羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「優しいひとなんだよ」
 誤解されているかもしれないから、と前置きして、遼夜は自分の母親のことをそう表した。
「昔、言われたことがある。おまえはこの先、常に他人から顔色を窺われ続ける人生だろうって。厳しいことを言えるのは、おまえを産んだわたしだけだと言われたんだ」
 厳しいのは優しいからなんだよ、と言って遼夜は微かに笑った。厳しくされるより、諦められて何も言われなくなる方がずっと嫌だ、とも言った。
「真希さんは、ああやって厳しい言い方をすることでおれを護ってくれている」
「……例えば?」
「今日みたいなときとか、もう何も言う気を失くすだろう?」
「ん? あー、待って。……えっと、つまり」
 あそこまで言われているのを見ると改めて文句を言ったりとか責めたりだとか、そういうことをしづらくなる、ってことだろうか。だからわざわざ俺の前で言ったってこと? 家に帰ってからじゃなくて、さっきこの場で言わなきゃいけなかった?
「……別にお前のせいじゃねえっつってんのに」
「奥のように好意的なひとばかりではないから……けれど、嫌なものを見せてしまってすまなかった。彼女もね、相手がおれの友人というのは初めてだから加減が分からなかったのだろうと思うよ」
 それにしても、と遼夜はふと不安そうな表情を見せた。
「手、怪我していると不便だろう。食事とか、いろいろ……」
「なに、お前が食わせてくれんの?」
「えっ……介助が必要ならきちんとした人手を寄越すけれど。世話係を家から出すには、おれはきっといちばん程度が低いよ」
 お前がいいんだよ、俺は。お前が笑ってくれればそれでいいのに。あんまり自分を卑下するようなことを言わないでくれ。
「傍にいてくれるだけでいいんだけど。たかが骨折くらいで大袈裟なんだよ、別にこのくらい病院にかからなくても自然治癒するぞ」
「だめだよ、骨が変なふうにくっついてしまうよ……」
 遼夜がそこまで言うなら大人しく通院することにしよう。医者には「階段から落ちた」と言い張ったから、若干視線が痛くはあるが。
 若干の沈黙が落ちる。遼夜は何事か考えているようで、やがて意を決したように「奥、あの……頼みがあるんだ」と言う。
 珍しい。こいつがこんなことを言うのは滅多に無い。できる限り優しい声で「どうした? なんでも言えよ」と返事をする。遼夜は何度も言いよどみながら小さな声で言った。
「……おれが強制できることではないのだけれど、あまり、強すぎる言葉遣いをしてほしくない、というか……言葉には力があるから、人の生死にかかわることは、その……」
 おれのせいでおまえがそういう言葉を口にするのはいやだ、と、遼夜は本当に珍しくマイナス方面の感情を言い切った。かなり遠回りだけど、要するに死ねとか殺すぞとかそういうのはやめてくれ、ってことかな。
 確かにいい言葉ではない。俺がこういう言葉を遣うことで遼夜が嫌な気持ちになるなら、それは俺にとっても嫌なことだ。
「お前は、俺がそういうこと言ってたら嫌?」
「……悲しくなる。そういうことを言ってしまうくらいお前が怒ってくれたのかと思うと、おれはそれが悲しい。少しだけ嬉しくなってしまうのもいやなんだ」
 俺がお前のために怒ることを嬉しいって、お前はそう思ってくれてんの? 俺の感情の理由をお前に求めてもいいの? お前はそれを、許してくれるんだな。
 こいつのくれた言葉を大事にしよう、と思った。こいつを悲しませるようなことは二度としたくない、とも思った。
「……もう言わないから、そんな顔すんなよ」
「約束、してくれるか」
「うん。約束」
 小指を差し出そうとして、そういえば骨折しているのだということに気付く。締まらねえな。思わず笑ってしまった。遼夜もようやくほっとしたように表情をほころばせて、いつもよりいくらか無邪気に見える笑顔がかわいい。
 やっぱり好きな奴には笑ってもらえるのが一番だな、と、俺は改めて強くそう思ったのだった。


 停学になった。
 マジか? って感じだけどマジだ。あのビビリ黒幕野郎、逃げたはいいが恐ろしくなったらしく全部教師にゲロってやがった。ギプスつけて登校した俺が職員室に呼び出されたときの話は語らなくてもいいと思う。相手が他校生で学校もあまり事を公にしたくなかったらしく及び腰だったので、一発退学は免れたが。相手の名前も分からないし相手も俺を知らないだろうと思って最後まで「階段から落ちた」で突き通したけど、まあ信じてもらえるとは思っていない。
 結局陸上部のあいつは退部したらしい。本人のためにもその方がいいだろう。大学とかで、もっと楽しむのがメインのサークルに入ったりするのも悪くないんじゃないだろうか。要するにとかげの尻尾切りのようなものだったが、うちの学校でほぼ唯一実績を残せる部活なので、他に影響が出るのを学校も恐れたのだろうと思う。特に、遼夜は「勝てる」奴だから。
 疑わしきが罰せられて三日間の謹慎を受けた俺である。そこそこ酷い暴力沙汰で本当だったら二週間くらいは反省させられる予定だったらしいのだが、驚いたことに遼夜の母親が何事か手を回してくれたようだった。たぶん推定被害者の親だから事情を聞かれたのだろう。遼夜も遼夜で自分の怪我のことは「おれの不注意です」と頑なだったので、学校側も最終的に匙を投げたかたちだ。
 さて、降って湧いた五連休を謳歌すべきだろうか。帰宅してからそんな風に思っていると、母親が珍しく早めに帰ってきた。「ただいま。あんた、随分男前になってるね」一日経ってめちゃくちゃ腫れた目の上の傷のことを言っているのだろうか。とりあえず、「おかえり。俺明日から五連休になった」と事実だけ伝えておく。
 昨日は母親の帰りが遅くて今日も出勤が早かったから、俺の口から詳しいことは話せていない。流石に黙ったままでは駄目だろうと思い、夕飯がてら事情を説明してみる。遼夜の母親についても、色々。やっぱりあの母親は、少しだけカルチャーショックだったから。
「……ふうん。遼夜くんのお母様は、随分と厳しい方みたいだね」
 でも冷たいひとではないと思う、とは、俺の話を最後まで聞き終わった母親の言だった。既に遼夜の母親から話がいっていたのか俺が何か話すまでもなく完全に事情を把握していて、「寧ろこちらが巻き込んだようなものなのに、随分と丁寧なお詫びを受けてしまった」と言った母親は、遼夜の母親についてそんな風に言う。
「いや……割と冷たく見えたけど。言葉がきついっつーか」
「そう? 母さんはそうは思わないよ。本当に冷たいひとなら、子供のためにあんな風に頭を下げたりできない」
「あー……まあ、確かに」
 俺みたいな子供に、あんな深々と腰を折ったのだ、遼夜の母親は。俺のことも、子供として、というよりは一人の人間として扱ってくれたように思う。子供が相手だからと対応を疎かにするような人ではないのだろう。
「あんた、遼夜くんのお母様に助けられたね。先生から電話がきたよ、『奥くんは巻き込まれただけだと連絡を受けまして……』とかなんとか」
「うわっマジか……いや、でも、そのせいで遼夜が母親にあんま悪く言われるのは嫌なんだけど」
「じゃあ次から慎むことだよ。遼夜くんが――まったくの被害者がそこまで激しく責められるのを見たら、みんな恐縮するものだからね。それは先生も一緒。あんたの処遇を気遣ってくれたんだろう。こちらからもお礼を言わないと」
 ああ、そうか。遼夜は、「厳しい言い方をすることで護ってくれている」と自分の母親についてそう言ったけど、護られていたのは何も遼夜だけではなかったということだ。それに気付かずに「冷たい」なんてイメージを持ってしまったのが恥ずかしくなった。
「まあ、今後は向こう見ずな行動は控えなさい。友達のために怒ることができるのは素晴らしいけど、あんたがこれで退学にでもなってたら遼夜くんは一生責任を感じるだろうね。優しい子でしょう」
「うん……遼夜は全然悪くないのに何度も謝らせちまった。反省、した」
「……優しい子だね、本当に。大切にしなさい、そういう友達は貴重だから」
 それにしても久々に休みが被ったね、と母親は言った。確かにそうだ。よく考えると、母親と二人きりの休日というのはかなり珍しいかもしれない。
「どうかな、明日は久々に映画でも――と言いたいところだけど、謹慎中か」
 じゃあビデオでも借りに行って家で観ようか、なんて提案してくる母親は、ああ俺は確かにこの人から産まれてきたんだなあ……と思わざるを得ないくらいのいい笑顔だった。息子が喧嘩で停学になって謹慎中だっつーのに娯楽を勧めるのかよ。
「……怒らねえの?」
 試しに聞いてみると、母親は特に悩んだ様子も無く言う。
「やりすぎたのはよくない。でもあんたの怒りは間違ってないと私は思う。友達が傷つけられて笑って済ませるような腰抜けにはなるなよ」
 学校が許さなくても私が許す。母親はきっぱりと断言した。
 やっぱり親子だなあ……と、その物言いにもはや呆れることしかできない俺だった。

prev / back / next


- ナノ -