羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 初めて店ではなく居住スペースに招かれ、案内された一色の部屋は家具がベッドと机と本棚だけのシンプルなものだった。本棚にはぎっしりと製菓に関する本が並んでいる。それだけで、一色がどういう生活をしているのかが垣間見えた気がした。
 わざわざ小さな折り畳み式のテーブルを広げてケーキにコーヒーまでつけてくれた一色に、なんと声を掛けようか迷う。結局、散々迷って「ありがとな。いただきます」とだけ言った。久しぶりに食べたケーキは、やっぱりとても美味しい。
「あー……っと、この間、悪かった。急に怒鳴ったりして」
「いや、おれが色々黙ってたから……。別におまえは悪くないよ」
 一色の口から、ついさっき女子から聞いていたのと概ね同じ話が語られる。この分ならあの女から話を聞いたことは伏せておけるかもしれない。そう思えるくらいには一色の語り口は赤裸々で、こっちが焦ってしまうくらいだった。
「ナメられるのと遠巻きにされるのだったら後者かなと思ってたんだよね」
「今のお前からだと想像つかねえな……髪、黒かったんだろ?」
 一色は薄く笑って、本棚から分厚い何かを放って寄越した。「卒アル。見ていいよ」本当にいいのだろうか……と恐る恐るページを捲る。卒業直前に撮ったと思しき集合写真だと今と大して変わらない姿が映っていたのだが、途中で一色の指がある一点を示す。
「これ成長期がくる前」
「……うわっマジか!? マジでこれ……あーでも面影……面影はある、かも」
 そこには、一瞬女と間違えそうな綺麗な顔立ちの男がいた。身長も周りの男に比べて低く、なんつーか……幸薄そうな美少女って感じ。これがこう成長すんのか……。
「甘いもの好きなのは言えるけど、作ってるのはちょっと言いにくい。この見た目にしたらしたで、『なんかヤバい薬とか入れてそう』って言われたことあって……」
「オレもそんなこと言う奴に見えてたか?」
「……ごめん。おまえは言ってなくても、おまえの友達がおれのこと色々言ってたのは知ってる。だからちょっと警戒しすぎた」
 うぐ……覚えがあるのでそれに関しては反論できない。オレも止めなかったので同罪であるとも言える。それに、こいつのことをよく知らない状態で、内心で欠片もそういうことを思わなかったかと言われると自信がない。
「おまえのこと好きだったから、万に一つでもそういうこと言われたらきっと傷付くなと思って……自分のために黙ってた。だからごめん」
 傷付きたくないという気持ちはけっして責められるものではないはずなのに、謝らせてしまったことが苦しかった。思わず感情のままに「謝るな」と言いそうになって――遅れて気付く。
 ……ちょっと待て。なんか今、普通にスルーしそうになったけど絶対しちゃ駄目な発言なかったか?
「一色……お前今なんつった?」
「え、何。聞かなかったことにしたいの? おまえのことが好きだって言ったんだけど」
 今度こそ本当に思考が止まった。悪い冗談だと言いそうになってすぐ思い直す。一色はそういう類の冗談は言わない奴だ。そのくらいは分かるようになった。
「それもあったから、おまえがおれの作ったもの食ってたことで嫌な気分になったら悲しいし……気持ち悪いって思われるのも、怖いし。それに、おれが嫌われたとしてもおれの作るケーキに罪はないし。というかおまえ本当に気付いてなかったの」
「は!? 気付くわけあるか! き、気付くわけ……ねえ、だろ」
 好きだなんて。こいつがオレのことを好きだなんて、そんな。
 気持ちを落ち着かせたくてケーキを一口食べる。……味が全然分からなかった。
 一色はそんなオレを見て、「勿体ない食べ方しないでね」と薄く笑った。うるせえよ。誰のせいだと思ってんだ誰の。
 じっと見つめられていることに体温が上がっていくのを感じる。何か返事しなきゃいけないんじゃないかと思うのに上手く声が出なかった。一色はそんなオレに発言を促すでもなく、「……もしよかったらこれからも店には来てよ。おれはホールには出ないし、店のケーキも殆どはおれの親が作ってるやつだから」と自己完結しようとする。
「おい、勝手に話進めんな。なんでお前に対して怒ってたか思い出したわ、オレの気持ちを捏造すんのやめろ。オレの気持ちはオレに聞けバカ」
 オレはこの店で食べるケーキをどれも美味しいと思っていたし、それは誰が作っていたかによって変わるような感想ではない。オレがオレの意思で、ここのケーキを美味しいと思って、だからずっと通っていたのだ。
 今までこいつとけっして短くはない期間一緒に過ごして、こいつがケーキを作っていることを知って。振り返ってみればこいつがどれだけ真剣な気持ちで家業に向き合っていたのか想像するのはそこまで難しいことではない。だからこそオレは悔しい。
「お前は……オレの好きなもの作れるすごい奴なのに、オレがそれを認められない奴みたいに思われてるのがムカつく。お前が自分の作ったものに自信持ててねえ原因がオレにある感じがしてそれが嫌だ。ふざけんなよお前。マジでふざけんな」
 お前の作ったケーキは美味いよ。そう言うと一色はバツが悪そうに「……ごめんね」とこぼした。そのことに胸のすく気持ちになる。いい気味だ。オレが受けたショックの分くらいは反省しろ。そうすればオレも鬼じゃねえし、許してやらないこともない。
 ああでも。「ごめん」じゃなくて「ありがとう」って言えよ、今度から。
「少しは反省したか? したならお詫びにオレのために何か作ってみせろ。目の前で」
「……もしかして本当に作れるか疑ってる?」
「ちっげえよ。オレが見たいだけ」
 いいのか駄目なのかさっさと答えろ、と座ったままそいつの背後の壁を蹴ると、呆れたような笑い声が聞こえる。
「こえー。ヤンキーじゃん」
「は? 今更気付いたのか?」
「しかも自覚あるのが余計に笑える」
 ちょっと待ってて、とそいつはスマホを取り出した。おそらく相手は親だろう。
「――ねえ、急なんだけど今から厨房使っていい? あ、無理? だよねー。いつならいい? ……は? 息子から金取るの? えー、いいけど……」
 ここで一色は、「明日のものすごく朝早くとものすごく夜遅くどっちがいい?」とオレに尋ねてきた。その二択しかないのか……。
「じゃあ、朝早い方で……」
「了解。朝四時ね」
「早すぎるだろ!?」
「いいじゃんどうせおまえ授業サボるでしょ。帰って寝直せば」
 好き勝手言いやがって。にしても、朝四時ってつまり起床は何時になるんだ……そして何時に寝ればいいんだ。
 一色はいつの間にか通話を終わらせていたらしく、スマホをしまってこちらに笑みを向けてくる。
「明日、電話掛けてくれれば店の玄関まで迎えに行くから」
「ん……なんか悪いな、急に」
「なんでここにきてしおらしくなるの? 謎なんだけど」
 そいつはほんの少しだけ何かを言うのを悩むようなそぶりをした。そして、おもむろに口を開く。
「……頑張って起きてね。すっぽかされたら悲しい」
 待ってるから、と畳み掛けられてどきっとする。どうしてこいつは何の躊躇いもなくこんなことが言えるのだろう。こんな、はっきりと好意がある……みたいな、そういう物言いができるのだろう。
 拒絶が怖くはないのだろうか。
 自分が伸ばした手を振り払われるかもしれないということを、恐ろしく思ったりはしないのだろうか。
「……、お前すごいな」
「え、何が? 早起き苦じゃないのが?」
「なんでだよバカ! スムーズに褒めさせろや!」
 オレも言葉足らずだったかもしれないが、それにしてもあんまりだろ。
 あいにくオレは他人を褒めるのに慣れていない残念な人間だ。でも、だからこそ、誰かをすごいと思ったこの気持ちを大事にしたい。
「あの……なんだ。お前はさ、ちゃんと言うだろ、色々」
「色々?」
「……こうしてほしいとか、どうされたら嬉しいとか悲しいとか、そういうの」
 一色はようやくオレの言いたいことを分かってくれたらしい。「別に何か殊勝な心掛けがあるってわけでもないけど」なんて言いつつ話を続ける。
「おれ、昔からなんだけど……自分では普通に喋ってるつもりでも、いまいち感情が出ない? っぽくて。それで、言ってること本気にしてもらえなかったりとか、軽く流されたりとか、よくあるんだよね」
「あー……」
「おまえは『そんなことない』って言わないからいいよね。……で、まあ、本音を蔑ろにされるのは困るし悲しいから、せめてちゃんと自分の思ったことは言葉にするようにしてる。そんな感じ」
「……そういうとこが、すごい……と、思った。さっき」
「ふは、ありがと。でもちゃんと言ったら言ったで『嘘っぽい』とか『白々しい』とか言われるからね。それも悩んでる」
 ぎくりとする。それはオレにも身に覚えのあることだったから。
 オレが特に深く考えずこいつの言動を“冗談だろ”と感じてしまったことに、もしかするとこいつは人知れず傷付いてきたのかもしれない。傷付いても表情に出ないというだけで、傷付かないわけではなかったはずなのだ。
「……ねえ水嶋、ちょっとおれのモテ自慢聞いてよ」
「は? 今? 脈絡どこだ?」
「や、これちゃんとさっきの話の続きだから。おれ、女の子から告白されたときは必ず『されたら嫌なこと』を伝えてから付き合うようにしてるんだよね。後出しはそれこそ嫌だし。で、伝えた上で普通にその『嫌なこと』されたりするからそのときは別れちゃうんだけど」
 いかにもきっちりしている一色らしいエピソードだな……まあモテは全然関係ねえけどな……と僻み半分に聞いていると、一呼吸置いてからそいつはまた静かに声を落としていく。そいつにしては珍しく、僅かに疲れの混じる声のように聞こえた。
「別れ話するときに理由を聞かれる。いやもうこの時点で『は?』って思うでしょ。でもおれはそこそこ我慢強いから、『最初に言ったじゃん』ってまた説明すんの。そしたらなんて返ってくると思う?」
「そこでオレに振るのかよ。……んー、『聞いてない』とかか?」
「それならまだよかった。――『確かに言ってたけど、全然本気っぽくなかったじゃん』だってさ」
 そ……れは、流石に……。
 予想外に重めの愚痴にこっちの心まで重い。聞いてないことよりも聞いてた上で無視される方がダメージでかいよな……と思わず深く頷いてしまう。きっとこいつは、自分の本当に嫌なことをあのフラットな声音で、うっすら口元に笑みでも浮かべて、それで「やめてね」なんて言うのだろう。百パーセントの本心で。
「挙句の果てには『本当は他に理由があるんでしょ』とか『飽きたから適当な理由つけてるんでしょ』とか言われるわけ。この見た目にしてから今までずっとそう。なんなんだろうね。嫌だっつって泣き喚いたらよかったの?」
「いや、それは……それは、それこそ、お前の本心じゃないだろ。泣き喚くとか……」
 思わず口から出た相槌だったのだが、一色はまるで眩しいものでも見るかのように目を細める。手首に温度を感じて、視線を下げるとそいつのほっそりとした指がオレの手に触れていた。
「…………なんでおまえは分かってくれるの」
 注意深く聞いてみれば、その声がほんの少しだけ掠れているのはちゃんと分かった。触れてきた手を思わず握り返して、後から自分の行動に驚く。けれど、握った手をほどくことはなかった。今はこいつに触れていたかった。
「――ごめんね。やっぱりおれ、おまえのこと好きだよ」
 耳元で小さな小さな囁き声が落ちた。気のせいかそれとも希望的観測か、はたまたこいつの努力が一瞬でも実ったのか、その声はとても切実で真摯なものに聞こえる。
 今になって気付いてしまった。
 こいつから向けられる感情に嘘が含まれていたことなんて、きっと一度もなかった。
「……ッだから、悪くないのに謝るのやめろっつっただろ……」
 最初に話し掛けられたときからそうだったのに、どうして気付かなかったのだろう。こいつは最初から、オレに好意を向けてくれていた。オレがそれを見逃していただけだ。きっと何度も言葉で伝えてくれていたのに、その全てを聞き流した。
 もっとちゃんと聞いていればよかった。
 そしたらこいつの気持ち、もっとたくさん受け取れた。

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