羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 思えば不自然なところはあった。最近のさくらちゃんは、あまりにも「元気すぎた」。家の中で歩き回るのもやっとな子だったのに、積極的に外に出たがっていたらしい。
 ……それは、蝋燭の火が消える直前にいっそう大きく燃え上がるさまに似ていた。
 さくらちゃんが体調を崩して入院したと知らされたのは、四月の下旬のことだ。ちょうど近所の桜の花が散るのと時期を同じくして、急に悪化したらしい。救急車を呼んだと言葉少なに語る高槻の顔色は青かった。たぶんほとんど眠れていないのだろう。神様に丁寧にととのえてもらったのではとすら思える端整な顔立ちは、その疲れすらスパイスにしてオレの瞳には綺麗に映った。
 それから、また高槻は学校に来られなくなった。纏う雰囲気は日を追うごとに厳しさを増して、近寄りがたい空気のままそれをよしとしていた。ただ一人、オレの部活の友達の津軽だけは何も聞かずに接してくれたけど。
 予想外だったのが、津軽に対する高槻の態度がいやにつんけんしていたことだ。確かに高槻は男に対して愛想を振りまくタイプではないけれど、それでもむやみやたらと攻撃的になるような奴でもないのに。津軽は気性が穏やかで優しいので、高槻のことは普通に怖がっていた。でも、そのことに怒ったりだとか、ましてやオレに愚痴ったりなんてことは一切なかった。淡雪みたいに微笑んでいるのが津軽の常だった。オレはそれを有難く思うのと同時に、高槻への不安のようなものも覚えていた。
 もしかしてあいつは自分でも抱えきれないくらい、気付かないうちにストレスが溜まっていたのかもしれない。ぽつりと「なんで高校入っちまった後に……」とこぼしていたけれど、きっとそれこそがさくらちゃんの目的だったのだと思う。
 実は、高槻がいないときにこっそりさくらちゃんのお見舞いに行ったことが何度かある。普段は高槻に付き添っていたので看護師さんもオレのことを覚えていてくれて、病室に入ることができた。
 さくらちゃんは青を通り越して白い顔をしていた。そして、「ずるいことしちゃったのは分かってるけど……やっぱりちゃんと高校に行ってほしかったんです。わたしはきっともう、学校には通えないから」とオレに笑った。
 高槻が高校に入学するまで、さくらちゃんはぎりぎり耐え切った。その幼さを責める気にはどうしてもなれなかった。
 あの子の身体がもうほとんど限界であることは誰の目にも明らかだった。このときになって初めて、さくらちゃんの体調不良の根本的な原因は、生来の心臓の弱さに起因するものだということを知った。随分前から、もう移植しか道は残されていなかった、らしい。
 オレはぼんやりと、昔何かのテレビでちらりと観たドキュメンタリーを思い出していた。そのテレビに出ていた子供も確か心臓が弱くて、手術には一億円必要なのだと司会者が神妙な顔で台本を読み上げていた。その子は最終的に、テレビを観た人による寄付金でアメリカに飛び、手術を成功させて帰ってきた……のだったと思う。元々そういう趣旨の番組だった。オレは、子供が助かったことについてはともかくその番組に対しては割と懐疑的な見方をしてしまうタイプだったんだけど、テレビ出演したことで助かったあの名前も知らない子供の裏で、同じ病気で亡くなった人が両手の指では数え切れないほどいたのだろうな……と当時のもやもやについてようやく説明がついた気がした。
 今日もどこかで誰かが、何も言えずに苦しんでいるのかもしれない。
 オレは、お見舞いに行ってもなるべく未来のことについて話さないようになった。来年になったら、とか、夏になったら、とか、今のさくらちゃんに言うにはちょっと酷だと思ったから。……いや、本当はオレが耐えられなかっただけだ。さくらちゃんはいつでも気丈だった。その瞳には光が宿っていた。
 その一方で高槻の憔悴具合はちょっと目もあてられないくらいになっていた。学校にいても顔色の悪さを教師に指摘されることが増えた。どうやらこいつ、メンタルの問題が体調に直結するタイプだったらしい。
 もう、さくらちゃんのお世話のために休んでいるのか高槻自身の具合が悪くて休んでいるのか分からないくらいになった頃――高槻は、髪を染めた。
 贅沢に淹れたミルクティーのような淡い色合いを見たとき、オレは思わず「えええ!?」と叫んでしまった。極め付けには、両の耳にピアスまで。しかもひとつふたつじゃない。右にひとつ、左にみっつ。高校に進学したことでそれらは既に校則違反ではなくなっていたけれど、オレの衝撃といったら言葉では表せないほどだった。
「ど……どうしたの、それ」
「髪? ピアス?」
「どっちもだよ!」
 高槻はふっと皮肉げに笑って、「……この色の方が顔色が目立たない。家の周りじゃこの見た目の方が他から浮かない。あとは……」と何か言いかけた。結局口をつぐんでしまって、「……いや、なんでもねえ」と低く呟いたけれど、案外その言いかけてやめた「何か」が一番の理由なのではないかと感じた。
「似合ってねえかな」
 うかがうようにオレを見た高槻に思わず「は!? めちゃくちゃ似合ってるけど!?」と半分キレてるみたいなよく分からない返答をしてしまう。そう、実際それは高槻にあつらえたようによく似合っていた。寧ろ今までなんで染めていなかったのか、と思ってしまうくらいだった。もう何年も前からその色だったみたいな錯覚に陥るくらいにその髪色は高槻に馴染んでいて、赤とシルバーのピアスも最高だった。
 高槻はほっとしたような笑顔で、「……お前ならそう言ってくれると思った」なんてかわいいことを言った。それは久しぶりに見た、気の抜けた笑顔だった。


 オレがさくらちゃんと最後に喋ったのは、からりと晴れた空に入道雲がまぶしい、よく晴れた日のことだ。
「はるかちゃん、いつもありがとう。ここまで来るの大変でしょう。病室に来ても何も無いし……」
「そんなことないよ。寧ろさくらちゃんのお家に行くより近いかも。さくらちゃんだって、病院で退屈じゃない?」
「最近は、ここの窓から外の景色とか見ていると案外楽しいの。色々な人が歩いてて……たまにお父さんとかお兄ちゃんとかが歩いてくるのを見つけると、今日はいい日だなって思うんです」
 さくらちゃんはそこまで言って、「もうすぐお父さんの誕生日なの。お祝いしたいなぁ」と笑った。さくらちゃんは、「これから」のことも「いつか」のこともどんどん口に出す。怖がっているオレが情けなくなるくらいに。
 その日ものんびり話をして、けれど帰り際だけいつもと違った。「はるかちゃん」かけられた声の妙に真剣な響きにたじろいだ。けれど、ここで逃げてはならないと思った。黙って続きを待つ。「あのね。わたし生まれたときから身体が弱くて……他の人よりできないことがたくさんあって、やったことがないこともたくさんあって、差は埋まらないと思うけど……」さくらちゃんは最後まで笑っていた。
「でも、わたしはわたしのこと、とってもしあわせだって思います」
 他の誰がどう思うかなんて関係なくて、わたしはそう思うから、とさくらちゃんは言った。
 今までで一番、高槻に聞かせたいと思う言葉だった。
「……お兄ちゃんとこれからも仲良しでいてください」
 初めて会ったときにも言われたこと。オレは同じように頷いて即答する。「もちろん。ずっと仲良しだよ」それはまるで誓いの言葉のようで、胃の辺りがくすぐったくなる。
 さくらちゃんは「ありがとう」と言って深々と頭を下げた。「わたし、お兄ちゃんがはるかちゃんを好きなのと同じくらい、はるかちゃんのことが好きでした」
 それがオレの、さくらちゃんに関する最後の記憶だ。さくらちゃんが心臓の発作を起こして亡くなったのは、その日からちょうど一週間後のことだったらしい。
 最期は家族三人、一緒にいられたようだった。
 お父さんの誕生日には、間に合わなかったのだそうだ。

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