羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 お夕飯をご馳走になりたいなんて、突然ずうずうしいことを言ってしまったのにセツさんは笑顔で「いいよ」と言ってくれた。本当だったら事前に伝えておくべきことだったのだけれど、わがままだということも分かっていたのだけれど、それでも「お客様」用の食事ではなくて、セツさんが普段から食べているのと同じものを一緒に食べてみたかった。極論、食材が無ければ一緒に買い物に行ったりとか、してみたかった。セツさんとならきっと楽しいと思ったから。
 まだお付き合いを始めて一週間くらいしか経っていないのに、キスしてしまったのは急ぎすぎただろうか。それとも遅かっただろうか。セツさんはこういうことに慣れているようだから、早すぎるのも遅すぎるのも幻滅されてしまったらどうしようと心配だ。
 やっぱりこういうことも勉強しないといけないかな。おれの家はみな早婚でお見合いなので、周囲にもお手本のようなものは望めない。本の中だと映画館に行ったり遊園地に行ったりしている描写をよく見るけれど、年齢差があるからかセツさんは外に出かけるとかかった金額全て払おうとしてくれてしまう。以前高槻さんのお店で夕飯をご一緒したときも、「俺が案内お願いしたんだし払わせて」と一円も出させてもらえなかった。セツさんに負担がかかってしまうようなお付き合いは避けたいので悩ましいところだ。
 年齢差のある恋人ってどんな感じなんだろう。というかそもそも男同士だ。男女の恋人のセオリーを安易に当てはめない方がいいだろうか。兄さんに相談してみるべき? ……渋られそうだな、すごく。
 うんうん唸っているうちにセツさんは煮物を作り終えたみたいで、「味が染みるようにちょっと冷ますね」と言っておれの隣に戻ってきた。伏せられた目の、くっきりとした二重の線をきれいだなと思って見ていると、セツさんがこちらに視線を向けたので目が合った。ふにゃ、と綻んだ表情がやっぱりかわいらしいなと思う。さっき目を閉じてほしいとお願いしたときも、睫毛のかすかな震えや固く握られた手に、少しはおれと同じように緊張してくれているのだろうか、と嬉しくなった。たぶんおれがこれから初めて経験することの数々は、セツさんにとっては何度も何度もおれ以外の誰かと既にやったことばかりなんだろうと思う。でも、それでも、おれが相手だから、という理由でセツさんがこれまでとは違う何かを感じてくれたらいいなと小さく決意した。
「マリちゃん、何考えてるの」
「あなたのことですよ」
「えっ? え、俺、どっか変?」
「いえ……これから、あなたと一緒に色々なことを経験できればいいな、と思って」
 セツさんはじわじわと耳を赤く染めて視線を下げた。「……俺、マリちゃんと一緒にいると初めてのことばっかだから、ちょっと恥ずかしい」やがて呟かれたそんな言葉に、おれは意外な気持ちで「えっ」と驚きの声をあげてしまう。そんなこと、あるんだろうか。
「セツさんにも初めてのことがあるんですか」
「初めてのことばっかだよ。仕事行く途中に立ち止まって花の写真撮ったりとか、冬の朝が寒いのも悪くないかなって思ったりとか……」
 その声は徐々に小さくなっていく。囁くような声量でセツさんの唇が続きを紡いでいく。
「メール、待ち遠しいなって思ったりとか。あと、貰ったメールや手紙何度も読み返したりとか。……半日かけて誰かに一生懸命手紙書いたり、隣に座ってるだけでどきどきしたり、泣きそうになるくらい好きだって思ったり……他にも色々」
 こんなにたくさん初めてのことばっかだよ、とセツさんは恥ずかしそうに笑った。じわじわ胸が温かくなってくる。おれもセツさんに、何か初めてのことをするときの胸の高鳴りをプレゼントできていたのだろうか。どきどきしてちょっと不安で、でもそれよりもっと楽しくて、そういう気持ちを感じてもらえていたのだろうか。
「セツさん。今おれ、とても嬉しいです。あなたを好きになってほんとうによかった」
「……そんなこと言われたのも初めてだよ。俺だってマリちゃんのこと好きになってよかった。こういうこと思うのもマリちゃんが初めて」
 こんな風に思えるようになるなんて自分でもちょっと信じられないくらいなんだけど、とセツさんは言葉を重ねる。その表情があまりにきれいで、温かくて、泣きそうになる。これからも素敵なことをたくさん共有したい。その相手がセツさんで、よかった。
「――っと、そろそろ冷めたかな? もっかい火いれてくるね」
 台所へと歩いていくセツさん。その未だ耳の赤い後姿になんとも言えない喜びを味わう。……後ろから抱き締めたらどんな反応をしてくれるだろうか。それはとても魅力的な欲求だったけれど、やっぱりまだ少しおれには早い気がして、「何か手伝えることはありませんか?」と声をかけるだけにとどめたのだった。

 セツさんの作る煮物は家で出てくるものよりもほんの少し砂糖が少なくて、だし巻き卵はそれだけでご飯のおかずにできるくらいしっかりと味がついていた。「俺、そんな料理得意ってわけじゃないよ」とセツさんは言っていたけれど、とても美味しい。暁人はこれを食べて育ってきたのか……と思うと暁人の味の好みが分かる気がした。
「ごちそうさまです。おいしかったです、とても」
「ほんと? よかった。もう外暗いからそろそろ帰った方がいいかもね。送っていこうか」
「ありがとうございます、でもそこまでお手数おかけするわけには……」
「……もうちょっと一緒にいる口実欲しいから、『うん』って言って」
 あんまりかわいいお願いだったものだから、おれは何度も頷いてしまう。セツさんの運転する車に乗せてもらったのはこれが二度目だ。あのときも助手席だった。こうやって、隣のポジションを当たり前に用意してもらえるのが嬉しかった。
 その日は、なるべくたくさん信号が赤にならないかな……なんて思いながら車に揺られていた。セツさんが少しでもおれと同じ気持ちでいてくれたらなと思う。
 途中、「そういや暁人今日どこ行ってんだろ……」「暁人は宏隆の家ですよ、確か」「うわっそうだったんだ、っつーか俺まだあいつに男の恋人できたってのが信じられない……自分のことより信じられない……」「それ、暁人も同じこと言ってました」「え?」「『まさか兄貴が男に走るとは』って」「なんだその言い方!? あのバカ!」なんて会話で車内を賑わせたりしつつ、車は夜の街を走っていく。
「……そういえばさ、俺、ちょっと前にマリちゃんのこと夢に見たんだよ。そんなに好きなのかって自分でびっくりした」
 これも初めて、と小さく言うセツさん。「きっとそれは、おれのせいですね」と言ってみると、信号待ちだったからかセツさんは顔ごとこちらを見て「なんで?」と首を傾げた。
「誰かが夢に出てくるのって、今と昔じゃちょっと解釈が違うんですよ。古典とかの時代だと、誰かが夢に出てくるのはそのひとに想われているからだと言われていたんです」
 信号が青に変わる。静かに車が発進して、しばらく沈黙が続いたのだけれどやがて「……じゃあ、マリちゃんも俺のこと、夢にみるかもね……?」と小さく聞こえた。おれの視線の先のセツさんは、街灯の明かりに照らされてその頬が真っ赤に染まっているのが分かる。
 おれはもちろん笑って返事をした。「そうだったら嬉しいなって思います」と。
 たぶんいつもより時間がかかって、おれの家の門の一ブロック隣へと車が停車する。名残惜しいけれど今日はお別れだ。
「セツさん、今日はありがとうございました」
「や、俺こそ。楽しかった」
「ふふ、おれもです。……またご連絡しますね」
 囁いて、運転席のセツさんの背中に片手を回し一瞬だけ抱き締めてから外に出た。ぴゅう、と風が吹く。最近急に寒くなったなと肩を竦めて、けれど心はとてもぽかぽかしていた。
 門から中に入る直前、振り返ってまだそこに停まったままの車を見つめる。セツさんが小さく手を振ってくれたのが見えたので、おれは自分の視力のよさに感謝しながら大きく手を振った。まさか気付かれると思っていなかったのか、セツさんが驚いた様子で手をひっこめたのがなんだか小動物みたいで面白かった。
 おやすみなさい、セツさん。

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