
 俺なんかの八つ当たりに世界を巻き込んだって仕方ないし、俺には大切な家族――たった一人の弟がいて、そいつが毎日楽しく生きてるみたいだから俺もぼちぼち生きてるけど。ちょっと愚痴っぽくなるくらいは許されるはずだ。
 洗い終わった最後のグラスの水気を取ってため息をひとつ。この世界に内心で悪態をつく俺は、αとΩの番である両親から産まれたΩだった。
 別にαがよかったなんて身の程知らずなことは言わないから、せめてβでありたかったな。
 人口総数としてはαよりもよほど希少なΩだが、その実体はというと所謂被差別階級とかいうやつで、第二次性徴が始まる辺りからずーっと抑制剤に頼らなくちゃおちおち外出もできなくて、望まずともやってくる数ヶ月周期の発情のせいで手厚い福利厚生の無い会社では就業すらままならず、まあ要するにめちゃくちゃ生きていくのに障害がありまくる人生を送っている。
 Ωはその特性上、夜の世界で働いている奴が多い。そんなの当たり前だ。昼職の一般企業が何を好き好んで、数ヶ月に一度一週間ずつ病欠することが約束されている奴を雇うんだよ。だからシフトを自由に組めて少ない日数でそこそこ稼げる夜の仕事に流れやすい。まあ、Ωを雇うことによって会社に国から補助金が出たりするし、大企業は社会福祉活動の一環としてΩを一定数雇うノルマが定められていたりもするんだけど。そういうのも全部、『Ωは生き辛くて可哀想だから手を差し伸べてあげましょう』みたいな偽善を感じて嫌だった。哀れまれるのが苦しかった。
 Ω特有の諸症状に苦しむ俺に、両親は『早く番を見つけたほうがいい』というようなことを言った。頭では分かっているのだ。番を定めれば無差別にフェロモンをばら撒くこともないし症状も安定して、リスクは減る。でもそういうことじゃない。俺は、何にも煩わされることなく当たり前に生活したかった。薬が手放せず、いつ襲われるか分からない恐怖と隣り合わせでいるのが嫌だった。両親の話す『Ωの在り方』を、どうしても受け入れられなかった。
 それに。綺麗事だと言われるかもしれないけれど、番になるならちゃんと、好きな人とがよかった。
 症状を抑えるためじゃなくて、好きだから番いたかった。
 この世界には、どうやら『運命の番』なるものがあるらしい。αとΩの、理屈ではない本能での繋がり。他の何も見えなくなって、ただお互いを必死に求めるような、そんな関係性が。俺は何よりこれが嫌だったのだ。運命なんて歯の浮くような言葉口にする気にもなれなかったし、話に聞く限り性欲に支配された動物みたいな感じ。いくら『運命』って綺麗な単語でくるんでも、要するにセックスの相性が最高で離れられないみたいな話なんだと思う。バカみてえ。
 まあ、現実問題として生涯でその『運命の番』を見つけられる人間というのはそう多くない。仮にΩ全員に『運命の番』とやらが存在したとしても、そもそもの絶対数が異なるからである。大多数は当たり前に恋愛をして、ごく自然にくっついたり離れたりしているのだ。だから俺もそういうのがいい。重苦しくて面倒なのは嫌いだ。綺麗なものだけ見ていたい。αのエリートだって、運命の相手が俺みたいなのだとさぞがっかりするだろう。
 運命なんていらなかった。もしあったとしても、俺がそれを見つける前に世界が終わってくれればいい。
 ……そう、思ってたんだけど。

 遅番で最後まで店にいた俺は、妙な体の重さを鬱陶しく思いながら後片付けをしていた。今日はなんだかいつもより客の羽振りがよくて、タイムカードを切ってからも飲むのに付き合わされたのだ。途中、いやにアルコールの回りが速い気がしたけどきっと疲れてるせいだと思った。発情期はまだ来るタイミングじゃないし、風邪かも。体も熱っぽい気がする。念のため店で少し休ませてもらって帰ることにしたのだが、体調は快復するどころかますます体の芯から熱い。
 店の戸締りをして外に出ると、既に空は白んでいる。始発もとっくに動き始めているようで、これならタクシーじゃなくて駅まで歩くか、と移動し始めたのだが。
「……っ」
 ぞわり、と風が肌を撫でる感覚に鳥肌が立った。それを合図にしたかのように頭の芯が痺れて、体の端からどろどろと溶け出すような錯覚。平衡感覚が急に失われたせいで体がよろめいて、壁に手をついてしまう。
 ――うそ。なんで。だって前の発情期が終わってまだひと月も経ってないのに。
 いくら頭で否定したって、この体の劇的な反応はそれしか考えられない。震える手で鞄を漁り、いざというときの抑制剤を仕事用から行楽用の鞄に移し変えたまま戻し忘れているということに気付いて更に焦った。どうしよう。どうしよう。いくらここが路地裏だとはいえもう朝だ。ぐずぐずしているうちに通勤通学の人が通りがかってしまう。
 それがβならまだいいけど、もしαだったら? 俺は犯されるのか?
 立っていられなくて、壁を背に尻餅をついた。考えて、ちゃんと対処しなきゃいけないのに、頭にもやがかかったみたいに考えがまとまらない。早く気持ちよくなりたい。――ダメ、ちゃんとしなきゃ。ちゃんとしなきゃなのに。触りたい。もう嫌だこんなの。性欲なんかに支配されたくない。
 涙がこぼれた。何一つ自分の思うようにならない体が憎い。
 誰か助けて。俺をこのクソみたいな世界から救い出してくれよ。そんな、声にならない声で呻いた瞬間。
「――っ大丈夫ですか!?」
 その、未だ幼さの残る声を聞いた瞬間、体が震えた。
 大声をあげているというのに、柔らかくて丸みのある声だと思った。無理やりに顔を上げて、その姿を視認する。
 一度も染めたことのなさそうな黒髪。ここからでは表情までは窺えないけれど、随分と急いで走ってきてくれたのであろうことが分かるくらいにはその黒髪が乱れていて、喉のひりつくような感覚がする。学生服を着ているということは高校生くらいだろうか? まだ子供と言って差し支えない年齢だ。ちょうど弟と同じくらい。
 その男の子は、俺に駆け寄ってこようとして途中で無理にブレーキをかけた。靴底をアスファルトで削り、一瞬だけ後ずさろうとする。おそらく、風下にいた俺の、発情期特有のフェロモンに気付いたのだろう。俺がΩだということも。
 けれど彼はそのまま振り返ってどこかに行ってしまうことはなかった。鞄の中から何かを取り出す。もう一度足を踏み出して、そこからはもう一切の迷いのない様子で素早く駆けてきたかと思うと、俺のことをゆっくりと抱え起こしてくれる。
 濃密な、甘い甘い匂いがした。
 頭がくらくらしてくる。思考がぐずぐずに蕩けそうになる。「抑制剤、持っていないんですね? これを飲んでください」口元に差し出された錠剤を言われるがままに口に含んだ。怪しむ気持ちなんて欠片も浮かばなかった。
 水筒のコップをわざわざ俺の口につけて静かに傾けてくれているその子の、コップを持つ手が異様に白い。
 親指の爪が、深く肉に食い込んでいた。
 それを見て俺は明確に理解する。この子はαなのだと。そして同時に安心した。
 ……獣ではない。ちゃんと、人間であろうとしている。
 心は安心したはずなのに、その子の手が僅かに肌に触れる感触を貪欲に感じ取ろうとしている自分の体に気付いて驚いた。どこもかしこも全部熱くて、触ってほしくて、泣きそうになる。この優しい声で名前を呼んでほしい。このあまりにも丁寧な手つきで、ゆっくりと俺の体を拓いてほしい。名前も素性も知らない相手に何を考えているんだと思うのに、暴力的なまでの欲求に思い知らされてしまう。
 俺のΩの性が、理屈ではなく本能でこの子を求めている。
 ずっと否定し続けていたそれをいざ目の前に突きつけられて混乱した。触りたいし触ってほしい。初対面なのに。会ったばかりなのに。こんな、弟と同じくらいの年頃の、守ってやらなければいけないはずの子供相手なのに。
 何か言わなきゃいけない気がして、でも声が出なくて口をぱくぱくさせているとその子はふっと笑って俺の体を抱え直してくれた。甘く痺れるような衝撃が走った。ほんの少しだけつらそうに寄った眉にも、顎を伝う汗にも、眩暈がしそうなくらい興奮した。
「かかりつけのお医者様とか、行きつけの病院とか……あれば教えてください。このままだと苦しいでしょう」
「は……ぁ、う」
 もう、何もまともに考えられなかった。ちゃんと聞こえているはずなのにその子の発する言葉の内容が全然理解できない。ただ、この優しい声をいつまでも聞いていたいと思った。
 俺はこんなにこの子の存在に丸ごと揺さぶられてるのに、どうしてこの子は俺みたいにならないんだろう。噎せ返りそうな甘い匂いを感じてるのは俺だけ? ちょっと素肌が触れ合っただけで震えるくらい嬉しいの、俺だけ?
 俺はその子の服をぎゅっと掴む。ありったけの気力と声を絞り出す。この、どうにもならない焦燥感から解放されたい一心で。
「……っ俺を――抱いて、くれないの? 俺はあんたの……運命じゃない……?」
 朦朧とした意識の中で、よく考えもせずに声をあげてしまう。俺のことをしっかりと抱き留めてくれたその子供は、一瞬虚を突かれたように目を見開いて、そして朗らかに笑った。
「婚前交渉は、だめですよ」
 それがあんまり優しい笑顔だったから、俺は安心して急激に意識が遠くなっていくのを感じる。遅まきながら薬が効いてきたのかもしれない。
 出会ったばかりの他人の腕の中で気を失いかけているというのに、不安や恐怖をまったく感じないのが不思議で。それどころか力強い腕の温かさに幸せな気分すら噛みしめつつ、俺は意識を手放した。

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