羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 ぱたりと糸が切れたように倒れてしまったセツさんを見てたいそう慌てたおれたちは、どうにかセツさんをベッドに寝かせて一息ついた。下手に複数人で抱えるよりもいいと思って、初めて会った日と同じようにその細身の体を抱き上げると「お前力つえーな……」と暁人に褒められた。ちょっと得意な気持ちになってしまう。
「なんかなりゆきで俺までおにいさんの部屋入っちゃった……」
「あ? あーなにお前そんなん気にしてたの」
 宏隆と暁人が、ちょうどリビングとセツさんの部屋の境目の辺りに立ってごにょごにょ話をしていた。宏隆は突然呼び出されて走ってここまで来て、大変だっただろうにこんなときでも誰かを気遣っている。「『特別』は、大切にしなきゃいけないもんね」と宏隆はおれに向けて笑った。
 もうすぐ夕飯だから帰るねと言って手を振り遠ざかっていく宏隆の後ろ姿を、暁人は随分と長い間見つめていた。振り返らずに歩いていった宏隆は、暁人がどんな表情でその背中を見送っていたのかきっと気付くことはなかっただろう。ほっとしたような嬉しそうな、柔らかい笑顔だった。
「……あー、なんつーか、ごめんな」
「なにが?」
「俺、余計なこと言ったから……兄貴があんな風になると思ってなくて」
 暁人は珍しく落ち込んだ様子だ。そんな、俺に謝らなくてもいいのに。
 最近、セツさんに避けられているのには気付いていた。不安になったし、悲しくなった。もしかして気付かないうちに嫌なことをしてしまったのかもしれない……と思ったけれど、メールの文面は変わらずで。思い切って『会いたいです』と伝えてみたらなんと風邪だという。
 すぐ暁人に確認すると、少し苛立った様子で「そうなんだよ。あいつ昔から風邪ひくと何も食わなくなるんだよな……朝も、おかゆ作ろうとしたのにはぐらかされたし」と言われた。少し迷ったけれどお見舞いに行かせてほしいと暁人に申し出て、道すがらセツさんとのことを相談したら――暁人の部屋で待機を命じられて、あとはあの通りだ。
 突然大声が聞こえてきて、おれは思わず扉の近くで聞き耳を立ててしまったのである。いけないことだと思っていてもやめられなかった。おれが何かしてしまったのなら謝りたいと思っていた。
 けれど聞こえてきたのは予想外の言葉だ。「好き」と、セツさんは確かにそう言っていた。おれのことが、好きだと。
 嬉しかった。すぐにでも出て行かなければと思って、けれど足が動かなかった。もっと聞きたい、と願ってしまったのだ。セツさんはおれが近くで話を聞いているというのを知らなくて、だったらこれは飾らない本心のはずだと思ったから。申し訳ないと感じながらも、二人の雰囲気が尋常でなく不穏なものであるのを感じながらも――欲に負けた。
 すきなひとの口からおれへの想いがどんどんこぼれ落ちていくのを聞くのは、ほんとうにどきどきした。おれはあのとき、自分が明確に「わるいこと」をしているのが分かっていたけれど、それでもやめられなかった。ようやく体が動くようになったのは暁人が俺の存在をセツさんに話した後のことだ。必死で追いかけて、おれはきっとあのときまとめて数年分の叫び声をあげたと思う。
 嬉しかった。
 どうしようもなく嬉しかった。だって、おれのすきなひとがおれのことをすきだと言ってくれた。最近避けられていたのは嫌われたからではなかったと知った。だからおれの気持ちも早く伝えないと、と今の自分にできる精一杯の言葉を紡いだ。セツさんが扉を開けてくれたとき、おれがどれだけほっとしたことか。きっとセツさんはまだ知らない。
 扉の向こうにいたセツさんは、おそらく風邪のせいもあってか泣き出す寸前みたいな潤んだ瞳をしていて、頬も赤かった。それを見た瞬間一刻も早くこのひとを抱きしめたいと思ってしまって、自分の思考回路に驚いた。ああ、これが誰かを好きになるってことなんだ、恋をするってことなんだ、と感動した。
「暁人、謝らないでくれ。おまえのお陰でセツさんとたくさん話ができたから」
「ん……」
 暁人は悩ましげに唸る。「俺が言えたことじゃないかもだけど。……あいつのこと、できれば嫌わないで。あいつがあそこまで誰かに本気になったの、きっと初めてだから。お前だけだから」そう言われて今更気付いた。そういえばおれ、暁人に何も言ってなかったな。
「大丈夫だよ、おれもセツさんのことがすきだから」
 なるべくさりげない響きを心掛けて言うと、暁人は「……は?」とこちらを見て瞠目している。あ、先走ってしまった。セツさんと一緒のときに言えばよかったかも。でも心配させたままなのもなんだしなあ。そう考え込んでいる間にも、暁人は呆然と言葉を続ける。
「……す、好きって」
「そういう意味で、すきなんだ」
「えっ、セックスできるって意味!?」
「いや正直それはまだ考えてないけれど……? でも、特別だよ。おれにとってセツさんは特別だし、あのひとの特別になりたい」
 おれはてっきり、また「早く言えよ!」なりなんなり言われるものだと思っていた。けれど予想に反して暁人は、「……ありがと、ほんとに」とそれだけ呟いた。ほんの僅かに涙ぐんでいるのが分かって、けれど敢えて言うほどのことでもないだろうと「こちらこそありがとう、これからもよろしく」と返す。
 実はまだ夢見心地だ。セツさんは暫く目を覚まさないだろうしそろそろおれも帰らないと、既に夕飯には遅刻の時間である。明日は土曜日だけれど、そしてセツさんはきっとお仕事だけれど、もし風邪が治っていたらお仕事の前にまたお邪魔してもいいだろうか? もっと話がしたい。話したいことも聞きたいこともたくさんあるのだ。もっと、すきという気持ちを伝えたかった。ああでも、やっぱり病気だから少しは我慢しないと。自分がコントロールできなくて困る。
 セツさんから思いがけず聞くことができた気持ちの数々のなかには、不安を示すものももちろんあって。そんなに怖がらなくていいのだと言いたかった。だっておれはここにいるのだから。セツさんの隣が、いいのだから。
 おいとまのあいさつをして、ばたばたと駆け足気味に由良家をあとにする。暁人はおれのことも見送ってくれた。それだけのことが今はただひたすらに嬉しい。
 おれは駅のホームでそっと携帯のメール画面を開いた。暁人に頼んで、セツさんのプライベート用の携帯をおれのメールを受信させた後に枕元へと置いてもらったのだ。受信音やらなにやらで起こしてしまったら本末転倒なので暁人がいてくれてよかった。送信ボックスを開いて、自分がつい十分ほど前に送ったメールを読み返す。
『風邪がよくなったらまた二人きりで話がしたいです。伝えたいことがたくさんあります。わがままですみません。ごはんをしっかり食べてくださいね。だいすきです』
 慌てて打ったのでちょっと、というかかなり脈絡のない文面だったけれどおれは満足だった。これを見たセツさんは一体どんな表情をしてくれるのだろう。それを考えるだけでもしあわせな気持ちになった。
 すきなひとがいるってすごい。色々なものが輝いて見える。
 セツさんに出会ってからずっと素敵なことばかりだ。灰色の地下鉄のホームですらうつくしい映画の舞台のように思えて、おれは思わず笑った。
 次に会えたときはもう一度強く抱きしめて、今日の話の続きをしよう。

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