羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 友達から指摘されて自覚が生まれたのか、一色の傍にいるときの気分の上がり下がりを妙に意識するようになってしまった。あいつが嬉しそうにしているのが分かるとオレも嬉しいし、何を考えてるんだか分からない表情を見せられるとちょっと焦る。何も知らない友達に「お前よくあいつと喋ったりできるよなー」と言われると、イメージだけで好き勝手言いやがって、という僅かな憤りと、オレにしか見ることのできない表情や聞くことのできない声音があるのだろうな、という柔らかい部分を撫でられるようなこそばゆさを感じるのだ。
 これは優越感なのだろうか。
 一体何に対してだ。そんなことを感じる理由も分からない。
 最近殊更厳しい寒さに首を竦めて学ランの前を留めた。最近はめっきりタバコを吸わなくなって、持ち歩くことすら殆どない。開封済みのものはとっくに乾燥してそうだ。
 木曜日まで遠いな、と甘いものを恋しく思っていると、聞き覚えのある声が近くから聞こえてくる。……どうやら、一色が女子と喋っているらしい。一色はこちらに気付いていないようだが、よく通る女子のハイトーンな声はばっちり聞こえてくる。盗み聞きのようで若干気まずくてその場を離れかけ、耳に飛び込んできた言葉に体が固まる。
「ねえ、また澄仁の作ったお菓子食べたーい。ちょっと前のさー、ピスタチオのマカロンおいしかった!」
「あー、あれ割と評判よかったやつ……ピスタチオの方がよかった? フレーズは?」
「あたしはピスタチオの方が好きー。でもどっちもおいしかったよ」
 あの一色が誰かとマトモに会話をしているというのにもまず驚いたのだが、何よりその内容に一瞬思考すらストップした。聞き間違いではない。「澄仁の作ったお菓子」とあの女子は言った。
『皿洗いとか、まあ色々……』
 一色がどんな風に店の手伝いをしているのか、濁されたときのことを思い出す。全て繋がった。今ので分かってしまった。
 なんのことはない。あいつは、あの店の厨房でずっとお菓子を作っていたのだ。
 ずきりと胸が痛む。どうして教えてくれなかったのだろう。どうしてあの女子は知っていて、オレは知らなかったのだろう。
 オレがあいつの一番近い場所にいるだなんて、どうして勘違いしていたのだろう。
 改めて考えてみれば、一色は実家がケーキ屋であることも、甘いものが好きだということも、別段周囲に隠してはいないのだろうと思う。オレとは違って。だからあいつはああして当たり前のように女子とも甘いものについて喋る。今みたいに。
 オレにはあいつしかいないけれど、あいつの相手はオレでなくてもいいのだ。
 自分でもよく分からないくらいにその事実がショックだった。オレが名前も知らない女子には話すことを、オレには話してくれないということも。
 オレは無意識に、一色たちのいる方へと歩みを進めていた。ようやくオレに気付いたらしい一色が、何かを言いかけたのに言葉を飲み込んだのが分かった。
「……。水嶋、今の聞いてた?」
 もしここで、一色が特に何の感慨もなさそうな表情だったなら。そして、実はあのマカロンは自分が作っていたのだとなんでもない風に言ってくれたなら。オレはこの感情を忘れることができたかもしれない。
 でも一色は、まるで自らの行いを咎められたかのような――不安そうな顔をした。
 いつも無表情なくせに、こんなときに限って。
「……オレがもし聞いてたら何か問題あんのか? 聞かれたら困るようなことでも話してたのかよ。言っとくけどな、盗み聞きじゃなくて偶然聞こえただけだぞ」
 苛立ちが表情にも声にも出てしまっているのが自分で分かる。一色の隣にいる女子がおろおろしているがフォローしてやることはできなかった。自分のことで精一杯だ。
「オレには……言いにくかったのか。別にお前が作ったものバカにしたりしねえのに。お前にはオレがそういう風に見えてたのかよ……」
 まるで責めるみたいな口調になってしまったのは謝ったら許してもらえるだろうか。そんなことを考えるオレに、一色は返答を悩んだようだった。その口から今にも消え入りそうな声が漏れる。
「だって――おれみたいなのが作ってるってばれたら、嫌がられると思ったから……」
 一瞬何を言われているのか分からなくて、少し遅れてそいつの言葉の意味を理解する。同時に怒りがこみ上げた。思わず胸倉を掴んでその体を引き寄せる。
「……怒った?」
「お前、オレがなんで怒ってるか絶対分かってねえだろ」
 そいつは吐息を漏らすようにして笑った。まるで、泣く寸前みたいな笑い方だった。そして視線を逸らしたまま、「騙し討ちみたいにして食わせてごめんね」と囁く。
「――ッふざけんな!!」
 怒りで手も声も何もかも震えるなんて初めての経験だ。血が沸騰しているかのような錯覚をする。よりにもよってこいつ、「食わせてごめん」なんて言いやがった。
 それは駄目だろ。お前が作ったものを、お前が否定するなよ。
 オレは確かに今まであの店で出てきたものを一色が作っていただなんて知らなかったけれど、それを美味しいと思って食べていたことにひとつも嘘はないのに。
 一色のシャツを掴んでいた手を乱暴に振り払う。そのまま踵を返して駆け出した。
「っ、水嶋」
 背後からの声は無視した。……無視してしまった。
 どうせ手を伸ばすまではしていない。走って追いかけてくるほどでもない。だからこのまま振り返らなくてもいい。そう自分に言い聞かせて、ひたすら足を動かした。
 指先が、気温のせいだけではなく冷え切っていた。

「あれ、今日は煙草吸うの? もう完全に禁煙すんのかと思ってた」
「うるせえよ……半端に残ってんだよタバコ」
「処分したいだけなら俺にくれりゃいいのに。ソッコーで消費するわ」
 派手にキレてしまって一色と顔を合わせづらくなったオレは、あれから一度も店に行けず、かと言って他の店で甘いものを食べる気も起こらず、あまりの口寂しさについにタバコに頼ることにした。開封してから中途半端に放置していたタバコはとっくに風味が死んでいるだろうがそれももうどうでもいい。全てに投げやりになっていた。
 冬場の乾燥で酷い保存状態のタバコを咥えて、さて火を、と思ったところで頭上に影。
「あの……水嶋くん、でいいんだよね?」
 しゃがんだ状態で首だけを上に向けると、そこには微かに覚えのある顔。一色と一緒にいた女子だ。一体何の用だと言いかけて、存外強い意志の瞳で見られてぎくりとする。
「話がしたくて。というか、話を聞いてほしくて。聞いてくれるまで帰らないから」
 一色の奴、自分のためにここまでしてくれる奴がいるんじゃねえか、とまた苦しくなった。こんな、集団でタバコ吸ってるあからさまに素行の悪い集団の中に飛び込んでくるくらいに、一色のことを思って行動できる奴。
 事情がまったく掴めていない様子の友達はこれ幸いと放置。場所を移動したいと言えばその女子は素直についてきた。警戒心はまったく足りていないらしい。
「……何の用だよ。っつーか誰お前」
「そ、そんな凄んだって怖くないからね……! 澄仁の友達でしょ、水嶋くん」
 一色の幼い頃からの友達を自称するそいつが、友達の友達は友達、という迷惑すぎる理論を振りかざしてくる。「澄仁、水嶋くんがお店に来てくれなくなったって落ち込んでるから心配で……表情筋が死んでるし……いやそれは元からだけど……」
 ボロクソ言われてるが大丈夫か一色。少しだけ愉快な気持ちになったが、慌てて気持ちを引き締める。
「別に、オレが行かなくても客はいるだろ。……なんならお前が行けば?」
「はあ? 客じゃなくてアンタの話をしてんだけど何? 嫌味?」
 おい、取り繕うのを即刻やめてんじゃねえよ。せめて最後まで「水嶋くん」って言え。
 普段なら無視して帰るところだが、一色の関係者なのであまりぞんざいな対応はしたくない。それにこの女子は、あの場にいたからなのかオレの嗜好を察しているらしい。たぶんオレが一色の店に通っていたこともバレている。オレは内心でため息をつく。
「だから……別にオレじゃなくてもいいだろって話をしてんだよ。あいつも最初から、食べさせる奴にこだわりがあったわけじゃねえだろうし……」
 なるべく冷静に選んだはずの言葉はしかし、これが大失敗だった。「はあー!? それは聞き捨てならないんですけど! っていうか、澄仁の性格からして絶対言ってるでしょ、アンタがいいんだよ澄仁は」と大噴火されてしまう。
 ……確かに、味見を頼むなら喜んでくれる奴がいいとあいつは言った。週末一緒に出掛けるときだって、オレと一緒がいいと必ず言ってくれた。本人がこの場にいなくてよかったと思う。そのくらい、酷いことを言ってしまった自覚があった。
「あいつ……なんで、お菓子作ってたことは言ってくれなかったんだろう」
「嫌がられるかもしれないのが不安って言ってたでしょ。昔……そういうことがあったから。澄仁わざわざ知り合いいない高校選んでここ来てるんだよ、あたしはいたけど」
「えっマジか」
「マジだよ。小中の頃は髪黒かったしね。顔綺麗だし趣味が女子寄りだった上に言い返さないタイプだったからちょっと……まあ……男子に色々言われて。中三のとき突然『もういいわおまえら全員死ね』って教室から飛び出して次の日金髪ピアスになってた。てんとう虫の警戒色みたいなもんなんだよねあれ。なまじ似合ってるから効果絶大」
「…………、……なあ、それオレに言って大丈夫か……?」
「たぶん大丈夫じゃないんだけど水嶋くんが澄仁と仲直りしてくれたら減刑されると思うので庇ってください。そしてできればお店に行ってあげてください」
「お、おお……行くわ……」
 勢いで押し切られた。にしてもあいつ、親に店での接客禁止されても見た目変えるつもりなさそうだったのはもしかしなくてもこれが理由か……。あいつが知られたくなかったであろう話を聞いてしまった。オレのせいではないのに罪悪感だ。
 こうなってしまってはもたもたしている理由はないので、さっそく今から行くかと財布の中身を確認する。……よし、ケーキ食う分くらいはあるな。
「ほんとにほんとによろしくね! あたしのフォローもしてね! 水嶋くんに色々言ったってバレたらマジで後からねちねち文句言われそうだから……!」
「だったら色々言わなきゃよかっただろ……」
「同情でも何でもいいからひとまず会ってもらわなきゃ話ができないじゃん」
 確かに当人同士で解決するのは無理だっただろうから一理あるのかもしれないが、せめて一色に許可を得てから話をしに来てほしかった。まあこれに関しては一色がこいつと話し合ってどうにかするべきことだろう。今はただ、急いであの店に行くだけだ。
 鞄はどうせ何も入っていないので、スマホがポケットにあることだけ確認して速足で歩く。普段は十五分くらいかかるところを十分と少しで駅に到着し、大通りから一本横道に逸れたところで――見覚えのある金髪を見つけた。
 しかし、何やら様子がおかしい。買い物袋を提げているそいつの周囲に、いかにもガラの悪そうな二人組がいる。正直なところガラの悪そう具合だけなら双方いい勝負なのだが、そんなことを言っている場合ではない。
 嫌な予感と共に反射的に駆け出して、一色がまったくの無抵抗のまま胸倉を掴まれたのが見えたので背筋が凍る。なんでぼーっと突っ立ってんだあいつ!?
「一色!!」
 そいつの手を掴み、ついでにすぐ傍にいた推定不良をぶん殴っておく。無抵抗の人間相手に暴力を振るってこようとするバカに対して遠慮する必要もないだろう。二人組の怒号をBGMにして一色を引きずるように走る。幸い途中で人通りの多い道に紛れることができたので、周囲を確認しつつ遠回りで一色の家まで戻った。
「っこの、バカ! なんで絡まれてんだよお前」
「絡まれたことに怒られても困るんだけど……『今睨んだだろ』って難癖つけられて、おれが違うって言ったら余計に怒った」
 ごめんね、助けてくれてありがとう。間髪入れずにそんな言葉を差し込んできた一色はどこか気まずそうだった。居心地が悪そうだ。
「難癖はまあ、運が悪かったっつーか……でも、なるべく走って逃げろよ」
「おれ走るの遅いんだよね。運動あんまり得意じゃなくて……おまえは、食べるのも走るのも速くてすごいね」
 一色は、買い物袋の中を確認して荷物が無事であることにほっと息をついた。そして、「……何か食っていく? 今日はチョコレートムースのタルト」と遠慮がちに言う。
「そのつもりで来た。なあ、周りに人がいないところで話したいんだけど」
「じゃあ……おれの部屋、でよければ」
 願ったり叶ったりだ。オレはすぐに頷く。
 もう走らなくていいというのに、手を離す気にはなれないのが不思議だった。

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