羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 色々あったけれど、少なくとも親との対話のなかでは一番有意義なものになったんじゃないだろうか、と昨日のことを思い出して俺はゆるくため息をついた。両親は、次は秋に長めの休みをとって帰ってくるから、と言って仕事に戻っていった。「次」の約束をして両親を見送るのはもしかすると初めてのことだったかもしれない。
 なんとなく落ち着かない気持ちになってしまう。ちゃんと、俺の気持ちは伝わったのだろうか。今更「もっと構ってほしかった」なんてことはもう言えそうにないけれど、親との間にあったわだかまりは僅かに解けた気がした。両親もきっと、俺が荒れていた時期は大変だったのだろう。何か悩みでもあるのかと聞かれて先にそれを突っぱねたのは俺だったから。
 家に閉じこもっているのも健康に悪そうだったので、服でも見がてら歩こうと家を出た。仕事場の最寄り駅に着いて、けれど結局ウィンドウショッピングなんて気持ちにはなれず――せっかくだから散歩でもしよう、とあてどもなく歩き出す。普段なら、迷子になるから絶対にこんなことしないんだけど、今は何も考えず疲れてしまいたい気分だった。人のいない方にいない方に歩みを進めて、二駅分は歩いたかなという体感時間が過ぎた頃。「セツさん?」という聞き覚えのある声に俺は驚いて振り返った。
「えっ……マリちゃん? どうしたの? こんなとこで」
「ここ、おれの家の近くですよ。今は習い事の帰りです。ちょっと散歩して帰ろうかなと思って……セツさんはどうされたんですか? この辺り、めぼしい施設は無いですよね」
 気付かなかった。ここってマリちゃんちの近くなの? なんとなく歯切れの悪い返事をしてしまって、マリちゃんに首を傾げられてしまう。
「ええと……もしよければ、少しお話しませんか。あの角の向こうに公園があるんです」
 まだ店に行くには早い時間だ。なんとなく、今は一人になりたくなかった。マリちゃんのお誘いに有難く頷くと、マリちゃんはふわりと安心したように笑った。
 なんだか近頃は公園に縁があるな、と思いながら歩く。今日のマリちゃんはいつもより口数が少ない。見えてきた公園は、静かで緑の多いところだった。遊具がたくさん、というよりは花壇とベンチが多い感じ。色合いも、原色のぎらぎらした風なやつではなくて統一感があって落ち着いている。ジャングルジムもお洒落な黄緑色だ。
 こっちが日陰ですよと案内されるがままにベンチへ腰を下ろすと、マリちゃんも静かに隣へと座る。つい一昨日会ったばかりなのに、もう長いこと離れていたような気がしてしまう。
 マリちゃんは、「お話しませんか」と言ったわりには黙ったままだった。俺も何を言えばいいのか見つからなくて無言だ。でも、その沈黙は気まずいものではなかった。風が名前も知らない木の葉っぱを揺らす音に耳を傾けると、不思議と落ち着く。
 目を閉じれば遠くに子供の笑い声や犬の鳴き声が聞こえた。この辺りは本当に治安のいいところなのだろう。俺の職場の辺りなんて治安が悪すぎてどうしようもないのに、少し歩くだけでこんな場所に出るのか、と新たな発見で僅かに気持ちが上向きになる。
 細く目を開けて、太陽の光に目がくらむ。きちんと整備された花壇は綺麗な花が色とりどりに咲いていた。……この辺り、住民税めちゃくちゃ高そう。そんな現実的思考に含み笑いをしてふと隣を見ると、マリちゃんと目が合った。どきっ、と心臓が跳ねる。
「もう、寂しくなくなりましたか」
 優しい声が自分の体に染み込んでいくのが分かって、言葉の意味を理解した瞬間全て決壊した。自分でもよく分からないんだけど、やばい、と思った瞬間には既に涙がこぼれていて、それはあっという間に頬から顎を伝ってスーツの色を濃いものへと変える。驚きで見開かれたマリちゃんの瞳が日差しを反射してきらきら光っている。あまりにも綺麗でまた泣けた。
「え、あ、あの、すみません……余計なことをしましたか、おれは」
「ち、ちがっ……ごめん、よくわかんない、ごめん」
 弟の前ではちゃんと我慢できたのになんで今になって、おまけにマリちゃんの前でこんなんなるんだよ。
 マリちゃんのしてくれたことが余計だなんてそんなの絶対ありえなかったから、もつれる舌で「ちがう」と繰り返していたら優しく背中を撫でられた。流石に頭を撫でられたりはしなかったけど、まるで抱き締められているみたいで心臓に悪い。きっと、俺が泣いてるところがマリちゃんから見えないように気遣ってくれたのだろう。いつも通りのマリちゃんの優しさがどうしようもなく嬉しくて、ひくり、と喉が鳴った。
 そういえば人の体温はあたたかいのだ、と、マリちゃんに体を預けてそんな当たり前のことを思う。鏡を見なくても、自分の顔がぐしゃぐしゃだろうことは分かった。どうにか手探りで鞄からポケットティッシュを取り出し顔にあてる。ひっきりなしに流れていた涙もそうこうしているうちにどうにか止まって、自分がしゃくりあげている声がやけに耳につくのが恥ずかしい。
 すると、俺の背中を撫でてくれていたマリちゃんが「すぐ戻ってきますね」と言って離れていく。目は合わなかった。わざと視線を外してくれたのだ。これ幸いと鼻をかんで、目と鼻と耳がつながってるって本当なんだな、と若干の耳の痛みに顔をしかめた。
「セツさん、これ使ってください」
 斜め上から差し出されたのは濡らしたハンドタオルだった。「目が腫れるといけないので」とあくまで俺が泣いていたことには触れないでいてくれるマリちゃんに、俺は未だ涙混じりの声で「ありがと……」と言うことしかできない。
 貰ったタオルを両目にあてると当然ながら視界は塞がって、何も喋れないことの言い訳をしてしまう。タオルがぬるくなってからも、俺はしばらくそれを手放せなかった。
 結局、まともに喋れるようになったのはそれから十五分くらい後のことだった。
「あの……ごめん突然。引いたよね……ごめん……」
 もうどうすればいいか分からない。八つも年上のおまけに男が突然号泣って、痛すぎる。不審者として通報されなくてよかった。
 マリちゃんは未だ目のやり場に少し困っている様子で、俯きがちに「いえ、おれは全然……」と言う。
「……なんで分かったの?」
「え?」
「寂しくなくなったか、って聞いてくれたでしょ。なんで?」
 俺のこの問いかけはマリちゃんにとっては答えに迷うものだったみたいで、悩ましげに目を伏せる。顔を上げたマリちゃんは、ちょっぴり恥ずかしそうな表情をしていた。
「おれ、セツさんのことはたぶん他のひとよりもたくさん気がつけるんです。今、ちゃんと楽しい気持ちでいてくれるかなって……いつも気になる、ので」
 歳が離れているから、おれと喋っていても同年代のひとと同じようには楽しくなれないかもしれないって心配で、とマリちゃんは囁くように言う。
「ほんとうは、何があったのかお聞きしたかったんです」
「え……」
「セツさんが、あまり元気がないように見えたので……でも、聞けませんでした。むやみに聞いていいことではないと思いました」
 マリちゃんは言葉を選ぶのに悩んでいる様子で、少しずつ言葉を紡いでいく。「気付くことができても、暴いてはいけないことってたくさんありますよね」その言葉はやっぱり、優しかった。
「ううん……こんなことを言ってしまっている時点でだめですね。すみません。おれ、セツさんには笑っていてほしいなって思います。それだけなんです」
 励ましたいのに全然うまくいかない、とマリちゃんが眉を下げてしまったから、俺は慌てて声をあげる。
「っそんな、こと、ないよ」
 言葉がつっかえて途切れ途切れだ。マリちゃんの手をぎゅっと握って、また涙声になりそうなのをこらえて言う。
「マリちゃんに会えたから、元気になったよ。えっと、昨日……しんどいこととか、色々あって。でも、嬉しいこともちょっぴりあって、なんか頭ん中ぐちゃぐちゃでどうすればいいか分かんなくて」
 俺は、意を決してマリちゃんに家族の話をした。ずっとほったらかしにされて寂しかったとか、あまり仲がよくなかったとか――けれど、つい昨日ほんの少しだけ気持ちを打ち明けることができたとか。こんなの完全に身内の恥だし俺自身の恥でもあるし、完全な「弱味」だ。赤の他人に悟られてたまるかとずっと意地になってひた隠しにしていたことが、するする口からこぼれていく。
「ねえ、俺に対してそんな、遠慮しないで。俺、マリちゃんに自分のこと聞いてもらえたら嬉しかったと思うよ」
 マリちゃんは育ちがよくて優しくて控えめで、そういうところとっても素敵だと思うけどこういうときちょっと寂しい。もっとどんどん踏み込んできてほしいと思ってしまう。そういうの、絶対に嫌だったはずなのに。嫌だったのに、マリちゃん相手だと嫌じゃないんだよ。
「文化祭のときマリちゃんに下の名前で呼ばれたの、嫌じゃなかった」
 僅かにマリちゃんの瞳が見開かれる。幼い表情に可愛らしさを感じる。顔が熱くなって慌てて俯いた。
「びっくりしたけど全然嫌じゃなかったよ。でもマリちゃんは俺に気ィ遣って呼び方変えるのやめたじゃん。……ちょっとショックだった。他人行儀で。……あーもうごめん、俺めちゃくちゃ言ってるわ。マジで何言ってんだろ……」
 勢いのままに言うつもりのなかったことまで暴露してしまった。引かれてないかなとどきどきしながら視線を上げると――ほっぺたの赤くなったマリちゃんが、俺の視線に気付いて笑ってくれる。
「いきなりは恥ずかしいので、練習しておきます」
 練習、という場違いな響きにこちらも思わず笑ってしまう。
「――はは、なにそれ」
「うまく言えないんですけど、おれ、セツさんには嫌われたくないので慎重になりたいんです」
「えっほんとなにそれ!? 嫌うとかありえないから!」
 焦る俺に、マリちゃんはまた笑って「ゆっくりたくさん仲良くしてください」と言った。んんん……ほんと、マリちゃんの言葉のチョイスっていいなあ。大切にしてもらえてるのがよく分かる。
「おれはまだ子供ですし話を聞くだけしかできないですけど……セツさんがそれで少しでも寂しくなくなるなら、これからはそういうお話も聞かせてください」
「ん……ありがとう。マリちゃんも俺でよければなんでも話してね。ちゃんと聞くから」
 この歳で、自分のことを「まだ子供」と自称できるのがすごいと思った。俺にはできなかったことだ。
 ありがとう、とお礼を言う。あまり長々と引き留めてしまっては申し訳ない。タオルは洗濯してから返すとして、俺も仕事に行かないと。
 ベンチから立ち上がると、服の裾をそっと掴まれた。振り返るとマリちゃんの何か言いたげな表情。どうしたんだろ。
「あの、セツさん。おれ駅までの近道知っているので、そこまでご一緒してもいいですか?」
 え、一緒に来てくれるの?
 一緒にいられる時間が増えたのが嬉しくて口元が綻ぶのが自分で分かる。「ありがと、俺方向音痴だからめちゃくちゃ助かる」もう、マリちゃんの前では苦手なことを自然に苦手と認められる。それも嬉しかった。
 二人で並んで歩き出す。いつもより距離が近い気がして、俺は、何かの拍子に手が触れ合ってしまったらどうしよう、なんてことを思ったのだった。

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