羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「雪人さん」
 下の名前で呼ばれた。それはいつだったか、この子が「練習しておきます」なんてことを言っていた呼び方。その表情があまりにも穏やかで、俺を拒絶する意思なんてかけらも感じられないことが逆に不思議だった。まるで夢の続きみたいに、その子は柔らかく微笑んだままで静かに言った。
「――あなたをお慕いしております」
 ゆきひとさん、とあまりにも優しく囁かれた六文字が自分のことだと認識するまでに少しばかり時間がかかった。一瞬何を言われているのか分からなくて、まじまじとその子の唇を見つめてしまう。今、何と言ったのか。俺の聞き間違いでなければ、夢でなければありえないようなことを言われた気がする。でも何度反芻したって聞き間違いではなかったし、俺の想像している以外の意味だとも思えなかった。
 あなたを、お慕い、して、おります。
 思わずその言葉をゆっくり咀嚼する。それはやわらかく繊細で、あたたかな響きだった。こんなに誰かをいつくしみあいする言葉を、ついこの間十七になったばかりの子が口にできることにも、その相手が俺であるということにも、驚いた。
「ど……どういう意味、何これ、夢?」
「おれもあなたのことを好きだという意味です。夢にされちゃうのは、おれ、いやですよ」
 あっごめん、違うよ、冗談扱いしたわけじゃないんだ。我慢していた「ごめん」が口から零れ落ちる。夢みたいって思うくらい、嬉しいんだよ。
 だってこの子は、慰めや同情でこんなことを言ったりする子ではないから。でもなんで俺なんか好きになってくれたの? っていうか俺男だよ? マリちゃんも男だよ? ほんとに大丈夫?
 そんな風に思っていると、まさか俺の内心を読んだわけでもないだろうにまた優しい声音が鼓膜を震わせる。
「あなたと一緒にいると明るい気持ちになります。いつも暁人のことを考えているやさしいところ、好きです。カクテルを作っている手つきも、ご自身が作ったものをとても丁寧に扱っているところも、素敵だと思います。家のこととか関係なくおれに接してくださったのがとても嬉しかったです」
 この子は俺の生き様を好きだと言ってくれているのか、と気付いて目頭が熱くなった。暁人のことも仕事のことも俺とは切り離せないものだ。それを認めてくれて、そこが好きだと言ってくれているのだ、この子は。
「……でも、一人で頑張りすぎてしまうところは心配です。誰かに頼ることを我慢してほしくない。おれがあなたの支えになれるならとてもしあわせだろうと思います。……あなたの特別になりたいんです」
 あなたの隣にいてもいいですか、と囁かれる。頷く以外のことができない。ほろりと涙がこぼれた。「嬉し泣きですか?」と聞かれたので素直に「うん……」と言うと笑われてしまう。
 服の袖で涙をぬぐうと、前と同じように「だめですよ、乱暴にしたら」とハンカチを押し当てられる。抱き締めて、とお願いしたら正面からぎゅっとされた。マリちゃんってやっぱり力が強いんだね。家族みんな強いですって言ってたっけ。
「俺、こんな、受け入れてもらえると思ってなかった」
「そうですか? おれはきっともうずっと前から、あなたに恋をしていましたよ」
 マリちゃんの言葉選びはなんだか詩的で、この台詞がこの歳でさまになるのは一種の才能だなあと言葉のうつくしさを噛み締めた。あなたをお慕いしております、だって。初めて言われた。
「あなたに伝えたいこと、まだまだたくさんあるんです。聞いてくれますか?」
「も、もちろん! 俺も言いたいこと、たくさんあるよ……」
 言葉がうまくまとまらないけど、マリちゃんはきっとそんな俺の言葉も待ってくれる。そう確信が持てることが嬉しい。
 ふわふわして夢みたいで、ぼんやりとマリちゃんの体温を感じていると玄関からばたばたと激しい足音が聞こえてくる。暁人が帰ってきたのか。謝らないといけないなと思いつつ、マリちゃんからそっと離れた。……後でまたしてくれるかな?
 予想はしてたが、ばんっ! と大きな音をたてて半開きだった扉が限界まで開く。壁にぶつかって若干跳ね返った扉を無視して入ってきた暁人は――覚悟を決めた顔をしていた。
 そして、一人じゃなかったのだ。
 淡い金髪のプリン頭をしたその子は、暁人の友達。海だって一緒に行った。宏隆くんだ。……なんで連れてきたんだ?
「兄貴っ」
「な……なに、っつーかなんでその子」
 暁人は俺の疑問を綺麗に無視した。かと思えば宏隆くんの背中をちょっと乱暴に押しやって、俺の前に並ぶ。二人とも走ってきたみたいで、息があがっていた。
「紹介する! こいつ俺の恋人だから!!」
 またもや俺の脳で処理しきれない情報が入ってきて動きが止まる。今こいつ、なんつった? 今度こそマジで聞き間違いかもしれない。そう思って宏隆くんを見たら、宏隆くんはいつものやんわりとした表情ではなくて少し緊張している風だった。
「えっと、由良……じゃなかった、あの、暁人くんとお付き合い、しています。よろしくお願いします、おにいさん」
 ぺこりと頭を下げられる。反射的にこちらも会釈して、「……えっ、マジで?」と素で言ってしまった。
「マジだから! 夏に花火したときから既にそう! 因みにエロいことはぎりぎりまだ! 未遂!」
「えっ由良的にはどこからがエロいことだったの……? ご満足いただけてない……?」
 赤裸々発言をし始めた弟を諫めてやるべきか迷っている間に、そいつは続けて叫ぶ。
「だから、お前のも全然恥ずかしくねーし、気持ち悪いとか思ってねーからな!」
 それを、言うために、わざわざ宏隆くんまで巻き込んでめいっぱい走って、ここまで来たの? それだけのためにそんな必死になってくれたのか、こいつは。
 たぶん宏隆くんだってロクに説明も受けてないだろうに、何も聞かず走って暁人についてきてくれたのだ。暁人にはそういう恋人が、いる。そしてそれを俺に教えてくれた。
「お――教えてくれて、ありがとう」
「……バーカ。お前もだろ。っつーかアレだし、好きな相手が男だろーがなんだろーがお前のこれまでの頭ユルい女遊びと比べたら万歳して喜ぶレベルだし」
「お前そうやって俺の女遍歴ちょくちょくバラすのやめてくんない!?」
 悪かったなセックスありきの付き合いばっかで! もうちょっと何か言い返してやろうかと思ったのに、暁人は笑ってまた俺の言葉を遮る。
「お前、男のシュミはかなりイイね」
 せっかくだから交換日記から始めてもらえば? とマリちゃんの方を顎でしゃくって言う。ああ、やっぱりこいつも、マリちゃんが頭ごなしに人の想いを否定したりしない子だというのを知ってるんだ。
 ……マリちゃんも俺のこと好きって言ってくれたよ、と伝えたらこいつはどんな顔をするだろう。
 それはなかなか心の躍る想像だったけれど、俺はそれ以上声を上げる前にぐらりと体が傾ぐのを感じる。泣き疲れたのと空腹と、叫びすぎて酸欠と、あとは普通に風邪が治りきってなかったのと――思い当たるふしはありすぎたけれど、考える暇もなく意識が落ちていく。
 意識が途切れる直前に感じたのは、俺の体を支えてくれる誰かの腕。それはきっとマリちゃんだった。しあわせな気持ちで俺の意識は限界を迎えて、気を失う。
 どうか、目が覚めたときこれが全部夢でしたなんてことにならなければいいと、そう思った。

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