羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「嫌だ」
 即答だった。
「なんでだよー!」
「な、なんなんだおまえは……勝手に他人のノートを見た挙句おれを晒し者にしたいのか……」
「ばっ……違う! お前なあ、お前、これ、……あああもう! お前は凄い! だから文芸部に入らないか!?」
「いや、あの、近いし意味が分からない……」
 そいつの名前は、奥、といった。奥さん、と呼ぶと殴られた。酷いやつだ。おそらく気にしているだろうと分かっていて呼んだおれも相当性格が悪いが。
「俺は奥。奥智久――文芸部の平部員。っつーか、同じクラスなのに名前知らねえとかお前相当失礼な奴だよな」
「……。おれの名前は、」
「津軽遼夜だろ。知ってる。お前、有名人だもんな。周りにいる奴らも派手だし」
「初耳だ……目立っている自覚は無いんだが」
「陸部のエース。これだけで十分目立つだろ……いや、それにしても」
 陸上部のエース様にこんな一面があったとは知らなかった、とそいつは続けた。信じられないことにこいつはさっきから、隙あらばおれのノートを奪おうとしてくる。最初に見せていた殊勝さはどこへやらだ。ついでに言うと腕をがっしり掴まれている。「お前は足が速いから、逃げられないようにこうしとく」なんて事もなげに言うそいつは、重ねて「なあ、文芸部に入ってくれよ」と言った。
「……からかっているのか」
「は? 何がだよ」
「あのなあ……おれのこれは、まあ、趣味というか……遊びみたいなものなんだ。別に、人に見せることを想定しているわけじゃない。見せられるほど上等なものでもない。くだらないものだよ。だから」
 そこまで言って、続きを言う前に思い切り足を踏まれた。室内履きも履く暇なく走ってきたから靴下のままなのに、踏まれた。ものすごく痛い。こいつ陸上部エースの足をなんだと思っているんだ。というか、かわいらしい顔をしているくせに暴力的すぎる。
「っな、にをするんだ、おまえは……」
「こっちの台詞だボケ! 自分が書いたものだろ、なんで自分で悪く言うんだ! ふざけんな!」
 くだらなくなんかない! そう叫んで、苛立たしげにこちらを見てくる。
「――知らなかった」
「……?」
「お前が、こんな綺麗な言葉を使うなんて知らなかった! なんだよ、なんで隠すんだ? そういえばお前、国語の成績めちゃくちゃよかったんだよな……もっと早く知りたかったよ、こんな」
 一瞬息を詰めて、そいつは溜息みたいな声を空気に溶かす。
「こんな――きれいな。お前には、世界がこんな風に見えてたんだな……」
 もっと見たい、とそいつは言った。部活の掛け持ちができないというのは薄々分かっていたらしい。運動部で、ハードだ。自分で言うのもなんだがおれの短距離走のタイムは全国レベルなので、他の部活で活動している暇はない。けれど、部誌に参加してくれるだけでもいいのだといつまでも食い下がった。そして、今までに書いたものも全て見たいと言った。
「い、嫌がらせか……」
「誓って違う。嫌がらせでここまでするほど俺も暇じゃない。純粋に、お前の書く話のファンになったんだ」
「……本当に、物好きだよ、おまえ。ここまでするか? 普通」
「俺はな、才能を使い潰してるやつが大嫌いなんだよ」
「……?」
「お前の友達――八代のさ、あいつの友達に、高槻っているじゃん」
 突然の話題転換に戸惑ったがそいつの中では全部繋がっているようで、僅かに複雑そうな面持ちで奥は小さく言った。
「俺はな、ああいう奴が一番むかつく」
 嫌い、ではないのだなと妙に冷静になる。おれが黙って聞いていると、そいつはおれを見て僅かに苦笑する。「あんなに沢山きらきらしたものを持ってるくせに」それは、怒っているというよりは残念がっていると表現した方が近い表情だった。
「あいつは何も大事にしてない。『あれ』で、どれだけ救われる奴がいるか分からないのに。本気になればきっとすごいことができるのに」
 だからお前は『それ』を大事にしてくれよ。頼むから。
 そう言って、おれの腕を掴む手に僅かに力を込めた。こいつはきっと、八代に少しだけ似ているのだ。才能とか能力とか、きらきらしたものを大切にしている。人のものであっても。人のものだからこそ、大切にしている。
「俺さあ、文芸部だけど自分で書いたりはあまり得意じゃないんだ。凡才なんだよ。本が好きなだけだ。年に――どのくらいかな、百冊以上は読んでると思う。なんでも読むけど、そのノートは最近読んだなかで一番刺さったよ」
 お前の言葉には力がある、と、幼さの残る顔で、至極真面目な表情で口にした。
「なあ、お前そんだけ沢山書くなら賞とか応募してみりゃいいのに」
「さすがにそれは話が飛躍しすぎだろう」
「飛躍じゃない。これは、もっと人目に触れるべきだ。お前が一人でこっそり愛でるべきものじゃない。お前が独り占めしていいものじゃないんだよ」
「おれが書いたものなのにおれの自由にできないのかよ……」
「お前は自由に書けばいい。俺も自由に読みたいだけだ」
 なんでそこまで、と問えば、ファンになったからな、と繰り返す。恥ずかしい。何がファンだよ、何が。
「お前、将来は陸上選手になるのか?」
「はあ? なんだよいきなり」
「いや、お前足も速いし。陸上競技と添い遂げるつもりなのかと思って」
 問われて、少しだけ返答に悩んだ。走ることは、運動は、勿論好きだ。体を動かすことは好きだ。好きだから部活のきつい練習にも耐えられたし結果も出してきた。
 今まで、それなりに怪我をしたり故障したり、万全な状態で走れなくなった時は何回かあった。これから先大きな怪我をしない保証はないし、歳をとれば衰える。きっと、気持ちに体がついていかなくなるときがくる。けれど、おれはきっとそれでも落ち込むことはないだろうと思う。年月というものは誰にでも平等だし、若い頃の体力がいつまでも続くなんて思ってはいない。
 けれど、言葉は。
 きっとなくなったら耐えられないだろう。おれにとって言葉というものは当たり前にいつでもそこにあった。言葉を紡げなくなるなんて考えたこともない。大怪我をしたって大病をしたって、歳をとって死ぬ間際だろうと、きっとおれは言葉から離れることはできないだろう。
「お前はきっと、小説家になるよ」
「……随分簡単に言ってくれるな、おまえ」
「簡単じゃない。でも、お前はきっとそうなるよ。だって、死ぬ瞬間まで綺麗なものを見ていたいだろ? なら、運命みたいなもんだ」
 俺は編集者になるのが夢なんだ。お前の編集になれたら、どんなに嬉しいか分からない。そいつは最後にそう言って腕を放した。
「絶対、残りのノートも見せてもらうからな」
「勘弁してくれ……」
「いつかお前の言葉は、何千人何万人のもとに届くんだから。先行予約だよ、十年後くらいの作品のな」
 そいつは笑った。
 うつくしいな、と思った。
 また明日、と言ってそいつは教室を出て行った。今まで散々おれのことを引き止めていたくせに出て行くのは自分が先だなんてどれだけ勝手なんだよと思ったが、色々と畳み掛けるように起こったせいか体中ぐったりと疲労がたまっている。早く家に帰って風呂にでも入りたい。というか、恥ずかしすぎるので気持ちを整理したい。あいつ、言いふらしたりしないだろうな、本当に。
 ノートは奥が出て行ってすぐ鞄の中に隠した。せめてもの抵抗。階段を下りて、昇降口に散らかった革靴に我ながら事件性を感じつつ学校を後にする。ふと上を見上げると、燃えるような夕焼け空だった。あと十分もすれば日が沈むだろう。烏が何羽か、連なって飛んでいくのが見える。
 きっとおれは、帰ったらこの情景をまたノートに書き付けるのだ。おれが表現できるものには限りがあって、腕は二本しかなくて、一日は二十四時間だ。一生でどれだけのものを見られるだろうか。どれだけのものに触れられるだろうか。
 たった数十分前に名前を知ったクラスメイトの言葉に感化されていることがなんだか悔しくて、僅かに歩調を速める。夕焼けで赤く染められた道を、心もち強めに踏みしめる。
 世界は今日も、泣きたくなるくらいうつくしかった。

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