羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 遼夜は大学に入って本当に走るのをやめてしまった。いや、趣味で続けているとは言ったけれど部活とかサークルとかの組織に属して走ることをやめた。遼夜はその世界ではかなり有名だったから大学の部活のコーチから直々にお誘いもきたらしかったが、怪我で走れなくなったと言って誤魔化したようだ。「ほんとうに故障して引退するしかなかったひとに失礼かな……」と申し訳なさそうに呟く遼夜はやっぱりちょっと優しすぎるんだと思う。
 俺は本屋でバイトをするようになった。念願の一人暮らしを勝ち取るためだ。学費を奨学金でまかなう代わりに一人暮らしをさせてほしいと拝み倒したのだが奨学金は却下され、普通に一人暮らしをさせてもらって家賃補助の仕送りまで貰っている。『あんたがやりたいことを何も諦めないで済むように私は頑張っているんだよ』と母親に言われて、なるべく頻繁に顔見せに帰ろう……なんて思っている。
 高校の頃は恋人ができたにもかかわらず受験のせいで禁欲生活を強いられていたから、大学生になったらそれはもういろいろな意味でやりたいことは沢山あった。だが実際は、高校時代から五ミリくらいしか進んでいない。
 今も遼夜は、俺の住む部屋で大部分のスペースを占めるベッドに腰掛けて大学のシラバスとにらめっこしている。エロい雰囲気は一切無かった。
「なんで大学生になってまで外国語が必修なんだろう……」
「文系だからじゃねえの? 遼夜って二外は中国語だっけか」
「うん。中国語ならまだ漢文みたいな感じで馴染み深いかと思って……」
「ふーん。確か八代もだろ?」
「そうだね。でもあいつは『母国語プラス英語と中国語で大体どうにかなる』って実用する気満々で選んでいたからおれみたいに意識の低い理由ではないよ……」
「いや俺なんて響きがかっこいいからって理由でドイツ語選んだし」
「そうだったのか」
「ドイツ語で『ボールペン』って言ってみたかった」
「なんて言うんだ?」
「クーゲルシュライバー」
「伝説の武器みたいだ……」
 確かに恰好いいね、と穏やかに笑う遼夜は今日も間違いなく可愛い。キスしたら控えめに応えてくれるし、俺が触れると恥ずかしそうに嬉しそうに手を伸ばしてくるのだ。
 シラバスを捲る指先をなぞるとそいつの肩がぴくんと揺れた。「どうした? 奥」「んー、触りたくなった」特に抵抗も反対意見もこないので、同意を得られたと判断して更に触る部分を増やす。着物の袖の大きく開いた部分から手を突っ込むと「えっちょっ……」という若干焦ったような声がした。
「嫌か?」
「い、いやではないけれど……びっくりした」
 首筋に唇を寄せるとそいつの口から小さく声が漏れる。戸惑っているのが分かる視線の動きに若干申し訳ない気持ちになったりもしたが、そうは言ってもこいつだって男だ。どういう意図でこんなことをしているかなんていちいち説明しなくても分かるだろう。
「奥……は、もうちゃんと覚悟ができているのか」
「覚悟?」
「こういうことをする、のに」
「そんなのお前を好きになったときから想定済みだけど」
 どうしてか、遼夜は少し驚いたみたいだった。「怖くないのか?」首を傾げてそう尋ねてくる。
「え、怖がるようなことか? 遼夜は俺がセックス下手だったら幻滅する?」
「なんでそんな話に……先んじて言っておくけれど、おれはそういう経験に乏しいしおまえの期待にそえるかは分からないよ。努力はするからそこは許してほしい」
「んな無茶な要望は持ってない……はず。うん。……お前一人でしたりすることあんの?」
「なんで無いと思ったんだおまえ? おれは修行僧か何かなのか?」
 うわ、あるのか。いや別に本気でしたことないとは思ってなかったけど、やっぱりイメージからは外れるんだよ。そんなことを思っていると、「体調を整えるためにも必要なことだからね。大会当日にベストコンディションにもっていくために逆算して日取りを決めたりするんだよ。……そういえばもう部活は引退してしまったから、最近はあまり機会が無いなあ」なんてちょっと意味の分からない発言をされて耳を疑う。
「……遼夜何言ってんの?」
「うん? おれだって体調管理はちゃんとしているよという話だけれど」
「お前やっぱちょっと変」
 それ全然気持ちよくなさそうだな。
 遼夜はまったく釈然としないといった表情をしていたけれど、まあ、こいつみたいな奴に快感を覚えこませて自分からねだってくるようになるまで育てることができたら達成感あるだろうなと結構楽しみだ。
「それにしても……奥はとっくに覚悟ができていたんだね。待たせてしまって申し訳なかったな」
「別にそんな、お前が気にすることじゃ」
「気にさせてくれよ。だって、やっぱり慣れないうちは痛いんじゃないか?」
「ん……? いや待て、なんかおかしい。そういや言ってなかったけどお前俺に抱かれるつもりでいてくれてるよな?」
 いい機会だから立場というかタチネコはっきりさせておこうと思って、さも確定事項ですよねみたいな顔でそんな風に聞いてみる。遼夜は「えっ」と言ったきり見事に固まってしまった。部屋に静寂が横たわり、流石にそろそろ何か言ってくれてもいいのでは……? と思い始めた頃、ようやく遼夜は口を開く。
「さ――さすがに、おまえの正気を疑うんだが……」
 頭のおかしい奴呼ばわりされてしまった。「俺は最初からそのつもりだったんだけど」と追い討ちをかけておく。
「寧ろなんで俺が下だと思ってたんだよ」
「ええ……? そんなこと言われても……普通に考えておまえが女役だと思うだろう」
 だってこんなにかわいらしいのに、と遼夜の手が優しく俺の髪を撫でた。うーん、複雑な気分だ。
「いや、まじめな話、おまえは本気でおれを抱く気でいるのか? 身長も体重もおれのほうがあるし、おれは女性のようにやわらかい体つきをしているわけでもないし、おまえに欲情してもらえる自信が無いのだけれど……」
「女みたいな奴じゃなくてお前がいいんだよ。っつーか何、その言い方だとまるでお前は俺に欲情できるみたいな言い方じゃねえか」
 珍しく遼夜は少しだけむっとしたような顔つきになった。肩を掴まれて、その力強さに若干どきっとする。見つめてくる瞳はとても真剣なものだった。
「だからおまえ、おれをなんだと思っているんだ。……しないわけないだろう、こんなにすきなのに」
 マジでこいつに好きになってもらえる奴めちゃくちゃ幸せ者だと思う……。まあ俺なんだけどな! こいつの恋人は! 俺! なんだけどな!
 遼夜の、力を込めた腕がまったくびくともしないことを若干恐ろしく感じながらも幸せを噛み締める。腕力勝負じゃ確実に負けるし体力勝負でも負けるしなんならフィジカル面で俺がこいつに勝てる部分なんてきっと何一つ無いけど、でも、それでも、俺はお前を抱きたい。
「遼夜、俺さ」
「うん? どうした?」
「お前を好きになってから、もう丸三年近く我慢してるわけ」
「んっ……? そ、そうなのか」
「そうなんだよ。ずっと、これだけは譲れないと思ってた」
「そ、そうだったんですか……」
「そうだっつったろ。なんつーか、まあ、天井の染みなんざ数える余裕無いくらいお前が気持ちよくなれるように頑張るので大船に乗ったつもりで俺に抱かれてくんねえ? お願い」
「……おまえ、自分の要望を通したいときにかわいさを前面に押し出そうとするのやめろよ……かわいいから……」
「遼夜って案外見た目に騙されるよな」
 そんでもって俺と喋ってるときだけは若干口調が雑だよな。嬉しい。
 遼夜は頭を抱えて、「うう、こんなのずるい……なんでも言うこと聞きたくなってしまう……」と呻いていた。なんかこいつ面白いぞ?
「……一週間欲しい。覚悟をするから」
「覚悟決めるの早いな!? いや俺が言うのもなんだけど……」
「ここまで言ってもらえてまだ待たせるなんて男が廃るよ。そうだろ?」
 おまえはおれのことを誤解している、と遼夜は笑った。「生娘でもあるまいし、あまり気を遣いすぎないでくれよ。大体な、おれの専攻、日本文学だぞ? エログロなんてとっくに履修済みだ」きっと俺を気遣ってそんな風に言ってくれたのだろう遼夜はせいいっぱい強がっているように見えた。なら、俺はその気遣いに感謝して一週間待つだけだ。
 俺が頷いたことで遼夜は満足したらしい。そのままぱたりとベッドに倒れる。珍しいな、和服で横になるなんて。普段は絶対そんなことしないのに。
「……なあ、奥。今日の講義の題材、作中でさ」
「うん」
「指を唾液で濡らして障子に穴を開ける描写があったけれど、あれどう考えても性行為の暗喩だよなあ」
「分かる」
 同じ日本文学専攻として力強く頷いておく。答え合わせは来週だなとまた笑った遼夜に、俺はこっそり心の内でお礼を言ったのであった。
 気を遣いすぎるなと言いつつ俺のことを気遣ってくれるこいつはやっぱり優しくて、強い。

prev / back / next


- ナノ -