羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 最初はあいつの字に惚れた。
 それまでは、正直言ってあいつの存在をそこまで強く意識したことはなかった。目つきが悪いけれど穏やかな奴なんだろうな、という程度の認識。ただ、とても姿勢がよくていつでも背筋を真っ直ぐに、凛とした佇まいが綺麗だとは思っていた。こちらの存在はきっと認識されていなかっただろうが、陸上部エースとして有名なあいつのことは一応、同じクラスということもありフルネームを言えるくらいには知っていたのだ。
 そんなあいつが俺の中で、明確に特別な存在へと変わったのは一年の秋のことだった。
 偶然あいつのノートの中を見た。それはあいつが、思いついた文章を気の向くままに書き連ねていたノートで。俺があいつの机にぶつかって引き出しの中に入っていたノートを落としてしまって、その拍子に開き癖のついたとある一ページが見えたのがそもそもの始まり。
 なんて繊細で優しそうな字を書くんだろう、と思った。
 実は最初、女が書いた字だと思ったのだ。僅かに丸みを帯びた上品そうな柔らかい線と、華奢な輪郭を持つ字はどこぞのご令嬢が書いたのかと思うほどで、だからその席に座っているのが誰かを思い出したとき、俺はかなりの衝撃を受けた。
 これは男が書く字なのか、と。
 一目でその字に心を奪われて、書かれた文字を思わず目で追って二目で内容に惚れた。いけないと思いつつ、自分の席に行く時間すら惜しくてそいつの席を借りてひたすら読んだ。
 悔しかった。これをもっと早く、それこそ入学したその日に見つけたかった。こんなに綺麗な字で、こんなに綺麗な世界を描ける奴が身近にいたなんてと俺は感動すら覚えたのだ。同じクラスにいながらそれを知るのがこんなに遅くなってしまったのは、俺にとって重大な損失だった。
 それから間もなく津軽が教室に飛び込んできて、普段の様子からは想像もつかない荒々しさでノートを取り返されたとき、俺は直感的に気付く。このノートは、きっと誰にも見せていなかったのだと。そいつは走ったせいだけではないだろう赤く染まった頬を隠すように、ちょっと泣きそうな表情で目を逸らした。
 そんな風にされたらもう駄目だった。欲しい、と思った。こいつのこの才能も、こいつ自身も。
 このまま、このノートに綴られた言葉が日の目も見ずに死んでいくのかと思うと俺には耐えられる気はしなかったし、何よりこいつのことをもっと知りたいと思ったのだ。普段、作者の人間性と作品は切り離して読むように心がけているのだけれど、どんな価値観や感性によってこいつの作品が成り立っているのかが気になった。
 そうと決めてからは一切迷わなかったと思う。あいつに対する行動は、全てアタックだったしアプローチだった。あいつは基本的に人がよくて、押しに弱くて、絆されやすかった。ノートを勝手に見てしまったから下手をするともう喋ってすらもらえないかもしれないという俺の不安はあっという間に霧散した。あいつの隣というポジションをどうにか勝ち取れたのは、津軽のあの他人に対して甘い性格が一因だったといまだに思っている。
 これは勝負だし、賭けでもあった。一世一代の大舞台だった。
「遼夜」
 下の名前で呼ぶと、そいつはきょとんとして俺を見た。「……びっくりした」見れば分かるよ。あんまり分かりやすくて楽しくなってしまう。
「お前って夜に産まれたの?」
「ああ……そうだね、確かに親からはそう言われた」
 はるか遠くまで続く夜、か。なんともロマンチックな名前だ。銀河鉄道を思い出すな。
 もういい加減気付いたけれど、こいつは名字で呼ばれるのがあまり好きではない……のだと、思う。自分を表す記号が名字なのがあまり好きではない、と言ったほうがより正確だろうか。こいつの家は地元ではかなり有名らしくて、名字を言うとすぐ身元がばれてしまうんだとか。難儀な話だ。
 まあ、だからと言ってこいつは他人に「名前で呼んでほしい」と強いれるタイプではないのだろう。きっと嫌がられてはいないはずだ。驚いていたし恥ずかしそうにもしているけれど、その表情から負の感情は読み取れなかった。
 こいつは本当にすれてない。お育ちがいいんだろうな、っていうのがありありと分かる。ふとした仕草とか言葉尻とか、全てがこいつの丁寧な生き方を表していた。一人ではろくに買い物もしたことがないしコンビニ弁当もファストフードも食べたことがないと聞いたときは天然記念物か? と思ったものだけれど、こいつが毎日学校に持ってくる手製の弁当を見ていればそれも納得だ。あれは明らかにプロが作っている。なんだろう、何度かおかずを食わせてもらったことがあって、もちろん味もめちゃくちゃ美味かったんだけどそれだけじゃない。彩りとか栄養価とか盛り付け方とか、あれは料理で金を取れる人間が作ったものだと分かるのだ。きっとこいつの家には、料理のためだけに働く人間がいるに違いない。
 なんとなくそれを崩すのが勿体無くて、帰りに寄り道しようとかマック行こうとか、そういうことは言えなかった。ひとつの汚れも見当たらない清廉さがこいつにはある気がして、そういうところも好きだった。
「……ちょっと呼びづらいけれど、自分の名前はすきなんだ。ほら、『銀河鉄道の夜』みたいだろう」
 恥ずかしそうに笑って教えてくれたそいつのことを、これからはずっと下の名前で呼ぼうと思った。別にわざわざ宣言はしない。「俺も同じこと考えてた」とだけ伝えて、遼夜の目元が柔らかくゆるむのを幸せだと感じた。
 最初はこいつの字に惚れた。その字によって描かれた世界に心を全部持っていかれた。そんな風に始まった俺の恋だけれど、こいつ自身のことを知れば知るほど深みにはまっていく感覚がする。最近は欲を押さえつけるのにも慣れてしまった。最初はもやもやとした自分でもよく分からない気持ちだったけれど、今ならそれもはっきりしている。
 俺は、こいつを、汚したい。
 汚いものなんて何も知りませんという顔をしたこいつを、真っ先に汚すのは俺がいい。それはきっと、まだ誰も足跡をつけていない真っ白な新雪を踏み荒らす快感に似ているだろう。綺麗な世界にいたのでは分からないことを教え込みたいし、俺の跡をつけてやりたい。例えばこいつの快感にゆがむ顔はどんなものだろうか、と想像を巡らせることがある。普段うつくしい言葉遣いしかしないこの口から卑猥な声が漏れたり、いつもぴんと伸びた背筋がくずおれたり、するのだろうか。そう考えるとどうしようもなくぞくぞくする。
 背徳感や罪悪感を呼び起こすその密かな遊びは、誰にも言えない。
 いや、まあ、恰好つけて表現してみたものの、要するに好きな奴が傍にいるから普通にヤりてえわと思ってるだけなんだけどさ。でもこいつ、そういう話一切しないんだよな。猥談しねえの。嬉々としてそういう話をされてもイメージ崩れるんだけど、男子高校生のくせに性的なことをまったく匂わせないというのも逆にすごい。クラスで誰が一番かわいい、とか、そういう話にすら交ざらない。確かに品定めしてるみたいでけっして上品なことではないから、抵抗があるんだろうけど。おかげで俺はこいつの異性の好みすらろくろく把握できていないのだ。本の好みなら、分かるんだけどな。
「……奥? どうした?」
「ん? んー、いや、ちょっと……」
 知りたきゃ聞けばいい。簡単な話だ。でもさ、どんな女が好き? って聞いて、姫草ユリ子とか言われても困るじゃん。どう反応すればいいんだよ俺は。
 ちなみに俺はおしとやかで控えめな奴が好きだ。いくら感性が古いと言われても大和撫子がいい。だから遼夜はぴったりなんだよ、マジで。俺くらいなら軽々担げそうな男に対してこんなことを言うのも滑稽に見えるかもしれないけれど、でも、ぴったりだ。
「……遼夜が綺麗だと思う顔って、どんなの?」
 試しに変化球を投げてみる。遼夜はいつの間にか呼び名が下の名前に変わっていることに一瞬動揺したみたいだったけれど、俺が「下の名前で呼んで当然です」って態度を貫いたお陰か特に言及されずに済んだ。ちょろすぎる……。
「きれいだと、思う、顔……? ううん、どうだろう。……あ、高槻とか? きれいな顔をしているよね、あいつは」
 うわああ嫌な名前を聞いた。こいつは八代と部活が一緒だから自動的に高槻とも割と交流があるみたいで、いやそれ以前に出席番号が前後だし、五十メートル走のタイムもクラスで一番速いのがこいつで二番目が高槻だし、とにかく接点が多いのだ。今年の体育祭の選抜リレーではアンカーとその前でバトンの受け渡しとかしてたしな。
 あいつの顔立ちが整っているというのは事実だけれど、この場面で聞きたい答えじゃない。遼夜はまだうんうん唸っている。ああもう、んな真剣に考えちゃって。かわいいな。
「あーごめん、綺麗っつーか……好きな顔」
「好きな顔。きれいなものは好きだよ?」
「だよなあ。俺も好き」
 でも、綺麗なだけじゃ性欲は感じないんだよな。これ以上怪しまれずに質問できる自信が無かったので、まあまた機会があれば話を振ってみよう、と気持ちをリセット。
 ふと隣を見ると、遼夜も俺のことを見ていたみたいで目が合った。瞬間そいつはちょっと恥ずかしそうに俯いて、「もしかすると、失礼に聞こえてしまうかもしれないけれど……」とおずおず口を開く。
「おれ、おまえの顔はすきだよ」
 えっマジで? 期待してしまっているのが表情に滲まないよう細心の注意を払って「そうか?」なんて軽く応える。全然失礼じゃないし、気を悪くなんてしてないぜ、という意味を込めて。
「うん。きっとおまえのような顔なら誰にも怖がられたりしないんだろうなって、うらやましい……」
 んんんんそういう意味じゃねえんだよなあ……!
 想定していた話の流れからは大幅にずれてしまったけれど、どんな意味合いだろうとこいつの口から「好き」という言葉を引き出せたことに俺は満足してしまっていた。俺としては、童顔でナメられるこの顔よりも、遼夜の鋭い目つきとか涼しげな顔立ちとかすげえかっけえよなと思うんだけど……そこは無いものねだりということでお互い様か。
 こいつがあまりにも純粋すぎてやましい気持ちがどっかに行ってしまう。一緒にいると本当に飽きないよなとしみじみ思って、とりあえず自分の外見がこいつの許容範囲外ではないことにほっと息をついたのだった。

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