羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 一秒。俺と遼夜の五十メートル走のタイムは約一秒強の差がある。俺だって別にものすごく足が遅いってわけじゃない、クラスの中で平均以上には走れてると思う。でも、たかだか五十メートルを走るだけで一秒以上の差がつくのだ。百メートルなら加速している分もっと差は広がるだろう。
 前に一度、無理を言ってあいつに手を引いて走ってもらったことがある。「絶対に危ないからやめた方が……」と渋るあいつに拝み倒して、ちょっとだけ。結果は、ものの数秒でギブアップだった。冗談でも何でもなく足が浮いた。改めて、規格外だな……と思ったものだ。
 遼夜はできることとできないことの差が激しい。身体能力はめちゃくちゃ高いけど球技は苦手。スポーツ大会のときの野球の試合でも、代走か盗塁しかできない、ときっぱり言い切っていた。ちょいちょい不器用で、必要以上に物を丁寧に扱っている。壊すのが怖いんだとか。国語は勉強しなくても元からできたらしくていつも学年上位にいる。代わりに英語は毎回「おれは絶対日本から出ない……」なんて言いながら勉強していた。
 元々、この学校に入学する予定は無かったのだそうだ。
 遼夜はそこまで勉強が得意というわけではなくて、ただ努力しているだけだった。自分でそう言っていた。本当だったらもっと部活の盛んな高校に行って、そのまま陸上競技者への道へと進んでいた可能性が一番高い。けれどそうはならなかったのだから、俺は今だけ運命論者になってもいいと思う。
 神様ありがとう。このチャンスは絶対モノにしてみせる。遼夜に、「努力を続ける」という才能があってよかった。


 遼夜の家はめちゃくちゃ金持ちらしい。家を見たことはまだ無い。恥ずかしい、と言っていたから無駄に暴こうとも思わない。いわゆる良家のお坊ちゃんというやつで、やっぱりどこか世間知らずでずれた部分があった。
 俺は目の前の惨状を見ながら内心でため息をついた。今日の三限と四限は調理実習だ。サラダと卵焼きとクリームシチューというまったく食い合わせを考えていなさそうなメニューだが、授業でやるものだとまあこんなものなのだろう。班分けは自由だったから大体がいつものグループで分かれて、さて始めるかといったところで問題が発生した。
 遼夜には料理の経験が無かった。まず包丁を握ったことがなくて、野菜よりも自分の指を切りそうになっていた。高槻が随分と慌てた様子で包丁を取り上げて、「お前はそこにいてくれるだけでいいから」とマジなんだか何なんだか分からないことを言っていたのでぞっとする。
 俺は遼夜のことが好きだけど別に猫かわいがりしたいわけじゃない。そこは勘違いされたくはない部分だ。例えばこういうとき、包丁の使い方を教えるくらいはするが全部取り上げて代わりにやってしまおうとは思わない。ちょっとの怪我くらいならガタガタ言うなよ男だろ、と感じてしまうタイプだし、そもそも遼夜は指先切ったくらいで泣き言は言わないだろう。
 なんというか、高槻は過保護すぎ。世話を焼きすぎ。あんまり甘やかすと相手はスポイルされるぞ。
 流石にマジで見てるだけにさせるのもなんなので、じゃあ卵割るくらいなら……と遼夜に頼んでみた。やけにおっかなびっくり卵に触れるからどうしたのかと聞いてみたら、なんと生卵を素手で触ったのは初めてだったらしい。すき焼きのときとかどうすんのという俺の問いに、「えっ……目の前で割ってくれる人がいるだろう」と当然のように返されて住む世界の違いに驚いた。卵、自分の代わりに割ってくれる奴がいる人生って……。
 その後、遼夜が調理台に卵を打ち付ける力があまりに弱すぎてヒビすら入っていなかったので、もっと強く、と言ったら今度は力を入れすぎたみたいでぐしゃっと潰れた。完全にフラグだったな。高槻が、信じられないものを見るような目で遼夜のことを見ていた。八代は神妙な顔で「割とあるよね」と言っていた。ねえよ。
「津軽ー、オレと一緒に味見係やろう。あと片付け」
「いやせめて卵の割り方くらいマスターしていけよ……ちょっとさっきのは前言撤回する」
 おっ。今回ばかりは高槻に同意だ。けど、今後遼夜が生卵を割る機会に恵まれるかどうかは謎。結局、料理のできない二人には包丁じゃなくてピーラーで野菜の皮むきをしてもらうことにした。あとはサラダ用のレタスを洗ってちぎったりとか。「まさかピーラーで怪我したりしねえよな」と高槻に言われて、「頑張ります……」って言ってた遼夜はなんだか面白かった。そこは「怪我しません」って断言してくれ。
 手つきを見ていればすぐ分かるけど、高槻はかなり料理ができる方だ。小学校の頃からいかにも慣れている風だった。あの歳からいっぱしに料理してみせるのなんて、大体が「必要に迫られて」だろうから俺は少しだけこいつに親近感を覚えている。
 たぶん俺と高槻の二人で全部やった方が早いけど、野菜の皮をむくのなんて初めてなのだろう遼夜と、ついでに八代も楽しそうだったのでよしとする。高槻はその様子をまだ心配そうにじっと見つめていた。
「あー……初心者に包丁で皮剥きさせようとしたのは悪かったから、とりあえずその妙に力こめるのをやめろ」
「おまえ、そんなことを言ってまたおれから包丁を取り上げるつもりなんじゃないのか……?」
「ちっげえよ馬鹿、っつーか何むきになってんだよ。早くそれ乱切り……乱切り分かるよな?」
「分かる……」
「なんだその不満げな顔……」
「ああ、いや、すまない。恥ずかしいなと思って……おまえのせいではないよ」
 ごちゃごちゃやっている二人を横目に、さっさと切り終わったらしい八代が「ねえ奥これでいいと思う?」と聞いてくる。見てみると、なんというか雑だった。切断面がぎざぎざで、たぶんこれ途中まで切ってからやっぱこっちにしよう、とかやってたんだろうなというのがありありと分かる。切りそこねた部分は手で折ったと思しき跡もあった。まあ最悪食えりゃいいので「いいんじゃね」と言っておく。高槻これ見たらキレそうだな。
 結局遼夜はそこから更に五分ほどかけて無事じゃがいもとにんじんを切り終えた。高槻はおそらく遼夜の手元を注視しすぎてぴりぴりしていたけれど、ボウルに切った野菜を入れて「料理は難しいけれど、楽しいね」と言った遼夜に、「そうだろ」と笑っていたので大丈夫そうだ。こいつらは一対一で話をしているときは意外と和やか。ここだけ幼稚園みたいだな。
 ちなみに、たまねぎは俺が切っておいた。はー、しみた。
 その後はかなりスムーズ。俺はクリームシチューといえば市販のルーを溶かすものしか作ったことがなかったけれど、高槻は小麦粉と牛乳から作るものでもレシピを必要とせずに完成させられるようだった。味見は料理のできない二人にしてもらう。美味いか、よしよし。シチューをとろ火で煮込んでいる間に卵焼きを作ったのだが、卵を割るところをものすごく真面目に観察している遼夜が微笑ましくて最後の一個を片手で割ってやると、「すごい」なんてやけに喜ばれた。
「高槻もできる?」
「できるけど」
「すげー、オレ絶対卵のカラも一緒にボウルに入れちゃうよ」
「別に無理して片手で割らなくてもいいんじゃねえの……というか両手でまともに割れるようになってからチャレンジしろよ」
 とかなんとか。全てを完成させて皿を並べて、家庭科教師がスーパーで買ってきたと思しきバターロールも配ってから手を合わせる。
 得意なのだろうとは思っていたけれど、想像していた以上に高槻の作ったシチューは美味かった。小学校中学校の調理実習なんてせいぜいきゅうりの千切りとか目玉焼きとかだったから、こんなにちゃんとした「料理」をこいつが学校で作るのは初めてなはずだ。けれど八代は、「今日も最高に美味しい」とご満悦だったのでつまりはそういうことなのだろう。
 本当に美味かったので、高槻にそう言ってみる。遼夜も一緒になってべた褒めしていたら、なんと高槻は普通に照れた。ふーん。
 俺はそこで、ちょっとだけ安心してしまった。人間味のようなものがきちんと感じられたから。こいつのことは気に食わない部分も多いけれど、あまりに自分の才能を粗末にしすぎだと憤ることもあるけれど、少なくともそんなに悪い奴ではないのだということは分かるのだ。
 しいて言うならこいつの遼夜に対する態度が読めねえくらいか。複数人で喋ってるとなんとなく刺々しいんだよ、こいつ。マジで謎。能力値のステ振りも明らかにバグってるし。まあ、それは遼夜もなんだけどさ。
「……奥? どうした?」
「んー……? いや、お前って格ゲーにいたらめちゃくちゃ操作しづらそうだと思って」
「そ、それはあまり器用ではないからという意味か……」
「違うって。性能ピーキーすぎて玄人好みって意味」
 黙って考えていたら流石に不審がられたので適当に誤魔化しておく。遼夜って、こんな誤魔化し方でも誤魔化されてくれるから優しいよな……。
 誤魔化されてくれなかった約二名は無視しておこう。早々に食い終わった俺は、片付けで皿が割れませんようにと数分後の未来に保険を掛けた。
 あー。文化祭のクラスの出し物、喫茶店系じゃなければいいけど。

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