羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 金曜日。授業の終わりを五分後に控えたおれは、シャープペンシルの芯をカチカチと出し、そっと戻し……なんてことをしながらこの後のことについて考えていた。大体は前に海に行ったときと同じ流れで、学校が終わったら一旦解散して各自自宅へ。セツさんがレンタカーでみんなの家を回って車に乗せてから出発する。おれは一人だけ家が遠いので、お迎えも最後だ。
 目的地である別荘は車で三時間ほど走った場所にある。最寄のスーパーに行くにも車が必要なところだ。澄んだ空気と綺麗な水、涼しい森林――といったラインナップである。
 近くには牧場もあったりして、そういえば昔、乗馬を体験させてもらったりしたなあ……と懐かしい。どうやらその牧場は修学旅行の行き先に選ばれることも少なくないようで、バターやソーセージを手作りするといったこともできるのだとか。
 この話をすると大牙がとても喜んで、『バター作るの、一度でいいからやってみたかったんだ!』ととてもいい笑顔を見せてくれた。避暑地と言えば聞こえはいいけれど要するに都会の娯楽施設のようなものは一切無いところだから、普段身近に無いものを喜んでもらえるなら願ったり叶ったりだ。
 そういえば、『乳搾りも体験できるから、牛に触らせてもらえるかもしれないね』と兄さんは仰っていた。間近で見るの、初めてだ。楽しみにしておこう。
 そこまで考えたところでチャイムが鳴った。今日の授業はここまでだ。お昼ごはんは再度集合してから、別荘に向かう途中でどこかお店に入ってみんなで食べることになっている。
 ちょっと心配なのは、車を運転する時間が長いこと。セツさん、大丈夫だろうか。おれの家から運転手を出してももちろんよかったのだけれど、『そこまでしてもらうのは流石に悪いでしょー』と言われてしまっては引き下がるしかない。でもセツさんはきっとそこまで車の運転が好きというわけではない……と思うから、おれにできることなんて無いのに勝手に不安になってしまう。
 こういうときに年齢差を実感する。セツさんにできて、おれにできないことはとても多い。
「万里、授業終わってる」
 ぼんやりしていると肩を叩く指先を感じた。視線を向けた先には佑護がいる。佑護は背が高いから、こちらが座っているとかなり見上げるようなかたちになってしまう。
「ごめん、ありがとう。おれがいちばん急がないとなのになあ」
「遠いから仕方ねえって。あんまり慌てるなよ」
 荷物をまとめて席を立つ。佑護は前髪がちょっと長めで、だから目線の高さが近付いたら近付いたで表情が窺いにくかったりする。髪を伸ばすようになったのはボクシングをやめてからなんだとか。
 人と目を合わせるのが少しだけ苦手、らしい。いつだったか聞いたことがある。理由は――まあ、予想するまでもないか。大牙がいるからきっと大丈夫だ。
 並んで歩いていたら、昇降口の辺りで靴を履き替えている途中のクラスメイトに出くわした。それは女子の集団で、彼女たちはこちらに気付くと、「あっ、津軽くんと茅ヶ崎くんだ! なんか今日ゆっくりだねえ、部活休み?」と笑顔で話しかけてくる。おれが受け答えしている間も、佑護はちょっと居心地悪そうな様子だ。佑護に対する周囲の反応は一年の夏の頃に比べるとそれはもう目を瞠るほどに変わった。それは佑護の努力の結果だと思うのだけれど、本人はまだいまいち慣れないらしい。 
 女子たちは寄り道をしてから帰るとのことだった。甘いものを食べつつゆっくりお喋りしたいそうなので、高槻さんのお店を紹介してみると「そこ知ってる! ちょっと高いから頻繁には行けないけど美味しいよねえ、内装もオシャレだし。そういえば誰がケーキ作ってるんだろ……? 店員さん若い人ばっかりだよね?」という反応。あの店、ケーキ単品でも七百円弱は取るし飲み物つけると千円オーバーだからなあ……。この辺りのお店にしてはかなり強気な価格設定で、けれどきっちり売り切っているのがすごい。
 そういえばケーキを焼くのは月曜と木曜だったな、と思い出した。この時間なら種類も豊富なはずだ。
 今日行けば色々選べると思うよ、と伝えておく。その子は「いいこと聞いた! ありがとう。じゃあ、ばいばい!」と手を振ってきた。一緒にいた数人の女子もそれにつられたのか「ばいばーい」「また来週ねー」と手をひらひらとさせている。
 こちらも「ばいばい」と手を振ると、ちょっと不思議なくらいの盛り上がりだった。しかも、ターゲットはおれだけではなかったようで。
「茅ヶ崎くんも、ばいばい!」
「んっ? あ、ああ……」
「……ばいばーい!」
 一歩も引かない女子、強いな……。
 佑護は恥ずかしさと困惑をない交ぜにしたような表情を浮かべ、しかし観念したのかおずおずと手を挙げる。
「ばいばい……」
 きゃああ、と歓声を残して女子たちは去っていった。「なんなんだ……」佑護は呆然と立ち尽くしている。
「佑護と仲良くしたいって意味だよ、きっと」
「そりゃお前とはそうだろうけど」
「ふふ、おれだけではないってちゃんと分かっているだろ?」
 恥ずかしがっているだけなのだ。佑護はどうしても、自分のことを怖がられていると思ってしまいがちのようだけれど。
 そんなことを言いつつ靴を履き替えて、あっという間に校門だ。
「佑護、じゃあ、また後で」
「ん……またな」
「ばいばい」
 手を振ってみると、佑護は珍しく拗ねたような顔。顔立ちが柔らかいので、それでも全然怖くはない。
「……、ばいばい……」
 思わず笑ってしまった。「何笑ってんだ」「ごめんごめん、またね」駅に向かう足取りは軽い。
 クラスメイトの女子たちのあの気安さが嬉しかった。
 みんな、優しいのだ。みんな、みんな。

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