羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 俺が治療を受けている間、遼夜は一旦外に出て母親に電話をかけたらしかった。どうやら今からこの病院に来るようで、遼夜は怪我をした俺よりもよほど青い顔をしている。いつの間にか遼夜の横には捨ててきたはずの鞄が置いてあって、高槻がわざわざ届けてくれたらしいことを知った俺はかなり申し訳ない気持ちになる。あいつには改めてお礼を言っておこう。
「悪い、俺の母親仕事なんだ。ばあちゃんも今ちょうど、友達と旅行中で……」
「それは……いいんだよ。来られないのはいいんだ。ただ、怪我については伝えないと……」
 心配してしまう、と小さく言った遼夜は、続けて「ごめん」なんて泣きそうな声をあげた。
「お前のせいじゃねえっつったろ。俺が勝手にムカついて勝手に喧嘩を買っただけなんだから」
「でも、おれのせいじゃなくても、おれのためだっただろう」
 言葉に詰まった。はたしてそうなのだろうか。違うんじゃないかと思う。こんな大騒ぎに発展して、遼夜に泣きそうな顔をさせて、それをこいつのためにやりましたなんて口が裂けても言えない。ただの自己満足だ。寧ろ多大な迷惑をかけてしまったのだから文句を言われてしまっても仕方ない。出しゃばって、遼夜の配慮を台無しにした。
 なのに遼夜は文句を言うどころか俺を心配してばかりだ。怪我の具合は? と真っ直ぐ見つめられて嘘をつくこともできず、素直に白状する。
 右手の小指の骨折と、左肩の亜脱臼と、鎖骨にヒビ。以上だ。派手な出血は見た目ほど酷い怪我ではなく、止血して大きめのガーゼを当てたらすっかり問題なくなった。諸々含めて全治四ヶ月の診断である。実際治るまでは三ヶ月くらいだろうか。
 そもそもこの怪我、あいつらに喧嘩をふっかけた後三人がかりで羽交い絞めにされたので無理やり抜けようとしたら肩関節の方が抜けたというオチだ。俺より相手の方がビビッて怯んだのでこれ幸いとたこ殴りにしてやったら小指の骨も折れてた。鎖骨はよく分からない。要するに大体自業自得だった。
「無茶をしすぎだ、おまえは」
「前も同じこと言われた」
「これが初めてではないんだな……」
 あんまり暴力的すぎて幻滅された? それは困る、と内心ひやりとする。
 前のときは……確か、まだ小学生だっただろうか。喧嘩の内容はよく覚えている。弁当が変だと言われたのだ。色が汚い、と。
 俺の家は母親が朝早く仕事に行き夜遅く帰ってくる生活スタイルなので、ばあちゃんが弁当を作ってくれていた。確かに周りの奴が持ってくるようなカラフルな弁当ではなかったと思う。きんぴらごぼうとか、ふきの煮付けとか、全体的に茶色く沈んだ色合いではあった。けれど俺はばあちゃんの作る弁当が好きだったし、何の問題も無かったのに。
 俺の弁当を馬鹿にした奴は、俺に父親がいないことをまるでとても不幸なことであるかのように言って、憐れんできやがったのだ。父親がいないから母親が弁当も作れないほど働かなきゃいけないのだ、可哀想だ、とわざわざ弁当を引き合いに出してまで俺の家族のあり方を侮辱した。朝から晩まで働いている母親のことも、母親に代わって俺の世話をしてくれるばあちゃんのことも、踏みにじった。
 これは殴っても許されると思った。俺が許した。確かあの時も相手より俺の方が寧ろ酷い怪我をして病院に行ったのだが、六年越しくらいに同じことを繰り返しているのかと思うと苦い気持ちだ。
 でも、俺はあのときのことを一度も後悔したことは無い。やめとけばよかった、なんてかけらも思わない。今また同じことを言われたとしたらあのときと同じように喧嘩をするだろう。
 退いてはいけないことというのは、誰にでもあると思うから。
「……遼夜、ごめん」
 ぽつりと呟く。今回は、しかし若干の後悔を覚えていた。遼夜がまるで自分のことみたいに悲しんで心を痛めているのが分かったからだ。こいつは俺が怪我をするとこんな、泣きそうな顔すらするのか、と思った。ひたすら申し訳なくて、それなのに遼夜がここまで必死に俺の傍についていてくれることが嬉しくもあって、自己嫌悪だ。
「なんで……おまえが、謝るんだ」
「だってお前は我慢しようと思ってたんだろ。そういうのは嫌だけど、でも、お前だって色々考えてそれを選んだんだよな。俺が台無しにしていいことじゃなかった」
「ちがう、ちがうよ……おれは選べなかったんだ。おまえみたいに、きちんと決められなかった。誰かを責めるのがこわかっただけだ」
 またおれの身代わりにしてしまった、と言って、遼夜はついにほろりと涙をこぼした。涙をぬぐってやりたいと思うのに、右手のギプスが邪魔だし左腕は上がらないしで、俺はこのときもう無茶な喧嘩はすまいと思った。好きな奴が悲しむのが嫌なだけだったのに、そいつが目の前で泣いていても何もできないなんて酷い話だ。
 遼夜は結局涙を一粒こぼしただけで、静かに気持ちを消化しているようだった。「……取り乱した。すまない」ゆっくり顔を上げた遼夜は、既に感情をいくらか処理してしまった様子をしていた。
「遼夜さん」
 そこに、静かな、けれど凛とよく通る女性の声が聞こえた。遼夜の体に緊張が走るのが分かる。指の先まで気を張り詰めるように背筋を伸ばして、「真希さん。お呼び立てしてしまって申し訳ございません」と遼夜は俺の斜め後ろに立っているのであろう女性に言う。
 俺は慌てて振り返った。
 ――女性に対してこういう表現を使うのも失礼だと思うのだが、俺のその人に対する第一印象は、「まるで蛇のような女性だ」だった。
 真っ先に目がいくのはやはりその目つきの鋭さだろう。女性にしてはやけに凄みや迫力のようなものが感じられる人だ。長い黒髪は簪でまとめて、彩度の低い色の和装。そして姿勢がとてもいい。遼夜は母親似なのだということがすぐ分かった。情の薄そうな唇なんて、本当によく似ている。
 その人は俺を見て、微かに口角を引き上げて笑う。
「は――初めまして。奥、智久です」
「奥智久さん。お初にお目にかかります、わたくし津軽真希と申します」
 このたびは倅がご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした――と、そう言って遼夜の母親は深く頭を下げた。非常に滑舌のいい、はっきりとした口調だった。

 それから。遼夜は、短いながらも分かりやすく、自分の心情も交えて事態を説明した。入学してすぐレギュラー入りして、周囲への配慮が足りなかったのだろうと思っていること。今回の件は、自分が矛を収めれば個人の間のいざこざで片付けられるはずだと判断したこと。万が一、騒ぎが大きくなって部全体の活動停止にでも至れば大勢に迷惑がかかると思って口を噤んだこと。
 遼夜の母親はそれを黙って聞いていた。
 そして穏やかに笑ったかと思うと、笑顔のまま「思い上がりも大概になさいな、遼夜さん」と言った。
 聞き間違いかと思った。それくらい優しい声だった。容赦のない言葉だった。
 俺は思わず、遼夜と遼夜の母親の間に入るように半歩分、自分の体の位置をずらした。遼夜の母親ににっこりと微笑まれる。……どうすればいいのか、分からない。
「お怪我の具合はいかがでしょうか。ご不便があればなんでも仰ってくださいね、出来る限りのことを致します。もちろん、治療費を含め費用は全てこちらで支払わせていただきますので」
「え……いや、そんな。大したことはないです。俺が勝手に喧嘩を買って怪我しただけで」
 そんなことより今は遼夜の方が具合が悪そうなんだが。なんだか気持ちばかりが焦ってしまう。遼夜をよく見ると、拳を握り締めているせいで手が白くなっていた。
「遼夜さん。以前、大人を頼りなさいと言ったはずですよ。一人で抱え込むだけならまだしもご友人まで巻き込んで、恥を知りなさい」
 遼夜は黙っている。顔が真っ青だ。遼夜の母親は、「まったく、よそ様の息子さんに怪我をさせてしまうなんて……」と物憂げに目を伏せた。別に遼夜のせいじゃないのに。遼夜が責められる理由なんて何も無いのに。
「周りに迷惑をかけたくないなんて、そんな甘ったれた考えは何事も自分で対処できるようになってから言うものですよ。あなたにはまだそこまでの器が無かったということを自覚なさい」
 一連の言葉はきっと二分にも満たないくらいの短いものだったけれど、聞いているだけで痛かった。まるでナイフだ。遼夜の家ではこれが普通なのだろうか。こんな、厳しい口調でいつも相対しているのだろうか。
「も――申し訳ございませんでした」
 搾り出すような遼夜の言葉は聞いているだけで苦しくなるのに、当の母親は涼しい表情でなんでもない風に言う。
「おや。謝るのはご友人に対してでしょう。それに、誰の許可を得て、いつまでわたしにそんな仰々しい口を利くのかしら。あなたはいつからそんな楽な立場に流れたの?」
 遼夜はそれを聞いて僅かに俯く。そして、顔を上げた次の瞬間には、まるで別人みたいな表情で自分の母親を見た。
「――おまえはもう下がっていなさい。おれは、彼と話があるから」
 それは到底親に向けるような言葉ではない。しかし遼夜の母親は、それを聞いて満足げに笑う。
「あなたが下がれと言うならそのように。差し出がましいことを言ってしまいましたね」
「構わないよ。……手間をかけさせてすまなかった」
「あなたはまだ年齢としては子供ですから、ある程度は仕方ありませんよ」
 正式なお詫びはまた後程、と、遼夜の母親は俺の方へと向き直り再度深く頭を下げる。またあのはっきりとした口調で「失礼致しました」と言い、俺たちから遠ざかっていった。
 嵐のような、いや――台風の目のような人だった。

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