羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 次の日から、その奥智久というクラスメイトはおれに話しかけてくるようになった。「ノート持ってきてくれた?」と言われて怯えつつ首を横に振ると、あからさまにしゅんとされてしまったので若干の罪悪感が湧く。「べつに、お前がほんとに嫌なら無理強いはしない……」と言われたのも余計に申し訳なさを煽られた。こいつ、顔がかわいいんだよ……ちょっとずるいんじゃないか……?
 くりくりした瞳でそんなあからさまにしょんぼりされると、子供に意地悪している気分になってしまう。だから、「昼飯一緒に食おう」と言われて思わず頷いてしまったのはほだされたわけでもこいつの策略に嵌まったわけでもない……と思いたい。
「なあ、お前も本読むほうだろ? どんなのが好き?」
 昼ごはんを食べながら、奥との共通の話題はやはり本に関することだった。おにぎりを頬張るそいつは興味深そうにおれの返事を待っていた。作者名をいくつか挙げると、その中の一人のとある作品の冒頭が、奥の口から諳んじられる。おれはそのことに驚いてしまって思わずまじまじとそいつの顔を見た。
「この話は最初と最後が好きだな」
「覚えているのか」
「好きなものは自然と覚えねえ?」
 お前のノートに書いてあった一節もこの場で言える、なんてとんでもない発言が聞こえてきて、真偽のほどは分からなかったけれど絶対にやめてくれと返す。うう、目が本気だった。改めて、どれだけじっくり見られてしまったのかと恥ずかしくなる。
「お前とは友達になれる気がする」
「……理由を聞いてもいいか」
「本の趣味が合うから」
 間髪いれずに言い切って、そいつは笑った。その笑顔はやっぱりかわいらしかったので、おれはそんなことを思う自分にとてもがっかりしてしまう。なんというか、自覚はあるんだけれど押しに弱いんだよ……。
「おれは……もう、おまえのことを友達だと思っているけれど」
 気恥ずかしさを覚えつつそんな風に言ってみる。まあ、こいつの言ったことには概ね同意できるのだ。本の趣味が合うのはいいことだ。おれは既に、おれの一番好きな本の冒頭を諳んじてみせたこいつのことを否定的な目で見られなくなっていた。それに、おれにとっては不可抗力だったとは言えおれの書いたものを読んで、あんなに瞳をきらきらさせてくれたこいつのことを嫌いになんてなれないだろう。感想は、やっぱり嬉しい。一人で書いて、誰に見せる予定も無いものだったけれど、それでも嬉しかった。
 奥はおれの言葉に驚いたようで、まあるい瞳を更に見開いておれを見た。かと思えばふっと口元を緩める。その表情はさっきまでのかわいらしいものとは違ってやけに大人っぽく見えて、一瞬どきりとする。こういう顔もできるんだなと思っていると、奥が口を開いた。
「お前ちょろいなー。お人よしって言われねえ? まあもう逃がさねえけど」
 やっぱりこいつ、嫌いかもしれない……。


 奥は小学校からの内部進学者だった。文芸部で、図書委員。いつも鞄に本が一冊入っていて、週の前半と後半でタイトルが違う。年間百冊は読むというのは本当だったらしい。一般文芸も純文学も漫画も節操無く読むけれど、自己啓発本や経済書など、「物語ではない」ものはあまり食指が動かないらしかった。エッセイの類は奥いわくセーフらしい。「人生は物語だから」とそれっぽい台詞を言っていたけれど、要するに自分が読んで面白いかそうでないかが基準ということなのだろう。
 いつの間にか昼食や教室移動など、奥と一緒に行動することが増えた。奥は外見に似合わず口が悪くてついでに足癖も悪い。同じく内部進学者なのであろうクラスメイトに、「奥はあれだよな、高槻とは別の意味で見た目が詐欺」と言われていた。高槻って、本人がいないところでもよく名前を聞くな。それだけ目立っているということだろうけど。
 奥は運動にはまったく縁が無いと言っていたけれど、どうしてだかおれが部活をやっているところを見に来たことがあった。物珍しそうに眺めて、それっきりかと思ったらどうやら図書室の窓からグラウンドを眺めるようになったらしい。奥は、図書委員の仕事のあるなしに関係なく図書室にいた。
「お前は誰よりも速いな」
「いや……べつに、そこまで」
「事実なんだから謙遜すんなよ。少なくともこの学校では誰よりも速い。見てりゃ分かる」
 学校から駅までの道を並んで歩きながらとりとめのないことを喋る。奥とはよく帰り道で一緒になった。大体週の半分くらい。文芸部はまさに年四回しか活動しないタイプの部活だったようで、それなのに運動部所属であるおれとそんなに変わらない帰宅時間だというのが不思議で理由を尋ねた。すると、「早く帰っても家に誰もいねえんだよ」となんでもない顔で返ってくる。
 聞いてしまったのが少し申し訳なくなって黙ると、「おい、勝手に可哀想がるなよ」と釘を刺された。
「お前の家もさ、なんかすげえ金持ちらしいけど、何の事情も知らない奴からごちゃごちゃ羨ましがられたらウザいだろ」
「それは……まあ、そうだな」
「俺も一緒だから。別に帰って出迎えてくれる人がいなくても、それは悪いことじゃない。俺はそのことを嫌だと思ったことは無い」
 奥の家は母子家庭で、母親が大黒柱なのだそうだ。母と祖母と奥の三人暮らし。奥が学校から真っ直ぐ帰ったら誰もいない日というのは、お祖母さんが老人会に出ている日のことらしい。だから、むしろお祖母さんがご友人と楽しく過ごしているということで奥にとっては喜ぶべきことなのだとか。「一回、ばあちゃんが帰ってきたときもう俺が家にいたことがあって。遅くなってごめんって謝られたから」と奥は眉を下げた。自分のために楽しいことを我慢させてしまうのが嫌で、家でも学校でも本を読むことに変わりはないから遅くまで敢えて残っているとのことだった。
 どうしておれにそこまで教えてくれたのかと聞いたら、「俺が、お前になら言ってもいいと思ったから」なんて全然答えになっていない答えをもらった。俺は恵まれてる、とそいつは断言した。奥智久という人間におれは改めて好感を持った。奥は考え方がきっぱりしていて、強いやつだった。
 なんとなく、奥にそんな話を聞いてからというもの、おれも自分のことについて少しずつ話すようになった。おれだけ何も喋らないのもな……と思ったというのも理由のひとつではあるけれど、一番の理由はやはりノートを見られたからだろう。もうあれを見られてしまっているならそれ以外のことは割とどうでもいい。何を知られようがあのノートほどではないのだ。既に一番の秘密を知られてしまっているのだから今更である。正直、裸を見られたくらいの衝撃に匹敵すると思っている。思っているだけで、言わないけれど。
「なあ、ノートの続き書いてる?」
「……それを聞いてどうしたいんだ? おまえ」
「べっつにー」
 書いているよと正直に答えたらそいつはとても嬉しそうな顔をした。あれ以来ノートは一度も見せていないのに、それでも続きが書かれていることを知ったそいつは笑顔だった。不思議なやつだ。
 最近ではもう、全部見せてしまってもいいかもしれないなあ、という気持ちになってしまっている。これだから押しに弱いというのだ。一冊の半分程度でこんなに恥ずかしいのだからそれが五冊や六冊に増えた程度ではもはや何も変わらない気がしてくる。それに、残りのノートを見せたらこいつはまた、あのきらきらした瞳でおれの書くものを読んでくれるのかもしれないと思うとそれはとても魅力的なことだった。
 たぶん、あと一回「見せて」と言われたら見せてしまうのだろう。
 こいつはそれにいつ気付くだろうか。自分から言う勇気は無いくせに、初めて会ったときのように強引にでも見ようとしてくれれば、なんて思っているおれはずるい。
 おれのノートは、再びおれ以外のひとの手によって開かれるその日を心待ちにしていた。

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