羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 初めて、白川の家の最寄駅で一緒に電車から降りた。
 十分ちょっと歩くけど、と言われたので大丈夫だと軽く返して、三歩先を歩く白川の後頭部を見ながらついていく。
 ゆるやかな上り坂を進み、ちょっとした広場のような場所を横目に上へ上へとアスファルトを踏みしめる。やがて、石造りの階段を上るといきなり視界が大きく開けた。
「う、わー……」
 そこは、展望台と言うにはこぢんまりとしている、ささやかな高台のような場所だった。燃えるような夕焼けが、住宅街の向こうにかすかに見える海に反射して輝いている。夕日を呑み込む海は揺らめいて、茜空を裂くように飛行機雲が真っ直ぐ伸びる光景は、言葉を忘れるくらいに綺麗だった。
「ここ、俺が一番好きな場所。部活がうまくいかないときとか、よくここに来てて……小さい家とか車とか見てると、俺の悩みも大したことないなって思えて落ち着くんだ」
 そう言って、伺うような表情を向けてくる白川。ああ、俺の反応気にしてんのかな。ちょっと待って、今なんて言えばいいか考えてるから。何を言っても、ありきたりになってしまいそうで怖いけど。
「……綺麗、だな……ほんと、綺麗だ」
 結局平凡なことしか言えない。感動してるんだよ、本当だぜ。でも俺、ボキャブラリ貧困だし、せっかくこんな綺麗なものを教えてもらったのに気の利いたことのひとつも思い浮かばないんだ。白川は呆れていないかな。
「ここ、他の奴に教えたのは初めてなんだ。独り占めもいいけど、こうやって誰かと一緒に見るのもいいな」
「え、お前それ、いいのかよ」
「うん? 嫌だったか?」
「いや、そうじゃなくて……」
 初めて教えるのが俺でよかったんだろうか。俺は教えてもらえて嬉しいけど、でも、白川はそれでよかったのか。
 言葉に詰まった俺に白川は、今日一番柔らかな微笑みを見せた。そして、「誰かに教えるならお前がよかったんだよ」と、事もなげに言った。
 ちょっと待って、今はどっちだ。それ、「俺」に言ってる? それとも「恋人」? ああもう紛らわしすぎる。
 それにしても距離が近いな、と思う。いつもなら、あまり近くに来られると身動きがとりづらくて気になってしまう性分なのだが――それは俺が人ごみを避けて早い時間に登校している理由と同じだ――なんとなく、こいつならいいかなと思う。白川は静かだし、優しいし、無闇に俺を踏み荒らすことはしないだろうから。
 きっかけはおかしなものだったけれど、こうして話をするようになってよかったと思う。白川もそう思っていてくれればいいのだけれど。
 目の前にとても綺麗な景色があるのに、どうしてか白川に視線がいってしまってあまり見すぎるのも嫌がられるかと目を伏せる。それでも視界の端に入るものだから、困った。気になる。今どんな顔してるかな。俺は変な反応をしてしまっていないだろうか。
「――今まで気付かなかったけど、」
 すると、ぐっ、と白川がこちらに身を乗り出してくる。
 突然のことに顔を上げる以外は反応できなくて、白川の黒い瞳が夕焼け色を反射しているのをまるで宝石みたいだなんて思いながら見た。
「朝倉って目尻に薄いほくろあるのか。様になってていいな」
 それは、きっとなんてことはない接触だった。ちょっと肩が触れるとか、それと同程度のもの。それなのに、顔からほんの数十センチの場所に白川がいて、そいつの親指の腹が俺の目元を優しくなぞっていく、そんな仕草に自分でも驚くくらい焦ってしまった。
 何をされているのか脳がきちんと認識した瞬間思わず手を振り払って、後ずさりしてしまう。あ、やばい、と思ったけれどもう遅い。白川も、「やばい」って思ってる感じの顔をしている。
 じわじわと、顔に熱が集まってくるのが分かる。
「っ……男に、褒められても嬉しくねえなぁ」
 咄嗟につまらないことを言ってしまって心臓がずきずきする。手を強く握って、爪が皮膚に食い込む痛みで平静を保とうとした。なんでこんなに動揺するんだろう。自分でも意味が分からない。顔が熱いのは夕焼けの赤で誤魔化されているだろうか。
 あんな乱暴に手を振り払ってしまって、謝らなければとまた焦る。けれど、白川は俺が何か言う前に手の届かないところまで離れていた。
「……ごめん、馴れ馴れしかったな」
 もうしないから、と眉を下げて静かに謝るそいつ。
 なんと声をかければいいだろう。喋る内容に困ることなんて滅多に無いのに。とにかく白川に悲しそうな顔をしてほしくなくて、でもどうすればいいか分からなくて、数秒経ってからやっと「いや、驚いただけ、だから。悪い、痛かっただろ」と言う。
 白川はやっぱり困ったような顔をして、俺の言葉の内容には触れずにただ「……駅まで送るよ」とだけ呟いた。


 それから、ぽつりぽつりと会話はあったものの俺たちの間には妙な緊張感が横たわってしまっていて、そのぎこちなさがもどかしいのに結局最後まで改善する方法も分からずじまいだった。
 駅の改札を抜けて振り返ると、白川が俺を見て「……またな」と言う。ああ、「また」があるのか、と少しだけ安心した。
 電車に揺られている間は熱にうかされたみたいにぼーっとしてしまって、きちんと今日のことについて思い返せたのは自宅の最寄駅に着いてから。金魚綺麗だったな、とか、冬の海もいいな、とか、そこまで考えて、今まで敢えて意識を向けないようにしていたことが心臓に刺さる。
 キス、されるかと、思った。
 白川の手の感触まで一緒に思い出してしまって息が詰まる。なんでだ。おかしいだろ、そんなこと思うなんて。あいつにはちゃんと、好きな奴がいるのに。っつーか、俺男だし。
 どうしよう。
 どっ、どっ、どっ、と心臓の音が煩くて唇を噛む。無意識に歩調が速まって、熱い頬を冷たい風が撫でていく。アスファルトを蹴る音が耳につく。
 あのとき。あのとき、白川の顔がほんの目と鼻の先にあって、そいつの指が俺の目元をなぞったとき。俺は――思わず目を閉じそうになったのだ。キスされるかと思って、キスできそうなくらい距離が近いと思って、それで。
「っ……ごめん」
 勘違いをしている。ただのごっこ遊びに入れ込んで、「ふり」に力が入りすぎて、白川は何も悪くないのに一方的に拒絶した。こんなものは錯覚だ。白川があまりにも本気と区別のつかない顔や仕草を見せてくるから、引きずられているのだ。必死でそう自分に言い聞かせる。
 殆ど駆け込むみたいにして家の玄関を勢いよく開けて、そのまま自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
「くそ、っあつい……」
 誰に見られているわけでもないのに顔を隠したくて布団をかぶる。外から遮断されたことで自分の心音が余計に頭の奥に響いて、おかしくなりそうだった。
 一緒にいると楽しかったし、あんまり真っ直ぐ見つめられるのは恥ずかしいし、触れるくらい近くに来られると過剰に反応してしまうし、何を考えてるか分からないと不安になるし、俺以外の奴らには普通に笑顔を見せたりしている態度の違いに悲しくなるし、これはつまりどういうことだ。
 そういうことじゃ、ないのか?
 ベッドから起き上がって、枕元の簡易クローゼットの扉に嵌め込まれた全身鏡に映る自分を見てみると笑えるくらいに顔が真っ赤だった。耳まで赤くてピアスの色が埋もれるくらい。吐き出す息まで熱い。どこもかしこも熱い。
 それは一目瞭然で、もしこれが自分じゃなかったらお前分かりやすすぎだろって絶対馬鹿にしてただろうなという程に。
 なあ白川。確かに俺は、色々と表情に出やすいみたいだ。
 神様がもしいるなら三十分くらい時間を戻してほしい。いや、もう、あの日白川に恋人ごっこを持ちかけられたときからやり直したい。こんな風になるくらいなら、ロクに話したこともないただのクラスメイトでよかった。あいつの優しいところとか知りたくなかった。どれだけ柔らかい目をして笑うのか、見ないままでいたかった。
 いや、やっぱ嘘。それは嘘。あいつのいいところ、忘れたくない。
 でもだからって、「恋人役」じゃない「俺」には、俺にだけは笑ってもくれないような奴相手にこんな思いをしたくはなかった。
 この感情がどんなものなのか俺は既に分かってしまったけれど。これに明確な名前を付けてしまったらいよいよ戻れなくなりそうな気がして、俺は、殆ど喉から出かかったその感情の名を必死になって呑み込んだ。

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