羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 木曜日に限らず一色が話し掛けてくるようになった。なんだこれは。一体何が起こってるんだ。
 誤算だったのが、一色と共に行動したり喋ったりするのが予想以上に楽しかったということだ。……楽しかったんだよ……認めたくはないが……。
 よく考えたら、趣味が一緒なのだ、オレたちは。しかも、オレにとっては今まで誰とも共有できなかった趣味である。楽しくないわけがない。オレのせいじゃない。あいつはケーキ屋の息子なだけあって甘いものに詳しかったし、市場調査と称してそういう店に行くことも多かった。『並ばないと入れないとこに行きたいんだけど、どうせ待つなら誰かと一緒の方が退屈しなくてよくない?』なんて言われてしまっては、一緒に並ぶしかないではないか。あと、オレも並ばなきゃ入れない店のパンケーキとか食ってみたかった。ちょうどよかった。
 一緒にオペラを食べたあの日、会計をしようとしたオレに一色はこう言った。
『お代、コーヒーの分だけでいいよ。それ試作品だから』
 流石にそれは悪いと思ったし、試作品とか関係なくかなり美味かったので普通に支払をしたいと言ったのだが、試作品で金を取ると親に怒られる……とのことで。それなら代わりに何かできることがあるか尋ねてみると、これからも時々試作品の味見をしてほしいと言う。いや、それ、結局オレが得してねえか? そんなオレの内心に答えるかのように、一色は小さく、しかしはっきりとした声で告げた。
『どうせ味見頼むなら、喜んでくれる奴がいいからね』
 よ、喜ぶと確信されている……となんだか餌付けされているようで微妙な気持ちになったが、喜ぶか喜ばないかで言ったら確実に喜んでいるので反論も何もできなかった。
 でもまあ、裏を返せばそんじょそこらの奴よりもオレが味見した方がこいつにとっては嬉しいってことだよな。
 ……いやいやいや、なんでオレが一色を喜ばせてやんなきゃなんねえんだ。
「――なに百面相してんの? おまえ」
「うおっ……」
 心底不思議そうにしているそいつは、ナイフとフォークを綺麗に操ってパンケーキを食べた。まさか、さっきまでの思考の迷走具合をずっと見られていたのだろうか。
 一色は食べるのが遅い。一口が小さいのかもしれないし、オレより味わって食べているのかもしれない。オレはというと自分のをとっくに食べ終わっていて、だからこそ余計な考えを巡らせてしまったとも言える。
「なんでもねえよ。悪かったな変な顔で」
「いや別に顔は貶してないけど。おれが食うの遅いから暇なんじゃない? ごめんね」
「それこそ謝ることじゃねえだろうが。ゆっくり食えば」
「じゃあ、待ってくれてありがと。水嶋は食うの速いね。昔から?」
「あー……意識したことなかった。たぶん昔から」
 そんなことを言いつつ、自分にとってやけに耳に残る四文字の響きをほんの少しだけ恥ずかしく思う。
 一色は、オレと一緒のときはちゃんと名前を呼ぶようになった。
 これまで友達には普通に呼ばれていたし、なんなら一色に特別呼んでほしいと思っていたわけでもないはずなのに、いざ呼ばれてみればそれはなかなか悪くなかった。個として認識されている感じが強いからだろうか。
 タイミング的に、オレがこいつのことをちゃんと名前で呼んだからなのだろう。意外に距離感が近くても大丈夫なんだな、と思った。もっと、こう、全ての人間に対して平等に一線引いてる奴だと思ってた。
 まあ、本当にそういう奴だったらこうして特定の人間と休みの日に外出したりはしないはずだ。人となりを誤解していたということである。一色は見た目は派手だけど、学校が終わったら基本的に真っ直ぐ家に帰って店の手伝いをしている。冷たそうな印象も最初のうちだけ。スポンジよりはタルトが好きで、パイは綺麗に食べるのが難しいからあまり人前では食べないんだとか。
 悔しいことに、オレにはもう一色が“やばそう”な奴には到底見えなくなっている。
 ぼんやり考えているうちに、一色はパンケーキをすっかり食べ終わっていたらしい。「ごちそうさま」という小さな声がする。こいつは食べ方も綺麗だ。声があまり大きくないし、動作が静かだし、全体的に凪いでいる。
「水嶋お待たせ。そろそろ出ようか。まだ並んでる人多いし」
「そうだな。行くか」
 上着と伝票を手に立ち上がる。こういう混む店は別会計ができないことが多いから、どちらかがまとめて払うようにしている。そして、最初に一色がまとめて代金を払ってくれたとき、店の外に出てすぐ精算しようとしたオレにそいつはこう言った。
『計算面倒だしまた誘うから、都度精算じゃなくて交互に払うようにしない?』
 ああ、これっきりではなくて次もあるのか。と、なんだか妙な気分になってしまったのを覚えている。今日は四回目で、だからオレが支払う日だった。
 支払を済ませて店の外へと出たオレは、行列の女性客の視線をできる限り避け、冷たい風に首を竦めつつ先に外に出ていた一色のところへと向かう。……これはけっして気のせいではないと思うのだが、あいつと一緒に行動してると普段の倍以上他人の視線を集める……。なんというか、あいつも色々と苦労してそうだな。
 そんな、完全に他人事ですという感想を抱いてしまったのがよくなかったのかもしれない。一色と合流して、さて移動するか……と思ったところで突然声を掛けられた。
 二人組の女だ。おそらくオレたちよりはほんの少し年上で、いかにも遊び慣れている感じ。顔も可愛い。もしよかったらこの後一緒にどこか行かないか……とのことだった。もしかしなくともナンパなのではと頭が痛くなる。まったく嬉しくないと言ったら嘘になるが、こいつらのメインの目的は一色だろうから微妙な気分だ。
 オレが返事をするのもおかしいので一色の方を見ると、何故だかそいつもオレのことを見ていた。いや、なんでだよ。疑問が口からこぼれるより早く、一色が女の方へと向き直る。
「ごめんね、今日はこいつと二人で遊びたくて来てるから」
 まったく平常通りの声音だったので、きっとこういうのもしょっちゅうなのだろう。
 えーそうなの、男同士でパンケーキとか食べてもつまんなくない? という女の悪意のない軽口が不意打ちで突き刺さる。店から出てくるところを見られていたらしい。
 二人でいれば心強いかと思いきや、それはそれでこんなことを言われなきゃならないとは。いや、まあ、女と来た方が自然なのは分かってる。でもオレは――。
「――おれはこいつと来たかったの。今日楽しみにしてたし実際楽しかったから、そういうこと言われると悲しいよ。じゃあね」
 女が一瞬ひるんだのが分かった。オレは声をあげる暇もなく腕を引かれて人混みを抜ける。一色は、一度も店の方を振り返らなかった。
「お、おい、一色。腕……」
 ようやくその後ろ姿に向かって声を掛けると、一色は黙ってオレを見て腕を放した。
「ごめんね、勝手に断っちゃった」
「謝ることねえだろ……あいつらお前目当てで声掛けてきたんだろうし」
「おまえ鈍いね。ショートカットの子はおまえ狙いだったと思うけど?」
 えっマジか。そんな風には見えなかったけどな。微妙な気恥ずかしさに視線の先が定まらない。さっきこいつが言っていたことも相まってなんだか頬が熱い。
 一色は、『こいつと来たかった』と言ってくれた。たとえ誘いを断るための方便でも、こいつの声でそれが聞けたのはよかったなと思う。オレだって、こいつに誘ってもらえて嬉しかったのだから。
 同じ趣味を持つ人間として認めてもらえた気がしたし、受け入れてもらえた気がした。
「あー……やっぱ一色ってああいう奴らあしらうの慣れてるんだな」
「そう見える? 急に声掛けられたりとかは珍しいけどね」
「断り慣れてるっつーか、はっきり断ってるのに刺々しくないからそう思うのかもしんねえ。お前、『迷惑』とかじゃなくて『悲しい』って言うんだな」
 あの言い方だと、断られたとしても怒りより申し訳なさの方が先に立つだろう。行きずりの人間に対してかなり上手い断り方だと思う。そんな風に思ったのでそう伝えると、一色は真顔で首を傾げた。
「さっきのは思ったことそのまま言っただけだから、上手いって言われてもいまいちぴんとこないわ。……もしかして、断る口実みたいに聞こえた?」
 どきっとする。二重の意味でだ。さっきの断り文句を、百パーセント嘘ではないまでも断るための方便だろうと思ってしまったのは否定できない。もしこれが誇張なしの本心だったとしたらかなり感じの悪いことを思ってしまったな、という後悔と、つまりこいつは心からオレと一緒に過ごす今日を楽しんでくれていたのかもしれない、というむず痒さがない交ぜになる。
 このまま返事ができないのは余計に誤解を生むというか一色に嫌な思いをさせてしまいそうだ。かと言って「そうです口実だと思ってました」とは流石に口にできない。そこまで無神経ではないつもりだ。
 一色は黙ってオレを見ている。その目がなんとなく寂しげに映ってしまって、オレは半分呻きながら白旗を揚げた。
「口実……じゃ、なかったら、嬉しいと思ってた……」
 これでどうだ。嘘はついていない。完璧な返答じゃないだろうか。
 一色のようにすらすらと答えられなかったのが唯一の反省点だが仕方ない。オレは繊細なのだ。こんなこっぱずかしいこと平常心で言えてたまるか。
 なんでもいいから早く反応が欲しいのに、一色は微動だにせずオレを見つめるだけだ。あまりにも恥ずかしいことを言った自覚はあるので、ついに目も合わせられなくなってしまったオレは声を搾り出すように追撃する。
「……んだよ、なんとか言えよ。嘘じゃねえからな? 笑いやがったらぶん殴るぞ」
「物騒すぎでしょ。びっくりしたから声出せなかっただけだって。おまえ、全部顔に出てるから嘘じゃないのは分かるよ。ありがとう」
 こいつはたまに、驚くほど優しい声になることがある。接客のときのあの猫被った声とはまた違う。思わず顔を上げると目が合った。そいつが目を細めて笑う。顔が熱い。
「照れてんの?」
「うるせえよ。お前も少しは恥ずかしがれ」
「っふ、顔色やばい。苺じゃん」
「笑うなっつっただろ!」
「そんなこと言ってたっけ。殴るんじゃなかったの?」
 確かに笑ったらぶん殴るとは言ったがこんなことで本当に殴るわけねえだろ。笑うなっつー意味だよ。分かれよ。
 羞恥を通り越して腹が立ってきた。眉間に皺が寄る。しかし、「からかってごめんね。怒らないで」と言われてすぐ怒りは萎んでしまった。ああもう、どうなってんだオレ。情緒不安定か?
「今日、楽しかったね」
「おう……」
 まるで何事もなかったかのようにゆっくりとした口調で喋る一色を横目になんとかそれだけ返事をして、並んで歩く。
 一刻も早くこの熱が治まればいいのに、と、そればかりを考えていた。

「最近お前一色と仲いいよなー」
「……は?」
「いや、『は?』じゃなくて。たまに喋ってるだろ? 水嶋、前はあいつの話題が出るだけで顔しかめてたのに最近はそんなことないし」
「それは……まあ、色々あんだよ……色々……」
「色々? あいつに話し掛けられたらちょっと嬉しそうにするくらい?」
「はあ!? 誰がだよ!」
「お前が。顔に出すぎなんだよな」
 思わず地面に膝をつきそうになった。そんなに顔に出てるのか。っつーか、嬉しそうに見えるのか……。
 理由はなんとなく分かっている。あいつがオレに声を掛けてくるときは要するに甘いものを食べるときなので、おそらく一色に会うイコール甘いものを食べるイコールいいことがあるみたいな……そういう誤学習をしてしまっている……。バカだ……。
「お。噂をすれば」
 声につられて前方を見ると、そこにはやはりというか一色がいて。オレは、たまたま通りがかっただけであろうそいつに駆け寄る。
「一色!」
「――、どうしたの。珍しいね、そっちから話し掛けてくるとか」
 一色は、進行方向を変えてこちらに歩いてきてくれた。呼び止めたはいいものの用事なんてなかったオレが何も言えずにいると、そいつは小さく首を傾げる。けれどそれだけだ。重ねて聞いてくるでもなく、怒るでもなく。
 流石にもう、こいつの表情筋のサボり癖にも慣れてきた。他の奴らに比べたら少しくらいは、こいつが何を思っているか分かる。
 今のこいつは、なんだか機嫌がよさそうだ。
「…………、……いや、特に用事はねえんだけどよ」
「そうなの? 悪いけど今おれ甘いもの何も持ってないよ」
「誰が餌付けしろっつった?」
 小声で凄むと、そいつは珍しいことに声をあげて笑った。「おまえ、全然怖くないね」と言って。
 ……いや、うん。分かった。分かりたくないけど分かった。
 不本意ながら“嬉しそう”だなんて言われてしまったが、確かにこれは……こんな風に笑われても腹が立たないし、それどころか気安い会話が心地いいとすら思ってしまう。マジで餌付けされてんじゃねえのこれ……。
 本当はちゃんと気付いていたのだ。週に一度は放課後に会って、休みの日は一緒に出掛けたりして、これはきっと親しい友達と言って差し支えない仲なのだと。まるで甘いものに釣られたみたいで、負けたみたいで、認めたくなかっただけだ。
「悪い、引き止めて。マジでなんでもねえから」
「え、本当に何もないのに走ってきたの? 謎なんだけど」
 うるせえよ。謎なのはオレが一番分かってるっつの。なんなんだよ。
 ちらりと背後に視線をやると、オレが今こんなところで立ち尽くしている元凶である友達はとうにどこかへと消えていた。薄情な奴だ。どう収拾つけりゃいいんだこれ。
 なんとはなしにもう一歩だけ一色に近付いて、ふと、ほのかに甘い匂いがすることに気が付いた。一色からだ。少しだけ考えて、バニラの匂いだとすぐに思い至る。
「……おまえ、犬みたいだね」
「は?」
「変なにおいする?」
「いや、これバニラじゃねえの? カスタード系の何かが食いたくなった」
 よく考えたら匂いを嗅ぐとか変態っぽかったな……と内心ひやひやしながら一色の様子を窺う。幸いなことに特に気を悪くした風でもないのでほっとした。
「バニラのにおいそんなする? っていうかくさい?」
「なんでだよ、バニラだぞ。オレは好き」
「まあそうなんだけど。バニラビーンズってなかなかにおい取れないんだよね。爪短くしてても隙間に入ってきたりするし……量が多いとにおいもきついから」
 お菓子として完成したらあんなにいい匂いなのに、作っている最中はそうでもないようだ。今の一色からはかなり美味そうな匂いがしてくるのだが。
「そういやオレ、バニラビーンズってお菓子になる前の状態見たことねえわ」
「黒くて細長いさやみたいなやつだよ」
「さや? つぶつぶじゃないのか」
「さやを切って開くと中につぶつぶがまとめて入ってんの。それをこそげ取って、目に見える範囲の繊維っぽいやつは取り除いて……まあ最後にはちゃんと濾すけど。大体そんな感じ」
「ふーん……思ったより手間かかるんだな、あのつぶつぶ」
「真面目に作ろうと思ったら大体手間でしょ。……さやはべたべたしてるし中身はなんかねばっとしてるしにおいは取れないし、実はバニラビーンズの処理ってあんまり好きじゃないんだよね」
 ぼやく一色が面白くてつい口角が上がる。すらすらと語られる知識は非常に耳に心地よかった。こいつ、店の手伝いについて『皿洗いとか、まあ色々……』なんて微妙にぼかしていたけれど、ケーキを作る手伝いもそれなりにしているのだろう。そのくらい、さっきの言葉は実感や経験の伴うものだった。
「……つまんない話したかも。ごめんね」
「お前、悪くないのに謝るのやめろって。大変だなとは思うけどつまらないなんて思わねえよ。……この匂い、お前が頑張ってる匂いってことだよな、そしたら」
 家の手伝いを頑張ってる証拠だ。何の気なしにそう言って、一色がきょとんとこちらを見つめてくるのに気付く。頑張れば頑張るほど甘い匂いになっていくなんて物語の王子様も顔負けである……と頭の悪いことを考えていたのがバレたのだろうか。
 一色はしばらく黙っていたかと思えば、眉を下げてはにかむように笑った。
「……そんな風に言ってくれたの、おまえが初めて」
 そう言って、「嬉しい。これおすそ分けね」とオレの手をぎゅっと握る。三秒ほどそうしていたかと思えばあっさりと手を放し、校舎の方へと去っていく。
 色々な意味で取り残されたオレは、思っていたよりもずっと温かかった手のひらの感触に、何故か心臓が早鐘のように打っていた。血液が全身を巡る音が体中に響いている。
 なんだこれは。なんなんだあいつは。
 オレの些細な言葉であんなに嬉しそうにしてくれたのだって、あいつが初めてだ。
 ふと思い立って、さっきまで一色に握られていた手を顔の前へと持ってくる。当然と言えば当然なのだが、バニラの匂いはしなかった。
 そのことを残念に思ってしまった。
「なんだよ……全然、おすそ分けできてねえし……」

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