羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 習い事の帰り道でセツさんに偶然会って嬉しく思ったのも束の間、なんだか寂しそうな表情をしているように見えたので気になって散歩に誘った。セツさんはおれを見て笑ってくれたもののやっぱりいつもと少し雰囲気が違っていて――けれど流石に、泣き出してしまったのは予想外だった。
 セツさんはご両親とあまり仲がよくない、みたいだ。少し打ち解けられたと言っていたから改善の兆しはあるのかもしれない。おれが聞いていい話なのかと怯みそうになったけれど、話すことでセツさんの気持ちが少しでも軽くなるなら、と思った。それに、そういう話を打ち明ける相手におれを選んでもらえたことが嬉しかったのだ。おれは親戚との仲はともかく家族仲はかなりいい方だと思っているので、有益なことは何も言えないかもしれないけれど。
 あまり、人のプライベートなことに踏み込むのは好きじゃない。おれ自身踏み込まれて嫌な思いをすることが多かったから、親しいひとに対しておれが昔感じていたような不愉快な気持ちを味わわせたくないと思っていた。けれどセツさんは、おれに踏み込んできてもいいと言ってくれた。「聞いてもらえたら嬉しかったと思うよ」と言ってくれた。
 セツさんに対しては、ちょっとしたことでも気になったり知りたかったりするので少し困る。許されてしまうと際限がなくなってしまいそうで怖い。
 セツさんはおれにとって、家の意思の一切介入しないところで構築した関係性を持っているひとなのだ。名前を知られるよりも先、素性を知られるよりも先。親戚は確実に、セツさんを紹介してもいい顔はしないだろう。それでもいい。おれが関係を結んで、おれがそれを続けたいと思っているのだから。
「セツさん、大丈夫かな……」
 思わず独り言。駅での別れ際は随分と落ち着いているように見えたけれど、仕事が終わって家に帰ってまた泣いていたらどうしよう。なんとなく、セツさんは暁人の前では絶対に泣かないだろうなと思ったから余計に心配だ。ひとりぼっちで我慢したりしないでほしいと思う。
 流石にここまでくると大きなお世話だ。干渉しすぎ、かも。ううん、どうにも距離感に悩む。
 知り合いと表現してしまうとあまりにも他人行儀で、かと言って友達では気安すぎる。年上の友人、でもまだ足りない。セツさんとの関係をぴったり表すことのできる言葉が欲しい。兄さんに相談すれば、名前をつけてくれるだろうか。
 まだ手のひらにセツさんの体温が残っている気がしてちょっと恥ずかしい。思わず子供をあやすみたいにして背中をさすってしまったけれど、やっぱり失礼だったかな。セツさんに時折ハグされていたことを思い出した。ご両親が海外でお仕事をされているみたいだし、そういうところアメリカンな感覚なのだろうか。暁人はそんな風には見えないから、ちょっと不思議だ。
 家に着いて、いつもなら夕飯まで自室で本でも読むのだけれど今日はなんとなく兄さんとお話がしたい気分だった。長い渡り廊下を歩いて離れに向かう。と、途中でその離れからガタンッという音が聞こえた。この距離でも分かるくらいだから発生源ではかなり大きな音がしたんじゃないか? と嫌な予感がして早足になる。兄さんは一度、万年筆のインクを盛大にこぼして畳一枚だめにしてしまったことがあるのだ。姉さんが呆れたような顔で「お着物が汚れなくてよかったよ、ほんとうに」と言っていたのを覚えている。
 おれはまたぞろ兄さんが何かしらひっくり返したりしていないかと焦っていて、部屋に入る前に声をかけるのを怠ってしまった。普段なら絶対そんな失礼なことはしないのに、今日は色々あって考え事も多かったから……とは、今更言い訳をしても仕方の無いことだけれど。
 兄さん大丈夫ですか何も壊してませんか、と言うと同時に障子を開けて、おれは目の前の光景に固まってしまう。いつもこの時間は一人で本を読んだり原稿を書いたり筋トレをしたりしている兄さんが、今日はそれをやっていなかった。そればかりか離れには兄さん以外の人がもう一人いて、それは家族でもお手伝いさんでもなくて――――二人は、キスができそうなくらいの至近距離のまま停止していた。兄さんに覆いかぶさるように膝立ちの姿勢をしていたそのひと――智久さんは、視線だけおれに向けて何故かピースをしてくる。
 いや、キスができそうなくらいっていうか。こんなに近いともうそれ以外やることないだろ。
 すーっ、と無言で障子を閉めた。完全に視界が障子で塞がってから、「失礼しました……」とおそるおそる言った。よく分からないけれどおれ今、確実に見てはいけないものを見たよな? 見てないですと誤魔化せないくらいばっちり見てしまった。兄さんの表情は智久さんで隠れてよく見えなかったけれど、どういう顔をしていたんだろう。
 なんて、混乱した頭で考えているとその場から逃げる前に障子が再び開いた。そこにいたのは智久さんで、「うわ、お前背伸びたな」となんでもない顔で話しかけてくる。
「お、お久しぶりです……」
「おう、久しぶり。ちょっと話せるか?」
 頷く。思わず逃げようとしてしまったことを謝って、別にいいのにと笑われた。部屋に入って背後の障子をまたきっちりと閉めて、兄さんを見るとまるで貧血みたいな顔色をしていたので咄嗟に「大丈夫ですか」と言ってしまう。兄さんは「大丈夫……大丈夫……」と聞き取れるぎりぎりくらいの声で呟いていた。全然大丈夫じゃなさそうだ。
「おい、いつまで現実逃避してんだ。時間は戻らねえんだから腹くくれって」
「ううう、簡単に言ってくれるなおまえ……だからここでこういうことをするのはいやだったんだ、鍵がかからないからって何度も言ったのに」
「最終的にオッケーしたのお前だろ」
「おまえしつこいんだよ……それに、まさか仕事中にこんなことするとは思っていなかった」
「だから今日はお前の家から直帰だっつったじゃん。今六時三分だし仕事中じゃねえよ」
 さんぷん……と言ったきり絶句した兄さんは放っておくことに決めたらしい智久さんが、おれの方に向き直ってまた笑う。真剣な表情だったので、おれも姿勢を正した。
「順番前後しちまって悪いな。お前の兄貴と……お付き合い、させていただいてます」
 よろしく、と真っ直ぐ見つめられて、よろしくお願いしますと頭を下げた。驚いたけれどそこまでの衝撃が無かったのは、さっきの光景を見ていて「やっぱり」という気持ちが強かったというのと、あとは宏隆たちのことがあったからだろう。
「あんま驚かねえのな」
「ええ、まあ……」
 友達にもそういうひとがいるのだ、というのは、プライバシーにかかわることだから黙っていようと言葉を濁す。「気持ち悪いとか思わねえの?」と聞かれたので、これには「いいえ。兄さんがお慕いしている方ならきっと素敵な方です」と返す。おれは智久さんとは少し話しただけだけれど、それでも分かる。智久さんはきっと、兄さんのことをとても大切に考えてくださっているのだ。
 ここで一切誤魔化しをしなかったのがその証拠だろう。
 ようやく顔色が少しまともになってきた兄さんに、「あの……いつごろからとかって、お聞きしてもいいんでしょうか」と言ってみる。兄さんは少し黙って、
「高三のとき、から」
 と囁く。これには驚いた。だって、高三のときといったらもう五年近く経つ。兄さんは何かふっきれたようで、ふう、と軽くため息をつくと視線を上げる。
「万里、改めて紹介させてくれ。彼は高校のときからの同級生で、今は出版社に勤めておれの担当をしてくれている。……それで、あの、」
 おれのすきなひとなんだ、と。小さくはあったが確実に聞こえる声量で、兄さんは言った。どきりと胸が高鳴った。
 隣でなんだか満足げな顔をしている智久さんを見咎めた兄さんが、「……おい、なに嬉しそうにしているんだ」と不満を漏らす。
「いや、喜びにさいなまれてる」
「日本語おかしいぞ……」
「お前が家族に隠したがってるの知ってたけど、でも、お前の口からそれを聞きたかった。叶って嬉しいのにお前を困らせてるのが分かるから、嫌だ」
 兄さんは言葉に詰まったみたいで、暫く黙ってからおれに向かって「要するに……恋人、だよ」とだめ押しする。智久さんは「そういうところがマジで好き……」とかなりの熱視線だった。あてられそうだ。
 どうやらこのことは高槻さんと八代さんは高校時代からご存知だったらしい。「ずっと友達付き合いを続けてくれたのだから、有難いことだね」と兄さんは笑った。八代さんは大学が同じだったこともあり、一年や二年のときの共通科目などで同じ授業を取ったときはよく話に花を咲かせていたのだとか。そういえば高槻さんと八代さんはお元気だろうか。セツさんと一緒のときにお会いして以来、お店にもうかがっていないから会う機会が無い。なんとなく、高槻さんには気まずそうな顔をさせてしまうんじゃないだろうかと心配だから控えていたというのもあるけれど、近々またお邪魔してみるのもいいかもしれない。
「はあ……とうとう万里にまで知られてしまった……」
「え、おれ以外にも話したんですか」
「美影さんに知られているかもしれないんだよ……少なくとも恋人がいることは確実にばれている、というか高校のとき真っ先にばれた」
 女の勘がこわい、と兄さんは言った。確かに姉さんは昔から不思議と勘のいいひとだった。失せ物探しが得意で、どこからともなく見つけてくるのだ。そんな姉さんにならまあ、隠し事もできないかと思う。
 現在進行形で胃を痛めているのであろう兄さんをほんの少し不憫に思いつつ、おれは智久さんに頭を下げた。
「あの……兄共々、これからもよろしくお願い致します」
 まだ少しどきどきしている。落ち着かない気持ちを持て余す。智久さんは「こちらこそ」と笑って立ち上がった。
「じゃあ、俺帰るわ。……遼夜」
「うん?」
 智久さんは兄さんに何やら耳打ちをする。耳まで赤くなってしまった兄さんを横目におれも立ち上がった。別れ際はやっぱり二人きりがいいだろう。失礼しますと二人に声をかけて、引き止められる前にさっさと離れから出た。浮き立つようなふわふわした気持ちが抑えられない。
 すきなひと。
 兄さんが口にしたその響きにはっとした。それは、知り合いとも違う、友達とも違う、年上の友人でもまだしっくりこない――そんな関係にもしかしたらぴったりはまるんじゃないかと、思ったから。
 もちろん勘違いかもしれない。実際は全然違ったり、するのかも。でも、やわらかくてあたたかくて触れたらぱちんと弾けてしまいそうな繊細な響きは、特別な感じがしてなんだか嬉しい。
 これが恋愛感情かどうかはまだ分からないけれど、これだけは分かる。
 おれはセツさんの特別になりたい。
 セツさんの表情豊かなところを見ると嬉しいのも、カクテルを作ってもらうなら二人きりのときがいいなと思うのも、あのひとの個人的なことをもっと知りたいと思ってしまうのも、全部その『特別』を望んでいるから。
 おれの知らないセツさんの一面に動揺するのも同じ理由だろう。おれにとってセツさんは色々な意味で特別なひとだから、その気持ちがほんの少しでもいい、セツさんにもあればどんなにしあわせだろうかと思う。
 例えば寂しいときに真っ先に呼んでもらえるとか。困ったときに頼ってもらえるとか。セツさんにとってそういう存在でありたい。
 じわりと心臓が熱を持った気がした。このふわふわした気分を夕飯までにどう消化しようか、と思いながら歩いていると、ちょうど部屋から出てきた姉さんと鉢合わせる。姉さんはおれの顔をちらりと見て、鷹揚に笑った。
「おやおや……もう秋も訪れようというのに、ここだけ春めいているね」
 びっくりした。兄さんが「女の勘がこわい」と言っていた理由が分かった気がする。否定はせずに「どうして?」と尋ねてみた。どうして気付いたのかという意味を込めて。
 姉さんはやっぱり笑っておれの頭を撫でる。
「だっておまえが、昔の兄さんとそっくりな表情をするものだから」
 女子中学生なんて恋バナ大好きなのに迂闊だよねえ、と歌うように言葉を紡いだ姉さんは、「今日のお夕飯はビーフシチューみたいだよ」と続けて言う。メニューの内容に驚いてしまって鸚鵡返しにすると、「おまえ、いつだったかお店で食べたビーフシチューが美味しかったと言っていただろう。美希さんがそれを料理長に話したらしくてね……久々に血沸き肉踊る気持ちになったとか。納得できる味になるのに今日までかかったと言っていたよ、料理長」とすらすら答えてくれた。
 いやいやいや、おれの知らないところでそんなライバル関係のようなものが出来上がっていたのか……? 休みの合間を縫って練習したのかなあ、料理長……確か、和食一筋で何十年も続けてきたはずのひとなのに。
「よく考えたらわたしたちは、おいしいと伝えたことはあってもこうしてほしいと言ったことはなかったかもしれないね」
「確かに……作ってもらった上で注文をつけるのもなんだかはしたない気がしてしまって」
「実際文句のつけどころなんて無いんだよねえ、おいしいし。でもきっと、料理長はもっと色々要望があった方がよかったのさ」
 わたしはヴィシソワーズが食べたいなあ、と料理長を混乱させそうな横文字を口にした姉さん。「いつもより少し早いけれど、もうお夕飯にしてもらうのはどうかな? 料理長も早く万里に食べさせたくてそわそわしているよ、きっと」
「ふふ、じゃあそうしてもらおうか」
 兄さんにもお声掛けしておこうかなと姉さんが言うので慌てて止めた。首を傾げられてしまったけれど、頑張って誤魔化す。お手伝いさんが呼びにいってくれるよとどうにか納得してもらって、姉さんの背中を半ば押すようにして食事をする広間へと向かった。
 うっかり邪魔をすると、馬に蹴られてしまうからね。

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