羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「今日は食いにくるの? おまえ」
 次の週の木曜日の放課後、オレは昇降口のところで一色に声を掛けられた。万が一この嗜好を言いふらされたら……と少しだけ警戒していたのだがそんなことはなく、いつもと変わらない平穏な日々を過ごしていたオレにとって青天の霹靂だ。
 今日は木曜日だな、と朝からなんとなくタバコを吸う気になれずにいたので勝手に気まずくなってしまう。こいつの言葉に影響を受けたと思われるのは癪だ。
「なんだよ……急に話し掛けてくんなっつの」
「おまえに声掛けるのって許可制なの? 面白いね」
「うるっせ。別に許可はいらねえけど……何? 今日何かあったっけ?」
「モンブラン」
 モンブランがどうした。単語で回答するのをやめろ。
 まあ、今日は店頭にモンブランが並んでいる……という意味なのだろう。それくらいは分かる。そして、オレはモンブランも好きなのだ。
「モンブランは食うけど、『食いにくるの?』はやめろ。オレはケーキ屋にケーキ食いに行ってるだけでお前の家にケーキ食いに行ってるわけじゃねえんだよ」
「ふーん。新作のケーキの取り置きとかやろうと思えばできるけど」
 くっ……職権濫用をちらつかせてくるとはなんて奴だ。……しかし、ケーキのために割り切って交流を持っておくのも悪くないのかもしれない。想像していたよりもずっと、一色は話の通じる奴だった。
「……なんでお前、変に遠巻きにされてんだろうな」
 思わずそんな言葉が口から飛び出して、失言だったな、とすぐに後悔する。そんなの本人に聞いたって仕方ないことだ。嫌がらせにしかならないだろう。こうして普通に喋っていてもどことなくひんやりした雰囲気のある奴だから、そういうところのイメージが先行してしまっているのだろうか。
 しかし、オレの後悔をよそに一色は涼しい顔だ。「さあ? この見た目のせいかもね。女の子は褒めてくれるけど」なんて自慢してきやがった。後悔して損した。……確かにまあ、顔はいいのだ。オレは女じゃないからそれで印象がよくなることはないが。
「おまえは煙草吸うくせに見た目は割とまともだよね」
「は? 喧嘩売ってんのか。髪はいちいち染め直すのダルいだろ……オレそんなマメじゃねえし」
「ピアスは?」
「……趣味じゃねえ」
「あー、耳に穴開けるの怖いんだ」
「お前人の話聞いてたか? 趣味じゃねえっつってんだろ」
 耳に穴を開けるのは確かに少しだけ、ほんの少しだけ怖いが、趣味じゃないというのも本当だ。一色は微かに笑って、「ごめん」と言った。謝ろうって奴の態度じゃねえな。
「煙草、吸いたくて吸ってるならもっと美味そうに吸えばいいのに」
「……そ、れは、余計なお世話だろ……」
「そうだね。身内びいきかもだけど、おれのとこのケーキは美味いと思うよ。だからなるべくベストなコンディションで味わってほしいんだよね。おまえが煙草が好きで吸ってるならまだいいけど、なんとなくで吸ってるのは馬鹿だなと思う」
「あー、だから舌がバカになるとかなんとか言ってたのか」
 今軽く罵られた気もしたのだが、自分でも薄々思っていたことだったのであまり怒りは湧かなかった。タバコで味覚が鈍るってよく聞くけど、マジなのかな。一色に尋ねてみると、「どうだろうね」と軽すぎる返事がくる。
「おれは別に煙草の研究者じゃないし。まあ、おれが調理関係の仕事だったら絶対吸わないけど」
「ん? 本当かどうかはどうでもいいのに絶対吸わねえのか」
 タバコは味覚を鈍らせる説を信じているということだろうか。そう思ったのだが実際のところは少しだけ違っていたようで、一色はやっぱりフラットな声音でオレの疑問に答える。
「もし調理する立場だったとして、何かが足りなかったときに煙草を言い訳にしたくないじゃん」
「何かが?」
「仮にお客さんを満足させられなかったとき、『あいつは煙草で味覚が鈍ってるから』とか思われるのはダサい。技術不足以外の要因って邪魔じゃない?」
 当たり前みたいな顔でそう言われて、オレはそいつのことをまた見直した。割とマトモっつーか、かなりマトモなことを言ってる……気がする。たぶん。オレは客の立場にしかなったことがないが、こういう考え方ができる奴はきっといい店員なのだろう。
「……今日はベストコンディションで食うわ」
「禁煙してるの? 素直じゃん。ただの馬鹿な不良じゃなかったね」
 オレの感心を一瞬でぶち壊すな。それはともかくモンブランは食うが。
 にしてもこいつ、そこそこな暴言を吐いてもあんまり気にならないから得な奴だな。声に感情が乗らないタイプっぽいからそのせいかも。
「……今日はお前店にいるのか?」
「なに? いた方がいいの?」
「違えよバカ。ちょっと気になっただけだっつの」
 足早に一色から離れる。「目的地一緒じゃん」とまた感情の読みにくい声で言われたので、うるせえなるべく離れて歩けよ――とは、流石に言わず、ただ黙殺を貫くことで意思表示をした。まだそんな、隣り合って喋りながら帰るほど仲を育んだつもりはない。
 オレがあまりにも嫌そうな顔をしていたからなのかもしれないが、道中はおろか店に到着してモンブランとコーヒーが席へと運ばれて、ケーキをすっかり胃の中に収めても、一色はオレに声を掛けてはこなかった。この店は、正面玄関の他におそらく居住スペースへと入るための小さな玄関があって、あいつはそちらを経由して店内に入ったようだ。ちょっとキツい態度だったかもしれない……と僅かに罪悪感を抱いてしまう。
 罪悪感の理由はもうひとつあって。モンブランを食べ終わった後、いつものように半分ほど残ったコーヒーにミルクを入れようかどうしようか迷っているとき、見慣れた女性店員からこっそりとクッキーをおまけしてもらったのだ。誰の差し金か分からないほど鈍くはないので、余計に邪険にはしづらい。
 シンプルな円形のクッキーを口に入れると、ほろっとした食感とたっぷりのバターの匂いがかなり好みの味だった。有難くコーヒーのお供にする。
 オレはきっと、この店に来ることをそこそこ歓迎されている……のだろう。次はもうちょっと相手してやってもいいかなと思いつつ、コーヒーを飲み干して会計のために席を立ったのだった。

『今日はシブースト』
『もう林檎の時期か……』
『今日はサヴァラン。おまえ酒は飲まないの』
『酒はあんまり。ラムレーズンのチョコとかは割と好き』
『今日は洋ナシのタルト』
『いいな。行くぞ』
 毎週のようにそんなやりとりをしつつ、そして本日。「今日はオペラ」と言われて、オレは思わず声をあげた。
「お前って帰ったらずっと店の手伝いしてるのか? 毎日?」
「ん? 割と毎日だけど」
「……オレがケーキ食ってる間は何してんだ?」
「皿洗いとか、まあ色々……おれが何してるか気になる?」
「ちっげえよ! ただ、その、……お前、オペラが好きって言ってただろ」
 そいつは、言ったけどそれがどうかしたのかみたいな顔で首を傾げてみせたが、やがて薄く笑って囁く。
「――分かった。おれと一緒にケーキ食べたいの?」
「べ、別にそんなんじゃねえし……隣にいてもまあ邪魔ではねえな、くらいになっただけだからな。勘違いすんなよ」
 こいつの存在をうっすら感じつつケーキを食うのもなんだかなという感じがするし、それならまだ見える範囲にいてくれた方がいい。そういえば一色は、普段店員としてはホールに出られないというようなことを言っていたんだったか。客として席に座るならきっと大丈夫だろう。どうやらこいつ、外見を変えるつもりはないようだし。
「このままじゃ死角から見張られてるみたいな気がして落ち着かねえんだよ」
「自意識過剰」
「ほっとけ」
 そんなことを言っている間に今日も無事目的地へと到着する。てっきり一緒に店に入るかと思いきや、一色はまた別の入り口の方へと姿を消した。……なんだよ、結局向こう行くのかよ。
 まあ、あいつにも家庭内での役割とかあるだろうしな。完全放任主義のオレの家とは違うのだろう。っつーか、まともな親なら子供がタバコ吸ってたら一応注意すると思う。うちはそれすらない。育ちが知れるという感じだ。
 ショーケースの中には、つやつやと輝くオペラがあった。金箔が貼ってあって、いかにも豪華なケーキに見える。
 ……それにしても、あいつは毎週その日のおすすめを教えてくれているのだろうが、毎回あいつの言う通りに注文するのも言いなりになっているような気がしてなんだか面白くない。たまには反逆してやるのも悪くないんじゃないだろうか。さっさとどこかに行かれてしまった恨み半分にそう思う。
 気持ちを新たにショーケースを隅から隅まで眺めた……はずだったのだが、悔しいことにもう完全にオペラを食べる気分になってしまっている。ここで無理に他のケーキを選んでも絶対に後悔すると分かってしまう。それでも諦め悪く唸っていると、突如背後から耳元を声が掠めた。
「なに突っ立ってんの? オペラふたつ、どっちもコーヒーとセットで」
「あ、おい!」
「食わないの」
「……食うけど」
 勝手に二人分の注文を済ませてしまったそいつは、さっきまで制服だったのに今は私服を着ていた。なんだ、オレのこと無視したとかではなく着替えたかっただけなのか。先に言え。言ってから行動しろ。
 一言文句をつけてやると、「おれ制服って堅苦しくて嫌なんだよね、首の辺りとか」という返事が飛んできた。「自分の家なのに制服って謎じゃない?」とも。いや、お前この間はワイシャツにエプロンだっただろうが。
 なんだか脱力してしまって、促されるままにいつもの窓際の席へと座る。やがて運ばれてきたオペラは、不思議なことに特に美味しく感じた。
「どう」
「美味い。やっぱ店にも相性あるよな。オレここのケーキ特に好きだわ」
「……なんか急に素直だね」
「んだよ、別に含みはねえよ。今はコンビニだって十分美味いけど、専門店のは特別っつーか……何食っても美味く感じる店って貴重なんだよ」
 ここの店長のおっさんと味覚が合うのかもしれない。店長のおっさんというか、つまりこいつの父親ということになるのだろうか。……一色は母親似だな、見た目からして。
「人の顔面見ながらケーキ食って楽しい? おまえ」
「ん!? いや、悪い……一色はたぶん母親似なんだなと思って」
 一色は、ここで珍しくほんの少しだけ驚いたような表情になった。母親似だろうなんて変なことに突然言及してしまったから引かれたか……? と思ったけれどそうではなかったらしく、「初めて名前呼ばれた。おまえ、おれの名前知ってたんだね」と静かな声で言われる。
「去年同じクラスだったんだから知ってるに決まってんだろ」
「でも下の名前は覚えてなかったんじゃない?」
 うっ。図星だ。……でもそれを言うならオレだって、こいつに名前を呼ばれたことなど一度もない。オレだけが薄情者のような扱いをされるのは釈然としないので、反撃を試みる。
「お前もオレの名前知らねえだろ」
「え、知ってるけど。水嶋でしょ。水嶋俊希」
「……なんで知ってんだよ!」
「理不尽すぎて笑える。元々記憶に残ってたっていうのもあるし……実家が商売やってたら常連さんのこと覚えるのくらい当たり前だと思うけど? 親に、『最近あんたと同じ制服の子がよく来てくれるようになった』って教えてもらったんだよね」
 なるほど。一旦家に帰ってから出掛けるのが面倒で制服のまま店へと直行していたのが仇になるとは……。っつーか、真顔で「笑える」って言うな。混乱するから。
 それにしても、最初に気付いたのは一色じゃなかったのか。別に同じ学校というよしみがなくとも好意的に見てもらえているらしいことに、むず痒いような気持ちが湧く。この嗜好はもう随分と長い間周りに隠してきたから余計に。
 人の目は気になるし、自分がマーケティング対象外だと思われてしまうかもしれないのも気になる。
 もし、オレが好きだなと思うものを作っている人に、「これはお前向けじゃない」なんて言われたらと思うと肌がひりつくような感覚になってしまうのだ。だからきちんと客として受け入れてもらえたことが嬉しいし、安心する。
 ずっと言いたかった。「ここのケーキが特に好き」だと。まあ、言う相手がいなかったのだが。
 好きなものを好きと言って、それを好きであることを当たり前に受け入れてほしかったんだろうと思う。好きだから好き、と、細かい理屈抜きで。ただ、それを好きでいたかった。
 一色には特に気負うことなく言えた。それはきっと、店の関係者ならとりあえず、表面上だけでも喜んではくれるだろう……という打算があったからだ。作っている人に直接伝えるのはあまりにもハードルが高いし、ガチっぽくて恥ずかしい。一色くらいの距離感がちょうどよかった。
 好意を表現したときにマイナスの感情を向けられたら傷付く。そんな、当たり前の話だった。
「……ずっと好きだったんだ」
 思わずこぼれた言葉は、「おれも好き。一緒だね」と、飾り気のない一言に掬い上げられる。その声音がちょっとびっくりするくらい優しかったのと、向けられた笑顔がこれまで見たことのないような柔らかいものだったのとで、オレは反射的に上半身をのけぞらせた。
「な……んだよ、急に笑うんじゃねえよ」
「そんなことに文句つけられたの初めてなんだけど。愛想悪くされたいの?」
「そういうわけじゃねえけど愛想がいいのもそれはそれで……なんか変だろ、なんか」
 心臓に悪いんだよ。いつもの無表情か胡散臭くて本気なんだか冗談なんだか分かんねえ笑顔でいろ。
 我ながら謎すぎる要求だとは分かっているのだが、落ち着かない気持ちにさせられるのは事実だ。だってこれじゃまるで仲がいいみたいに見える。
 誤魔化すようにコーヒーのカップに口をつける。ちらっと見た一色は、既にさっきまでの表情を真顔に塗り替えていて、そのことに酷く安心してしまった。
 オレは改めて、さっきまでの会話をゆっくりと思い返す。
『おれも好き。一緒だね』
 ひょっとするとそれはオレの人生の中でもかなり上位に入る、貰って嬉しかった言葉――だったかもしれない。

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