羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 入学した高校に対する第一印象は、「やたら古いなあ」だった。中学校が併設されていて、話によると随分歴史が古いんだとか。おれにとっては受験勉強がひたすらつらかったという記憶ばかり強烈で、あまり事前にどういうところか調べていなかったので物珍しい気持ちだった。
 これで美影さんと万里はまともに学校を選べるんだろうか。婿養子である父が親戚連中に負けないことを祈るばかりだ。ほんとうは部活の盛んな学校がよかったのだけれど、かわいい年下のいとこたちが居心地の悪さを感じつつおくる学校生活と引き換えにするほど、心を無にはできなかった。
 おれの家は無駄に規模ばかり大きくて親戚の目がうるさくて、周りの目は無遠慮だった。自分の家の総資産がどれくらいかなんて把握したくもないけれど、まあ分かりやすく言えば一生遊んで暮らせるくらい……だろうか。というより、あの家は土地持ちでそれを様々な法人や個人に貸すことで不労所得を得ているので生きているだけでお金が入ってくるのだ。おれの父は、どこぞの会社の重役である。金持ちはその金を使って更に金持ちになるという、分かりやすい見本のような家だ。
 なんだか憂鬱になって思わずため息がこぼれる。いや、それにしても、うっすらと聞いてはいたけれどここまで部活動がゆるいとは。かなり偏差値の高い学校だからかと思ったけれどそういうわけではないようで、ただ単にこれが学校の「色」なのだ。運動部が盛んでないなら文化部が強いのか……とも考えたが、年に四回しか活動していない部活すらあると聞いてカルチャーショックだった。
 ここでまともに走れるんだろうか。
 不安を抱えつつ、おれは陸上部の活動するグラウンドへと足を向ける。今日は部活の仮入部期間の最終日。ぎりぎりまで悩んでいっそ走ること自体やめてしまおうかと思ったこともあったけど、やはり高校生活を費やす部活といったら、おれにはこれしか思いつかなかった。

 陸上部の顧問は、入部届けに書いたおれの名前を見た途端「なんでこんなところに」と言った。随分な言われようだなと苦笑いでごまかす。名前を知られているということが、どうしようもなく恥ずかしかった。顧問は自分の言葉が失言だとすぐに気付いたようで、「すまん」と言って入部届けをバインダーに挟む。
 仮入部の最終日ともなると人はかなりまばらで、おれくらいしか新入生は見当たらない。
「タイムを計っていくか?」
「いいんですか?」
「ああ。次の大会の参考にしたい」
 中学の部活を引退してからは、勉強に必死で気晴らしに自分の家の庭で走るくらいしかできていなかったから、こんな風にちゃんと走るのは久しぶりだ。次の大会、という顧問の言葉に気が早いなとまた苦笑い。まるで大会に出るのが決まっているかのような口ぶりではないか。この陸上部にも他に部員がいるだろうに。
 この学校の部活にしては、陸上部はそれでもかなり規模の大きい部活のようだった。部長さんが、「一応この学校の最大勢力なんだよ、ほんと一応だけど」と説明をしてくれる。予備のユニフォームを借りてスパイクは自前で、軽くストレッチをしてからスタートラインについた。少し離れたところでも、上級生が走っているのが見えた。
 この瞬間は何度経験しても気分が高揚する。
 合図と共に飛び出して、体が風を切る感覚を思い切り楽しむ。走るのは気持ちいい。やっぱり好きだ。今日ここに来てよかった、と思った。
「やっぱり速いなあ……入部後は即レギュラーとして走ってもらうことになるけど構わないよね?」
「それは……おれとしては嬉しいですけど、でも」
「この学校は基本的に実力主義だよ。表立って文句を言う奴はいないから」
 陰で文句を言うひとはいるみたいな可能性を示唆されて怖い。でもまあその辺りは織り込み済みか。結果を出せばいい話だ。中学の頃だって、少なからずやっかみを受けてはいたのだし。心機一転、ここで三年間頑張ろう。
 それにしても同級生と一人も顔合わせができなかったのはちょっと痛いな、と少しだけ行動の遅さを後悔。部長さんが顧問と何やら話をしているのを見つつもう一度くらい走ろうかと思っていたとき――おれは視界の端でこちらに駆け寄ってくる人影を見つけた。
 随分と小柄だ。男子生徒なんだろうが、女の子のような顔立ちをしている。烏の濡れ羽色の黒髪がとてもきれいで、どうやらそいつはおれの方に走ってきているなあと次第に分かった。
 目の前に立ったそいつはやはり背が低かった。おれよりも十センチは低いだろうか。黒目が大きくてぱっちりとしていて、猫のような瞳だ。黒髪が太陽の光でつやつやと輝いていた。あんまりきれいだったから、ついそれを口に出してしまう。髪を褒めるなんて男相手にすることではなかったのだろうけど、そいつは照れたように笑って「ありがとう」と言った。
 そこからは完全にそいつのペース。もう、そこまで褒めるか? というくらいに褒めちぎられた。とどめは「なんか感動しちゃってさー! オレも陸上部入ろうと思った」だ。素直すぎる賞賛に思わず笑みがこぼれた。
 こうして陸上部は、仮入部の最終日に新入生を二人獲得することになった。なんとなくだけれど、八代と名乗ったこいつとは仲良くできそうな気がする。知り合いがいない学校を選んで入学したおれにとって、それはとても心強い思いだった。
「あっやばい高槻待たせてた! じゃあオレもう行くね、体育の授業ではよろしく! もちろん部活も!」
 あわただしくやってきてあわただしく去っていったそいつ。フットワークが軽いのだろう。おれはその後姿を見送って――ふと視線を感じる。
 僅かに顔を上げると、視線を感じた先には随分ときれいな顔をした男がいた。この距離からでも分かる。きっと近付いて見たらもっとうつくしいのだろう。周囲で歩いている人と比べて明らかに等身が高い。顔が小さいし脚が長い。とても素敵なものを見られた。八代のことといい、今日はいい日だ。
 ……ところで、なんだかそのきれいな男から睨まれている気がするけれど、気のせいだと思いたい。気のせいだよな? 何もしていないのに嫌われるのはかなしい。
 八代はまっすぐそいつのところまで走っていったので、あれがその「待たせてた」やつなのかなあと想像する。となると、同級生かもしれない。喋る機会もあるだろう。
 このときはまさかあいつに――高槻にあそこまでの拒否反応を受けるとは夢にも思っていなかったのだけれど。今のおれはこの高校生活に、僅かな希望を見出していたのだった。
 その僅かな希望がとある人物に出会うことで将来の夢にまでふくらむのは――ここから更に数ヶ月後のことだ。

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