羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 親戚の相手をするのは苦手だ。いつでも品定めをされているような気分になる。
 おれの家はとにかく身内というものの範囲が広くて、遠縁の遠縁くらいになるともうおれにも把握できない。本家とか分家とかって、あまり好きではないなあ。無益な争いを生む気がする。まあ、分家と一口に言っても美影さんや万里のところのように住居を同じくしているものもあれば、お金を借りたいという相談のときだけやってくるようなものもあるけれど。後者の対応をいずれはおれがやらなければならないのかと思うと今から不安だ。
 おれの家はちょっと、いや、かなりおかしい。母親のことを「お母さん」と呼んだ記憶はおれには無かった。それが普通のことではないと知ったのはもう十年以上前のことだ。おれの母は厳しいひとで、おそらく平均よりも随分と早いうちからありとあらゆる作法を叩き込まれたおれは、真希さんのことを母というよりは先生のように感じていた。
『足りないなら、努力で補うしかないのですよ』
 それが彼女の口癖だった。
 生来あまり手先が器用でなかったおれを、根気強く教育してくれたのが真希さんだった。お手伝いさんではどうしてもおれに対して遠慮してしまうから、と言って、彼女は誰よりもおれに厳しかった。無駄を切り捨てるのも早かった。取捨選択の得意なひとだった。
 真希さんが色々なものを妥協の末に削ぎ落として、残った道具が箸と筆だった。茶道や華道の類は早々に諦められた。まあ、散々茶筅をだめにしたり剣山で怪我をしたりしてしまったから、その判断は正しかったと言える。食事のマナーは小学校にあがるまでに合格点をもらったけれど、そこに至る過程で「あなた、箸のひとつも満足に使えない分際で人間面をするのはおよしなさいね?」と手をひっぱたかれたのは忘れられないと思う。書道も最初の頃は墨を磨ることとまるばつさんかくの記号を書くことしかさせてもらえなくて、まともに『文字』を書けるようになったのは一年くらい経ってからだった。おれの母は自らも幼少期に同じような経験をして、書道の師範代の免許を持っていた。
 ひょっとするとこれらの躾は見るひとが見れば眉をひそめるほどに過剰なものなのかもしれないけれど、おれ自身はこれでよかったと思っている。おれがきちんとしていないと、父が悪く言われるということに早めに気付くことができたから。真希さんの指導のお陰で、高校生になったおれは手先の器用さこそ身につきはしなかったけれど人前に出ても恥ずかしくない程度の作法は身についたし、字に関しては書く機会があれば必ず感心されるほどにはなっていた。
「お前の字ってほんと綺麗だよな」
 奥が、学級日誌のおれの書いたページを眺めながら言った。ありがとう、と返して、おれは帰り支度を進める。おれはどうにも普段の動作がゆっくりしているらしく、普通に準備や片付けをしていると必ず最後になってしまうのだ。今日の奥は委員会の仕事を終えてから、おれの部活が終わるのをこうして待ってくれていた。ほぼ同じ時間に部活を終えたはずのやつらはもう全員いなかった。
 字を褒められるたびに、真希さんの躾の数々を思い出す。
「やっぱこういうのって小さい頃から習い事でやるのか?」
「そうだね、おれの場合は母が教えてくれたけれど……大体四歳になるかならないかくらいの時期から続けているよ」
「うわ、っつーことはもう十二年以上? オリンピック三回できるな」
 オリンピック三回分か。それを思うとなんだか感慨深い。「俺も今からやろうかな、ペン習字とか」なんて言っている奥は、なんというか鋭い字を書く。ちょっと荒っぽくて止め跳ね払いが激しくて、力がある。奥自身に似合った字だと思う。
「おれは……今の奥の字も、すきだよ」
「ん? 俺の字そんな綺麗じゃねえのに」
「でも、奥に似合っていると思うから」
 奥が照れたように笑うので、こちらもなんだか恥ずかしくなってしまって俯いた。また学級日誌のページを繰る音がする。
「……八代って、こういう提出用の字は割と丁寧なのに普段は雑だよな。俺たまに読めねえときある」
「あいつはたぶん、思考に手が追いついていないんじゃないかな」
「あー、頭いい奴は字が汚いとかそういう?」
「その説がほんとうかどうかは、分からないけれど……」
 一度だけ、数学のテストのときに配られる計算用の紙を八代から見せてもらったことがある。完全に自分用であろうその字は、判読も困難なくらいぐちゃぐちゃだった。八代自身ですら「あれ? 何書いてあんのか読めねえわ。テスト中は読めてたはずなんだけどなー」と首を傾げていた。あの境地には一生到達できないだろうな、と思う。頭のいいやつには世界がどんなふうに見えているのだろう。
「っと……待たせてしまってごめん。帰ろうか」
「別にそんな待ってないって。行くぞ」
 奥は学級日誌を教卓の上に戻して鞄を肩にかけた。並んで歩きながら、思わず含み笑いをする。ばれないように。奥はおそらくわざと、高槻の字には言及しなかった。
 あいつの字は、意外ときれいなのだ。
 そんなことを考えていると不思議とちょっぴり元気が出る。奥と喋っていると、昔だったら色々思い出して憂鬱になっていただろうな、という話題でもなんだか楽しい。今日の夕飯は遠縁の親戚がみえるのだけれど、精一杯頑張ろうと思う。


 奥はどうしてだか、おれの不調によく気付く。肉体的なものではなくて、精神的なもの。あまりそういうのは顔に出ないタイプだと思っていたから、奥が「なあ、あんま無理すんなよ」と言ってくれるたびに驚いてしまう。おれが自分の家の事情をぽつぽつ漏らすようになってからは更に、奥はおれの憂鬱な気分をかなりの精度で言い当てた。
 おれはこれまで、家でのことを話す相手というのは一切いなかった。言葉にすることで自分の出来の悪さを自覚してしまうのは気分のいいものではなかったし、周りのひとに心配をかけてしまうかもしれないのもいやだった。真希さんは「あなたは自慢の息子ですよ」なんて言ってくれるのだけれど、だからこそ弱音を吐くとがっかりされそうでそれも怖かった。
 だから、おれは奥に甘えてしまったのかもしれない。自分でひけらかしているわけではないのだから、隠しているつもりでもばれてしまうのだから、とあいつに対しては色々と打ち明けてしまう。来客のある日は気を張っていなければならないから部活の日と重なるとちょっと疲れる、とか、従弟が家の名前のせいで若干浮いてしまっているようで悲しい、とか、自分だけでは消化しきれなかったことを話した。そのたびに奥は「お前の家って色々面倒そうだよな」とばかにしたりせずに聞いてくれて、その気安い口調が、おれの気持ちをあまり深刻なものにせずにいてくれた。
 だからおれも、もし奥に嫌なことやつらいことがあったりしたら、話を聞いたり寄り添ったりできればなあ、と思っている。けれど奥はあまり生活する上で悩みは無いと公言していて、それは真実のようだった。しいて言うなら母子家庭というだけで可哀想がられるのが腹立たしい、なんてむくれていて、なんだか奥らしいなと思う。
 おれは、今日もまた隣を歩いている奥を横目にそっと息を吐いた。夏の日差しがまぶしい。今日家にくるひとはちょっと苦手だ、と漏らすと、奥は笑って「ムカつくこと言われたらそいつの尻蹴っ飛ばすとこ想像すりゃあいい」といつものように励ましてくれた。
「おればかりこんな、頼ってしまって申し訳ないな」
「なんでだよ。俺んとこは別にご大層なお家柄も守らなきゃいけないようなしきたりもねえし気にすんな」
「奥はすごいなあ。ぜんぶ、自分でちゃんとできるんだろう」
「俺の『ちゃんとできる』の程度なんてお前より断然低いと思うけどな。まあたまーに悩むこともあるよ、もう弁当に三日連続できんぴらごぼうが入ってるとか」
 こうやって、さりげなくおれを笑わせてくれる奥は優しい。乱暴な口調では隠し切れないくらい、こいつはおれに優しかった。
「……もし奥に一人じゃ抱えきれない悩み事ができたときは、おれが力になれたらいいなと思うよ」
 相談相手にもしおれを選んでもらえるなら、それはとても嬉しいことだ。おれはきっとこいつが思っている以上に色々な気持ちや思いを奥に預けてしまっているから。こうして話をすることでどれだけ楽になっているか、知っていてほしいと思う。一方的に助けてもらってばかりは、いやだ。
 奥は、まあるい瞳でじっとおれのことを見て、ゆっくり笑った。
「俺さー、今どうしても欲しいものがあるんだよ」
「欲しいもの?」
「んん、物じゃない、んだけど……まあ、めちゃくちゃ欲しくて。すげえ難しくても絶対諦められねえんだろうなって分かっちまうから、それが悩みと言えば悩みかも」
 そんな話初めて聞いた。奥には欲しいものがあるらしい。どんなものだろうなと想像を巡らせていると、「……お前にだったら簡単に手に入る」と言われてよく分からなくなってしまう。下世話な話だけれど、おれになら入手が簡単なものというともう金銭絡みのことしか思いつかない。まあ、おれというよりはおれの家、の話になってしまうのだが。あとはせいぜい陸上の大会のトロフィーとかだろうか? でも、奥がそういうのに憧れているという話は一切聞かないし、そもそも物じゃないんだよな? 速く走れるようになりたいとかだろうか。こうして考えてみると、おれが個人で達成できることってほんとうに少ないな……悲しくなってきた……。
「……お前なんか変なこと考えてねえ?」
「えっ。いや、おれって何もできないなと思ったら悲しくなった……」
「はあ? なんでそんな話に……あー、あのな。『俺と同じ悩みをもしお前が持ってたら簡単に解決できる』って意味じゃねえからな」
「……?」
「俺の望みはお前にしか叶えられない、って言い換えてもいい」
 その言葉の重みに一瞬ひるんでしまった。そんな重大な立場にいるのか、おれは。でもおれが奥のために何かできるのかと思うと嬉しかったので、かなり気持ちが上向いた。
「それは、教えてはもらえないのか?」
「ん? なんで」
「おれなら解決できるんだろう」
 なんでもするよ、と言ったら「んな簡単に『なんでもする』とか言っちゃ駄目だろ」と妙に真剣な顔で言われた。だって、おれにできることなんてほんとうに少ないだろうから問題無いと思ったんだよ。奥はそんな酷い『お願い』をするようなやつではないというのは分かっているのだし。
 奥はなんだか形容しがたい表情を見せた。もうすぐ駅についてしまう。帰り道が分かれてしまう。それまでに教えてくれるだろうか。
「……ひとつは、もう言ってる。あとひとつは、今は言えない」
 数メートル歩いたところで聞こえてきたのはそんな台詞だった。もう、言ってる? もう言ってることと、今は言えないこと。なんだろう。もう言ってることなら頑張って思い出せばいいけれど、今は言えないことというのはまったく分からなかった。途方にくれていると、「迷子の子供みてえな顔してる」と笑われてしまう。
「たぶん分かんねえよな。ごめん。でもお前がそうやって俺のことで色々考えてんのめちゃくちゃ嬉しいんだ」
「ええ、と……おれは割と、おまえのことを考えていない日は無いと思うよ?」
「……はあ? お前マジでそれ……お前……何言ってるか分かって、ねえよな……うん」
 おれは何か返答を間違えたらしい。奥がぐったりしてしまった。だって学校がある日は毎日会うし、休みの日もメールでやりとりをすることがあるし、ほぼ毎日思い出していることは間違いない。けれど奥の望んだ答えではなかったみたいで、ちょっと残念だ。
 やっぱり奥みたいに上手にできないな。
「あの……おれでは力不足かもしれないけど、いつか教えてくれると嬉しい」
「うん。俺もお前に教えられたら嬉しい」
「? どういうことだ?」
「だって、お前にその悩みを教えられるのは俺が勝ちを確信したときだろうから」
 え、勝ち負けの話だったのか? おれは負けるのか? いよいよ分からなくなってしまったけれど、そこまで言うならおれは負けるのを待とうと思う。
 自分が負ける日を心待ちにするだなんて初めてのことで、その相手が奥だったことが、これ以上なく嬉しかった。

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