羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 正直俺は、本気の恋愛というものをナメてた。なんだかんだ自分のことを「慣れてる」と思ってたし、そりゃ本気ではなかったにしてもこれまで場数「だけ」はこなしてきたしこっちが年上だから、やっぱり俺が色々リードしないと……なんて思ってた。思ってたんだけど。
「あの……セツさん?」
「ぅえっ!? ご、ごめん、なに?」
 休日の夕刻、暁人は気を利かせてくれたのか何なのか不在で夕飯もいらないらしい、そんな俺の家のリビング。ソファに並んで座って二人きり。俺は、緊張でかちこちに固まった体をまったくコントロールできずにいた。
 どうしようどうしよう、全然顔が見られないんだけど。っていうか……あの……マリちゃんってかっこよくない……? 物腰柔らかくてめちゃくちゃ優しくてかっこいいんだよ……すごい……。なんかもうマリちゃんがちょっと視界に入るだけでどきどきしちゃって視線が泳ぎまくってしまう。どんだけ挙動不審だよ。
「ふふ、体調よくなったみたいでよかったです。もっとよく顔を見せてください」
 マリちゃんの両手が伸びてきて、顔の横に優しく添えられる。指先がピアスに触れた。じわりと体温が上がるのを感じる。頑張って視線を合わせると微笑まれてまた心臓がが高鳴った。マリちゃんはじっと俺を見つめてやがて満足したらしく腕を下ろす。
 それから俺たちは、お互いにゆっくりと話をした。これまでどんなことを考えながら接していたかとか、今どういう風に思っているとか。マリちゃんとの会話には、「嬉しい」とか「ありがとう」とか、そういうあったかい言葉がたくさん出てくる。こうやってまた、俺はこの子の優しさを実感するのだ。
「そういえば、お互い呼び方戻っちゃったね」
「あ、そうですね……やっぱり一年以上この呼び方だったので、まだ慣れないです」
 マリちゃんはふと、部屋に俺たちしかいないというのにひそひそ話をするみたいにして俺の耳元に口を寄せてきた。「ここぞというときに呼びますね、『雪人さん』って」その声音がとても弾んでいたから、俺もこくりと頷く。マリちゃんは『特別』を大事にしているらしい。そういえば、「あなたの『特別』になりたい」って言われたっけ。そんなの、頼まれなくても最初からマリちゃんは俺の特別だったよ。どんなときにマリちゃんが俺のことを下の名前で呼んでくれるのか、ちょっぴり楽しみだ。
 頬が緩みそうになるのを必死で抑える。ちょっと俯いて、視線を上げて、マリちゃんと目が合ったのでどきっとした。しかも、その瞳がとても真剣なものだったから、余計に。
「ええと……嫌なら、断ってくださいね」
 恥ずかしそうに笑うマリちゃんは、続けて「目を閉じてくれますか」と言った。流石にこれで察せないほど鈍くない。嫌なわけないじゃん。ただ、あの、めちゃくちゃ恥ずかしくはあるけれど。
 あなたはおれよりもずっとずっと大人だから、今からおれがすることは、あなたにとってはとてもつまらないことかもしれない。
 そんな前置きを言ってから、マリちゃんはとても綺麗な、文句のつけようもない優雅な所作で俺に近づいてきた。三白眼気味の目が普段ならちょっと冷徹そうに見えるんだけど、表情の柔らかさのせいかか全然気にならない。俺は静かに、そして素直に目を閉じた。「目を閉じてくれますか」なんて、もしも同じ台詞をその辺の女に言われたなら、逆に茶化すなり甘ったるい台詞を返してやるなりして主導権を奪っていただろう。けれどこの子相手だとそれすらできない。
 空気が動いて、マリちゃんの微かな吐息を頬に感じた。かすめるように、右ほほ、左ほほ。そして最後は、唇にそっと触れるだけのキス。
 目を開けると、困ったように眉を下げて笑うマリちゃんと視線が交わった。
「あなたのように上手でなくてごめんなさい」
 もしかしたら、キスにもちゃんとした作法があるのだろうか。
 何も言えない。心臓が早鐘のように打っていた。こんな、ただキスされただけなのに。しかもディープキスですらない。触れるだけのキスだなんて、何年ぶりにしただろう。
「……? どうか、しましたか」
 あんまり下手だから、嫌になりましたか。そんなことを悲しそうな顔と共に言われ、慌てて首を横に振った。余裕がない。じわじわと体に熱が集まってくる感じがする。どきどきしている。こんな、子供だましみたいな行為に胸が高鳴っている。
「雪人さん」
「……な、に」
「すきですよ」
 たった一言。それだけで心臓が痛いくらいにまた一段と跳ねた。やばい、俺の体、どうなってしまったんだろう。セックスじゃない、前戯にすら届いていない、それなのに。
 なんでこんなに、気持ちいいんだ。
 思わず目の前の体を抱きしめる。マリちゃんは俺よりもよほどしっかりした体つきをしているので、抱きしめるというか抱き着くって感じ。「俺、今すっごいどきどきしてる……分かる?」伝わってほしい。俺も、俺の全部使って伝えたい。マリちゃんがすきってこと。
 マリちゃんは長く息を吐いた。背中に回していた腕をほどいて表情を確認すると、安心したような笑顔で俺を見ていた。
「あなたに嫌がられなくてよかった」
「……え、何が?」
「キスするの嫌がられたらどうしようって、思ってました。おれ、こういうことは初めてなので……へた、だと思うんです」
 そんなこと気にしてたの。別にそんな、いいのに。マリちゃんは俺にただ触れるにも気を遣っている節があるけれど、俺が昔遊びまくってたのが関係してるのかな。別にキスが下手だろうが何だろうがいいよ。マリちゃんが俺のために何かしてくれてるってだけで嬉しい。
 本当に好きなひととなら、隣にいるだけでもどきどきする。
 それなのに、もっと触ってほしい。キスも、それ以上のことだってしたい。そこまで無意識に考えて俺は自分の思考回路に驚いた。それ以上って。それ以上って――ちょっとキスした程度でも心臓がうるさいのに、セックスなんてしたらどうなってしまうんだろう。心臓が破裂して死ぬかもしれない。
 こんなに人を好きになったのは初めてだ、と確信をもって言える。ちょっと前までの、女に求められるままにヤッて発散して、というのが改めてとても恥ずかしいことに思えた。気持ちの籠らない行為をしてきたことに強く申し訳なさを感じた。中には本気で俺を好きだと言ってくれる子もいた。一晩限りの子もいた。セフレみたいな子も。面倒になって着信拒否した子だって、たくさん。
 もしかしてあの子たちも、こんな痛みに耐えていたのだろうか。
 いつ離れていってしまうかとか、どうやったら繋ぎとめられるだろうかとか、好きでいてもらえるかとか。こういうことを言ったら面倒がられるかなとか、嫌われるかなとか。
 どうしよう。こんなに怖かったなんて。暁人が言ってたのはこういうことだったのか?
「……マリちゃん」
「なんですか、セツさん」
「あの……俺、今日は、仕事休みだから。暁人も、夜まで帰ってこないから」
「はい」
「……っ、もう、少し、……一緒にいたい」
 どこまで許してくれるんだろう。俺は、どこまでなら許されるんだろう。
 マリちゃんは少し悩むような顔をして、「おれ、セツさんの料理一度食べてみたかったんです。だめですか……?」と言った。マリちゃんがこういうことを言うのって珍しい。「いいよ! もちろん、ぜひ」食い気味に返答して、冷蔵庫の中身とレシピについて脳みそをフル回転させて考え始めた。マリちゃんは家に電話をかけるみたいで、じゃあ今のうちにとそっと立ち上がって冷蔵庫を開ける。通話が終わったらしいマリちゃんに聞こえるように、大きめに声をあげた。
「好き嫌いある? 何か食いたいもんあったら言ってね」
「好き嫌いは基本無いですね。……おれ、和食が好きなんです。やっぱり食べ慣れてるので」
「ん……和食か。うん、分かった。ちょっと待って」
 冷蔵庫の中を物色すると、豚肉があった。野菜室には大根が残っている。じゃがいもも。ついでにしらたきもあった。卵だってある。よかった、割と食材豊富な日で。
「豚肉と大根の煮物、大丈夫?」
「だいすきです、煮物」
 マリちゃんはこくこくと頷いた。かわいい。思わず口に出したら照れたようにはにかむ。……やっぱりかわいい。
「だし巻き卵もつくるよ」
「やった。ありがとうございます、突然お願いしてしまったのに」
 年相応に笑うマリちゃんを見ているとなんだかふわふわした気持ちになる。泣きそうだ。
 この子と俺とは生きている世界が違うけど。それでも、俺がこの場所を許されている今だけは、マリちゃんの隣にいられるこの瞬間だけは、笑顔を独り占めさせてほしいな、と思った。

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