不安を抱きながら入学した高校には、案外早く馴染むことができた。この学校、みんな余裕があるというかなんというか……空気が穏やかだ。不良もいない。校則が厳しくないから髪を染めているやつも多いけれど、だからといってそういうやつの素行が悪いわけではなかった。
たぶん、根本的に「頭のいいやつ」しかいない学校なんだろうなと思う。暴力沙汰が無いぶんちょっとした盗難があったりするのが難点だけれど……生徒の殆どが小学校からの顔見知りというのもあってか、この学校は男女関係なくとても仲がよかった。
部活の方もなかなか好調だった。顧問の先生が随分と融通を利かせてくれたみたいで、あの陵栄東高等学校と合同練習を行ったりしている。あまりの特別待遇に胃が痛くなることもあったけれど、部長は「みんなタイムあがってるね、いい感じ」といたく喜んだ様子だった。
妬み嫉みのようなものは、正直、感じることもある。陵栄東には血の気の多いやつもそれなりにいるみたいで、そっちでも色々。まあ、おれはただ走るだけだ。結果を出せばいいだけ。おまえらそこで、おれが走るのを黙って見ていろ……なんてことは、言わないけれど。別に思っているわけでもないのだし。ただ、少年漫画の主人公ならこういう台詞も似合うのだろうかと考えただけだ。
駅に着いたので一息つく。少しずつ日が短くなっていた。今日はほんの少しだけ早く練習が終わったのでまだ太陽は沈んでいない。暑い中の練習はそれなりにきついのでもっと涼しくなってほしい。そんなことを思いつつホームに降りて、電車が来るまで少し時間があったから鞄のファスナーをあけた……の、だが。
ない。
鞄の中を探って真っ青になった。ノートが無い。学校の机の引き出しに置きっぱなしにしてしまったのだということに気付いて、おれは逡巡の間もなく走り出した。ああもう、定期券があって、よかった。
――あれは、言うなれば黒歴史だ。
駅から学校までの道のりを全力疾走しながら考える。どのくらいで到着するだろうか。制服が重いけれど、馬鹿みたいに必死に走っているから五分はかかるまい。陸上部でよかった、と思った。景色がどんどん後ろに流れていって、少しばかり視線を集めてしまっているのも分かる。おれは足が、速いのだ。ちょっとした自慢になるくらいには。
ノートを忘れるなんてとんだ失態だった。あれの中身は、たとえ仲のいいやつにだって見られたくない。いや、仲がいいからこそ見られたくない。
中身は、つまらない小説のようなものだった。小説とも言えない。思いついた言葉の連なりをただ書き付けたもの。手すさびである。人様に見せられるようなものではないし、あんな恥ずかしい文章を晒せるわけがない。
昔から、もしもの話が好きだった。
本を読むのが好きで、それ以上に自分で何かを書くことが好きだった。日本語が好きだったし言葉が好きだった。おれは生来のものなのかそれとも環境に起因するものなのかどうも口下手で、思ったことを率直に素早く伝えることが苦手だった。だから、何度も書き直せるし時間をかけて見直せる文章というものが好きだったのかもしれない。いつだって、おれが書くものはおれ自身の憧れと夢と少しの逃避が詰まっていた。
けれどその全部、口に出すには恥ずかしすぎた。思春期なのだ。分かってほしい。
靴を並べる暇も惜しくて、行儀が悪いが昇降口に革靴を放り投げ階段を駆け上がる。息があがっている。もう少し、三階の奥から二番目の教室。
ばん、と。思いの外大きな音と共に転がり込んだ教室には、一人だけ先客がいた。
この時間だと、部活か委員会か、それとも週番かといったところだろう。いかにもなびっくりした顔でこちらを見て目を見開いている。小柄な童顔。こいつ、名前はなんといったか――と、そこまで考えて、そいつの座っているのがおれの席で、そいつが手に持っているのがおれのノートだということに気が付いた。
「っお、まえ、それ」
「つ――津軽、これ、お前のノートか?」
思わずひったくるようにノートを取り返してしまう。しばし無言で、おれの荒い呼吸音だけが教室に響いていた。気まずすぎる。見られた。絶対に見られた。じわじわと、全力疾走したせいではない熱が顔に集まってくる。
「ご――――ごめん!!」
先に口を開いたのはそいつだった。
「ごめん、俺、お前の机にぶつかっちまって……ノートが落ちたんだ。拾おうとして、それで……あの、ノートが落ちたときにページが開いてさ、中身が見えた。……勝手に見た。ごめん」
この短い間に三回も謝罪の言葉を口にして、そいつはしょんぼりと肩を落としてしまう。おいやめろ、なんだかおれがいじめているみたいに見えるだろう。泣きたいのはこっちだばか。
「いや……もう、いい。おれが出しっぱなしにしていたのが、悪い……」
ぐったりしてしまって、というか恥ずかしすぎて、その場にいるのもいたたまれなくなって教室を後にする――はずだったのだが、阻止された。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
「……なんだよ。ああ、出来ればこれは内密にしていてくれると有難い。誰にも言ってなかったんだ。恥ずかしいから、これの中身は忘れてくれ」
「無理だ!!」
えっ嘘だろ。おれはいよいよびっくりしてしまって、完全に教室から出るタイミングを失った。無理っておまえ。これ以上追い打ちをかけて楽しいか?
呼吸の乱れもいい加減収まってきたが、今度は目の前のそいつが興奮したように頬を上気させている。うわあ、目がきらきらしている。こいつ、中学生にしか見えないな、こうしていると。いや、まだ中学を卒業して半年くらいしか経っていないから当たり前かもしれないが。
「それ、お前が書いたんだよな!?」
「……そうだけれど、だったらどうした」
「全部か?」
「全部だ」
「それ、ノートは一冊目?」
「いや……家にあと、何冊か。……なんだよ、何が言いたいんだ、おまえ」
思わぬ質問攻めに後ずさりしたら、同じだけ距離を詰められた。そいつは尚もきらきらした瞳でこちらを見上げて、とんでもないことを言い放った。
「お前、文芸部に入らないか!?」