羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 結局、奥にノートを見せたのは季節が巡って学年がひとつ上がった春のことだった。始業式の日に「心機一転ノート見せてみねえ?」と言われて、脈絡はよく分からなかったけれど「いいよ」と言ったら「いいならもっと早く言えよ!」と怒られた。なんだかそれが楽しくて笑ってしまって、奥がふくれっ面をしているのがまたかわいくて余計に笑えた。次の日、まとめてノートを持っていって手渡したのは言うまでもない。
 二年になってからも同じクラスだったおれたちは、相も変わらず一緒に昼ごはんを食べている。変わったことといえば、八代と高槻とも同じクラスになった。高槻とは出席番号が前後だったのでまさかの日直まで一緒で、卒業までの二年間に思わず遠い目をしてしまう。なんでこのクラスには高橋さんがいないんだ。別におれは高槻に対して悪感情があるわけではないけれど、あいつから嫌われているというか警戒されているというか、とにかくぎくしゃくした雰囲気を感じてしまうのだ。ちょっと怖い。
 そういえば奥は高槻とあまり仲がよくない。元々「ああいう奴が一番ムカつく」なんて言っていたからさもありなんという感じだ。おまけにどうもおれが高槻を若干怖く思っているのが奥には分かるみたいで、そのせいか余計に態度の悪さに拍車がかかっていた。
 けれど、この二人は不思議と一緒にいることも多い。たぶんおれと八代の部活が一緒で親しくしているからなのだろうけれど、四人組を作ったりするときは必ず一緒の班になった。この四人のなかでは一番付き合いの長い二人なのでそのせいもあるかもしれない。奥がたまに嫌がらせのようにして話す小学生時代の高槻のエピソードを、八代は楽しそうに聞いていた。
「っつーかお前なんでそんな昔の俺のこと覚えてんだよ気持ち悪ぃな」
「は? 俺はお前と違って記憶力がいいんだよ。というかお前が目立ってたから覚えてるだけで別に意識して覚えようとしたわけじゃねえよ勘違いすんなよ」
「別に何も勘違いする要素ねえよ! 気持ち悪いなマジで!」
「はー……お前、十年くらい前はほんと顔だけは可愛かったのにな……性格も今よかだいぶマシだったし」
 高槻はとうとうその奥の言葉を無視したけれど、八代が自然に相槌を打って話を続けたので高槻は物凄く嫌そうな顔をしていた。……嫌そうというか、ちょっと恥ずかしそうだった。
「高槻って昔からこんな感じってわけじゃなかったんだ」
「あー、つってもあんま覚えてねえけど……低学年の頃のこいつってかなり美少女面で有名だった。今もだけど元々綺麗な顔してたし」
「ひ、ひええ……」
「今より百倍くらい誰にでもにこにこしてたから教師からも可愛がられてた。あと、卒業間際のこいつランドセル死ぬほど似合ってなくて面白かった」
「ひえええ……!」
 いよいよ八代が人語を解さない生き物みたいな声しかあげなくなったので、奥にストップをかけるとそいつは何を言うでもなく黙った。高槻の様子をうかがっている。高槻は苦虫を噛み潰したような顔でゆっくり口を開いた。
「……、お前は今も昔もチビで口が悪い」
「は? 喧嘩売ってんのか?」
「いや先に売ってきたのテメェだろうが!」
 おれも今回は高槻の肩を持ちたい。だめだよ、と奥の腕をつついたら流石に言いすぎたと思ったみたいで、「悪い。ちょっと喋りすぎたな」と素直に謝ってくれたのでほっとする。高槻も謝られたことで怒りの矛先を向ける場所を失ったのか、「いや……別に。全部本当のことだし」とごにょごにょ言っていた。
 八代がその様子をとても優しい眼差しで見ていることに気付いたけれど、何も言わないでおいた。
 その代わりなのかなんなのか、奥が「……『美少女面』を本当のことって言い切れるのマジですげえわ」とまた余計なことを口走ったので、おれは慌てて奥の口を塞いだ。高槻のいる方から思いきり舌打ちが聞こえて、おれは内心どきどきしながらグループワークの続きに取り掛かる。
 この面子で班を組むと、書記係は必ずおれになるのだった。字を書くのは好きだ。先生が戻ってくるまでにきちんと書いておかないと。
 おれはなんだかんだ、この四人でいるときのバランスは割といい方だと思っている。高槻はちょっと怖いけれど悪いやつではないというのは八代を見ていればよく分かるし、奥と高槻がこんな感じなのも仲が悪いというより遠慮が無いという方が正しい表現であるように思う。それに奥は、高槻のことを「ムカつく」と言いつつその才能は十二分に認めているようだった。さっきみたいに、高槻の顔がとても整っているというのをただの事実として口にする。褒めているわけではない――のだ。夏は暑いとか冬は寒いとかそういうレベルの事実としてとらえている。そこには媚びも嫉妬もうかがえなかった。高槻がそのことに若干安心しているのも、分かる。八代は言うまでもなく高槻ととても仲がいいし、社交的なのでおれや奥とも積極的に交流を持ってくれて付き合いやすい。ほら、なかなかいい組み合わせだろう、と思う。
 あとはまあ、こいつらは三者三様に顔立ちが整っているので見ていて楽しいというのもある。こういう言い方は誤解を招きそうだけれど、きれいなものが身近にあると気分がいい。心が豊かになる気がする。許されるならいつか、この三人をモデルにしたキャラクターでも書いてみたい気持ちだ。
 妄想をたくましくしていたら手が止まっていたみたいで、大丈夫かと三人から口々に心配されてしまった。慌てて大丈夫だよと返して、嬉しくなる。こんな、当たり前みたいにこちらを気にかけてくれるのだから、やっぱりこいつらは優しいのだ。
 シャープペンシルの芯が紙と擦れるカリカリという音が耳に心地よくて、おれは三人にばれないようにこっそり笑った。



 おれがほんの少しだけ高槻と打ち解けたのは、三度目の日直を共にした日のことだった。
 高槻はとにかく手際がよくて、掃除も丁寧だ。慣れているのがうかがえる。家でそういったことを一切させてもらえないおれとは大違いで、密かにその手腕に憧れていた。
 机の位置を微調整している高槻を尻目に、おれは黒板を掃除していた。あとはきれいなチョークを並べるだけだ……と黒板に備え付けの小さな引き出しに手をかけたのだが、開かない。力が足りなかったかなと少し強めに引っ張ってみるけれどやはり開かない。おれがもたもたしているのを不審がって、高槻が「どうした?」と近付いてくる気配がする。
 おれは高槻と二人きりになることにまだ慣れていなくて、高槻が近付いてきたのに大層焦ってしまった。それがいけなかったのだろう。力をこめた手元から、バキッ! とすごい音がした。あっやばい、とおれが振り返ったのと、勢い余っておれの手を離れ宙を舞ったチョーク用の小さな引き出しが、高槻の制服に直撃してこれまた凄まじい音を立てて床に落ちたのとは、ほぼ同時だった。
 たぶん少しの間息も止まったと思う。ざああ、と血の気が引くのが自分で分かる。チョークの粉がたっぷり詰まっていたのだろう引き出しは、高槻の着ていた真っ白なシャツをピンクやら黄色やら青やらで盛大に汚していた。おまけに床も酷い有様だ。もう何もフォローできない。
「す……すみませんでした……」
 我ながら絶望的に暗い声が出てしまう。怪我してないですかと思わず敬語で話しかけて、シャツの汚れにそっと触れるとチョークの粉が延びてしまった。おれもう何もしない方がよくないか? 泣きそうだ。
 高槻は衝撃から抜け出したのか、「……力任せに引っ張ったら、危ないから、駄目」と噛んで含めるような子供に言い聞かせるような声音で言う。何度も頷いて、「怪我してないよな?」と言われたからそれにも頷いて、そしたら高槻はそこで、いよいよ我慢できないとでも言いたげに噴き出した。
「ふ、っくく、お前っ、マジで何してんの」
「えっ、あ、あの、ごめんなさい……」
 めちゃくちゃに怒られるだろうと思っていたおれはこの反応にびっくりして、高槻の顔をじっと見つめてしまう。……怒ってない。全然怒っていなかった。
「っはは、どうやったらそんなんなるわけ? 馬鹿力」
 高槻はチョーク用の引き出しを拾って、黒板にすっと嵌めた。その動きはとてもスムーズで、とてもじゃないがおれがさっきまで格闘していた引き出しと同じものだとは思えない。なんだかすごく理不尽だ……。無機物ですら顔のいいやつには素直なのか? とそんなわけはないのに拗ねたい気分になる。
「うわっ、チョーク全部折れてるじゃねえか。なあ、職員室から持ってきて」
 白が四本と、黄色と赤が二本ずつ。そう言われて、おれはすぐ職員室へと向かった。職員室は一階の、保健室の隣だ。なるべく急いで、けれど丁寧にチョークを運んで教室に戻ると、高槻は既に床を汚したチョークの粉を粗方片付け終わっていた。ああ、もしかしてこのために体よく教室の外に出されたな、と気付いたけれどもう遅い。
「あの……ごめん、ありがとう。おれのせいなのに」
「だってわざとじゃねえだろ。っつーかお前、パワーで解決しようとしすぎ。意外だった」
「ううう……」
 引き出しは壊れてなかった、と言われて胸をなでおろす。どうやら、あの凄まじい音は引き出しが壊れた音ではなく、引っかかっていたチョークが無残にも砕けた音だったらしい。よかった、壊れていなくて。
 クリーニング代を出させてくださいと言ったら「別にいいのに」と高槻はなんでもない顔をしていたけれど、そこは流石におれも引けない。どうにか拝み倒してシャツを預かった。高槻は、今日はジャージで帰るようだ。
「明後日には持って来られると思う」
「ん。気にすんなよ、洗い替えあるし……」
 高槻は一瞬だけおれから視線を外して、何事か考えている様子で再びおれと目を合わせた。「なあ」適度に低く、耳に心地いい声がする。
「お前、なんでそんな怯えてんの」
「え」
「びくびくしてるだろ。俺そんなキレやすそうに見えるか? この程度で怒り狂うとか思われてんだとしたらなんか嫌なんだけど」
 確かに高槻の対応はとても優しいものだった。おれはなんだかとても申し訳なくなって、「ごめん、あの……おれ、あまりおまえに好かれていないと思っていたから」と正直に言う。
「ああ? それ八代も言ってたけどよく分かんねえんだよな……っつーかそれを言うならあのチビの方が普通にムカつくわ」
「でも、奥とは付き合いが長いんじゃないか?」
「学校が一緒だったってだけだし。もう十年近く学校で顔合わせてる俺より、高校からの付き合いのお前のがあいつと仲いいだろうが」
 高槻は本気で不思議がっているみたいで、おれまで不思議だ。でも確かに今のこいつはあんまり怖くない。ふふふ、と思わず笑みがこぼれる。
「なーに笑ってんだ」
「いや、ふふ、おまえが優しいのが、なんだか嬉しくて」
「はあ? 言ってろばか、俺はいつでも優しいっつの」
 ふいっとそっぽを向いてしまった高槻に、途中まで一緒に帰ろう、と誘ってみる。実は電車の路線が一緒なのだ。断られるかな、と少しどきどきしたけれどそれは杞憂だったようで、高槻の表情がやわらかく綻んだ。どうやらオーケーしてもらえたらしい。
 八代、少しだけ仲良くなれたよ。
 部活仲間に内心そう報告をして、おれはその日高槻と一緒に帰ったのだった。共通の話題が無いかと思いきや、案外そうでもなかった、ということも付け加えておく。
 後日、綺麗にしたシャツとお詫びのつもりのお菓子を渡したら、高槻はそのお菓子が気に入ったみたいで逆にお礼を言われたのだけれど――その日以来、二人でいるときは割と普通に喋ることができるようになって嬉しいというのは、まだ誰にも言っていない。

prev / back / next


- ナノ -