羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「んで、マジに目指すの? ふっつーに就職した方が安泰だと思うけどなァおじさんは」
「兄貴の夢、一緒に叶えられたらいいなって思ってるから。っつーか、今更これ以外考えらんねーすわ」
 数日経って、俺は兄貴の働く店に遊びに来ていた。店長さんをつかまえて改めて話をしてみると、店長さんは頬を掻いて何事か思案した後、にやっと笑う。
「お前、めちゃくちゃ運いいよ」
「え、何がすか?」
 店長さんは楽しそうだ。「ゆきの教育係してくれてた奴がさ、最近戻ってきたの。もう長いこと連絡なかったのに突然で俺も驚いたんだけど」もうリタイア済みだけど時々顔見せるようになったから、お前の仕込みを引き受けてくんないか聞いてやる、というようなことを言われて俺はぴんときた。兄貴って、昔はかなり荒れてたのにある日突然更正したんだよな。もしかして、教育係っつーのはそのきっかけになった人なんじゃないだろうか。
 よろしくお願いしますと頭を下げる。じゃあ呼んでくるからと言われて驚いた。今いるのかよ。マジで運いいな俺。
 三分ほどで誰かを後ろに引き連れて歩いてきた店長さん。「え、マジで俺がまた面倒みる感じなんですか? もう店やめてるのに? なんで?」という声がする。うーん、あんま好感触じゃないっぽい。なんかどこかで聞いたことある声だなと思っていると、店長さんに手招きされたので俺はそちらへと駆け寄った。
 店長さんの影にいた人の顔がよく見えるようになって、めちゃくちゃ見覚えのあるその外見に俺は思わず間抜けな声をあげてしまう。
「……は? 高槻サンじゃん」
 暗がりでぼんやりとライトに照らされている整った顔は、行きつけの喫茶店の店主その人だった。名前を呼んだ途端、その人だけじゃなくて店長さんの表情まで強張る。「……あき、お前なんでスズカの『そっち』の名前知ってんの」なにやらまずいことを言ったことだけは分かるが、それ以外は何も分からない。そもそも「スズカ」って、誰?
 暗がりだったのと俺の視力があまりよくなかったのとで気付かなかったが、よくよく注視してみるとこの人、高槻サンじゃなさそうだ。少なくとも高槻サンより五、六歳は年上に見える。ひょっとしてひょっとすると三十を超している……かも、しれない。
 まだ状況を掴みきれてない俺とは対照的に、その人――スズカさん、は、なにやら得心いったようでふっと表情を和らげる。
「分かった。けーごの友達でしょ」
「けーご……? あ、あー、高槻敬吾サン……?」
 確かそんな名前だったよな? 不安まじりに言ってみるとどうやら正解だったようで、店長さんも「あー! なに、敬吾くんと知り合い? マジかー」と納得した様子だった。
 スズカさんはふわふわした笑顔を浮かべたまま、「不思議な縁もあるもんだな」と小さく囁く。
「えーと、ゆきの弟くんでいいんだよな? あきって呼んでいいの? 俺、スズカね。よろしく」
「あ、よ、よろしくお願いします……? え、面倒みてもらえるんすか」
「いいよ。断ろうかと思ってたけど気が変わった。ゆきの弟だし、けーごがお世話になってるかもだし」
 お前はお兄ちゃんに色々仕込んでもらってるだろうから、俺は楽できそうだろ、なんて目を細めて笑うスズカさんはとても優しそうに見えた。
「あの、スズカさん……は、高槻サンの、兄貴……?」
 きれいに並んだ睫毛で縁取られた瞼が、ぱち、ぱち、と瞬く。店長さんが隣で噴き出した。「ぶはっ! お前やっぱまだ現役イケるでしょ、もっかい裏で荒稼ぎしてみねえ?」「はー!? 勘弁してよ、この歳でホストとか絶対やでしょ四年前でも既に色々キツかったのに……っつーかあれだわ、最近の若い子はお世辞も言えるの? どうせだからけーごの弟ってことにしといた方がいい?」「うわははは! それこそ自分の歳考えろ! 敬吾くんより年下って、どんだけサバ読むつもりなのお前!」なんだか勝手に盛り上がっているがそんなことされても俺には何が何やらだ。ちょっと不満だったのが表情でばれたのか、スズカさんが悪戯っぽい笑みを浮かべて手を差し出してくる。
「改めてだけど、初めまして。高槻敬吾の父です。……よろしくね、あき」
 俺は、その情報を処理するのに脳みそをフル回転させる。父。……父親?
 言葉の意味を理解した瞬間、俺は握手のために差し出されたのであろう手を握り返すのも忘れて叫び声をあげていた。
「――父親ぁ!? あんた歳いくつだよ!」


 ひとしきり大笑いした店長さんに、ちゃんと敬語使え、と髪をぐしゃぐしゃにされた俺はスズカさんの隣で飯を食っていた。どうやらスズカさんは元はこの店の裏のホストクラブで働いていた人らしく、ちょうど兄貴の教育係の仕事が終わるのを待つようにして退職したとのことだった。
「なんつーか、お前のお兄ちゃん拾ったときは俺も色々あったんだよ。ほんとは仕事やめる気でいたんだけど、教育係任されちゃったから結局三年くらいはずるずる残ってたかな」
 やっぱり気になって年齢を聞いたら、「けーごが今年で二十三でしょ、だったら俺は三十九」とあっさり答えが返ってくる。このひとは子供の年齢から自分の年齢を計算するのか、となんとなくスズカさんの人となりが見えた気がした。っつーか十六のときの子供かよ。すげーな。
「俺と会ったこと、けーごには内緒にしててね」
「は、はあ……」
「よしよし。いいこ」
 最初は高槻サンにそっくりだと思ったけれど、こうして喋ると表情が全然違う。喋り方とか雰囲気とか、ふわふわのわたあめみたいだった。「お仕事中はこれでも割と評判よかったんだって。切り替えうまけりゃいいんだよ」とまた目元を和らげるスズカさん。
「えっと……これからよろしくお願いします」
「ん。あきはバーテンダー志望っつってたか。お兄ちゃんと同じように段階踏んで教えてった方がいいよな?」
 酒強い? と聞かれて反射的に「強いすね。割と」と返すと、「未成年だろ、即答しちゃ駄目じゃん」と笑われる。……ひっかけられた。
「まあ、作った酒の味見はこっちのオーナーに頼むとして……うん。お前やっぱお兄ちゃんに色々教えてもらえてるみたいだな。綺麗に食事できててえらいよ」
 めちゃくちゃ低いハードルで褒められた気がするが、スズカさんは全然俺のことをバカにしてるって感じじゃなくて、優しく笑いながら言ってくれるので嫌な気持ちにはならない。
「もし大っぴらに酒飲めるようになってからもあきがこの世界で生きていきたかったら、こっちのオーナーに言いな。それまでに俺がきっちりお前のこと仕上げてやるから」
「……っす。ありがとうございます」
「んな畏まらなくていいって。……はは、生きる予定ができちゃった」
 スズカさんは不思議なことを言った。そして、「誰かのために何かをできるってのは幸せだな」と呟く。俺が反応する前に、「バイト代は出ると思うから、そこらへんはこっちのオーナーと相談しな。ちゃんと昼のシフトにしろよ」と過保護な親みたいなことを言ってくる。
「……あ。もしかして味見役、お兄ちゃんの方がいい? 頼めばシフト合わせてもらえるんじゃねえ?」
 その、おそらく俺を気遣ってくれたのだろう提案をゆっくり咀嚼する。しばらく考えて、首を横に振った。
「兄貴に飲んでもらうのは、俺が自信持って酒作れるようになってからがいいです」
 最初の客を兄貴にしたい、と言うと、スズカさんは嬉しそうに「若いね。志が高くていいと思う、そういうの」と俺の背中を応援するみたいに優しく叩いてくれた。ちょっと恥ずかしいことを言った自覚があったから、「いいと思う」と即答してもらえたことがとても嬉しかった。
「あの。スズカさん、高校くらいのときの兄貴のこと知ってるんすよね」
「ん? うん」
「なんかこう……愚痴とか、言ってましたか。家事が嫌だとか、……弟の面倒見るの嫌だとか」
「……ふ。何無駄な心配してんの、んなこと言うわけねえだろ。お前のお兄ちゃんは要領いいわけじゃないし特別器用でもないけど、頑張り屋だよ。……全部お前のためだと思うけど?」
 知ってる。あいつが俺のためにどれだけ毎日頑張ってくれてるかなんて、俺が一番知ってるよ。
 でもこうやって他人の口から聞かされるとそれはやっぱりずしりと重くて、自分が恵まれているのを自覚する。普段あいつに直接言う機会なんて滅多にないけど、本当に感謝しているのだ。きょうだいがいてよかったと思うし、あいつが俺の兄貴でよかったと思う。
 あいつは俺の進路について心配そうにしていたけれど、もうしばらくは見守っていてほしい。
 これからたくさん頑張って、頼ってもらえる弟目指すからさ。

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