羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 タバコの味は高校に入ってから覚えた。なんでこんな不味いもん、と最初は思ったけれど、タバコを吸いながら喋るのは悪くなかった。治安がそこそこ悪い高校の、素行がそこそこ悪い奴。そんなポジション同士でつるんで適度な喧嘩とサボりをこなし、髪は染めないまでも制服は適当に着崩してやってきた。
 そんなオレ、水嶋俊希には最近ちょっとした悩みがある。
「なあ、またあいつ水嶋のこと見てね?」
「うっわマジだ。お前あいつに何したの? やばそうなのに目ぇ付けられてんじゃん」
 知らねえよ、と言いつつちらりと視線を横にずらすと、そこには男が一人。
「なんて名前だっけ。イッシキ?」
「そうそう。確か四組」
「どこにいても目立つよなあいつ。喧嘩してるとかは聞いたことねえけど」
 その“どこにいても目立つ”男はというと、何を考えているんだか分からない表情でオレのことを見ている。淡い緑のフィルターを通したような金髪とピアス、そして細身の長身は人目を引きやすい。接点なんて去年同じクラスだったくらいで何も心当たりがないのだが、何故か決まって木曜日に向けられる視線は大層居心地が悪かった。
 名字は知ってるけど、下の名前は覚えてない。あいつ――一色とは、その程度の縁だ。
 周りの奴は、自分には関係ないからと言わんばかりに面白がっているのが分かってそれもまた気に食わない。今日もそいつらはライターを手の中で転がしつつ、
「そもそもなんで一色ってあんな浮いてんの」
「あいつと仲いい奴誰かいたっけ? 俺も喋ったことねえわ」
「ああいうタイプ、キレたら凄そう。雰囲気がやべーもん」
 と好き勝手言うばかりである。
 苛立ち混じりにタバコを一本取り出して咥える。学ランの内ポケットからライターを取り出すのに手間取って思わず舌打ちをすると、「水嶋」と急に腕を軽く叩かれた。舌打ち程度で注意をしてくるような高尚な奴じゃねえだろお前は、なんて思いつつ視線を上げる。
 はたして、それは注意ではなかった。……いや、ある意味注意かもしれない。注意喚起だ。そいつはこわごわと、しかし端的に言った。
「……なあ、あいつこっち来てね?」
 そいつの視線を追ったとき、既に一色はオレのすぐ傍まで迫ってきていた。ゆったりとした足取りだ。どこか冷たくて神経質そうな感じのする目つきは、なるほど確かにちょっと危なそうに見えるな、と納得する。表立って喧嘩するタイプではないけれど、裏でやばいことに手を出していそうなタイプに見えた。
「なんか用か?」
 喧嘩を売ってきているなら買うぞ、という気持ちを込めて言う。すると、目つきから受けた印象に違わず温度の低そうな声が耳に届く。
「おまえさ、前から思ってたんだけど」
 ちらりと視界に入った指先が男にしてはやけに細かったことに気を取られて反応が遅れた。思いの外敵意が見えなかったから――と言い訳をしてもいいだろうか。そいつは気軽な調子でオレの咥えていたタバコを掻っ攫い、ほんの少しだけ眉根を寄せて囁くように言う。
「煙草吸うのはやめとけば。舌が馬鹿になる」
 は? と相槌を打つ暇もなく、一色がオレから奪ったタバコをオレの隣にいた奴の胸ポケットに差し込む。「今日は木曜だし」と意味不明すぎることを続けて言ったそいつにオレたちは何も返すことができない。
「い――一色って、案外委員長タイプなんだなー……禁煙しろとか」
 やっとのことでオレの隣の奴が絞り出した言葉は、いかにも興味ないですという顔の一色によって、「別におまえらは煙草吸ってようがどうでもいいけど」と地面に打ち捨てられた。そいつはオレたちの反応を見届けることなく、踵を返して去っていく。
 なんだか勝手に取り残されたような気分になって、オレたちは顔を見合わせた。
「……なにあれ」
「知らねえよ……っつーかタバコ返せ」
「いいけど折れてるよ」
「は!? うわ、最悪……」
 じゃあもういいわ、と言って立ち上がる。「あれ、水嶋帰んの?」「おう」訳の分からない闖入者のせいでとんでもなく消化不良なので、今日は寄り道をして帰ろうと決めた。こんな気分で家に帰るとかありえねえ。いくらか金を払ってでもストレス解消しないと精神衛生上悪い。
 災難だったなー、というのんきな声を背中に受けつつ薄くて軽い鞄を肩に掛け直し、先程のことを一瞬だけ思い返す。あまり抑揚のない、フラットな声だった。冷たい――とさっきは感じたが、なんというか、温度がない、と表現した方が正確かもしれない。そんな声。
『今日は木曜だし』
 うっすらと、微かに口角の上がった笑顔にまた無意識に舌打ちが飛び出した。
 あークソ、顔のいい奴ってムカつくわ。

 その店は、学校から一駅離れたところにある。駅はオレの足で歩いて十五分ほどだ。そこから店までは更に徒歩五分。大通りからは一本奥に入った道で、人通りがそんなに多いわけでもなく、あまり目立たない……と思う。
 静かに扉を引くと、控えめなドアベルの音がする。いらっしゃいませ、と、店内の雰囲気を邪魔しない女の人の明るい声に、なんとなく自分が場違いであるかのような据わりの悪さを感じて視線を落とした。そのまま、目の前のショーケースの中身を左から順番に見ていく。
 平日のこの時間は客が少ない。少しくらいなら悩んでも問題ないのだが、なるべく店員の視線に晒されていたくないので心持ち急いで注文をした。
 今日はザッハトルテにしよう。
 コーヒーを一緒に頼んで、千円札を出しておつりを貰って、道に面した一人席に座る。紙おしぼりを使っているとき、ふと思った。そういえば、手からタバコのにおいがしない。放課後に吸うのを邪魔されて、最後に吸ったのが昼休みだからだろう。
 小さい頃から甘いものが好きだった。今でも好きだ。それこそ、タバコなんかを吸っているよりはよっぽど。
 鈍く光を反射するフォークで、ザッハトルテを一口分切って口に運ぶ。口に入れた瞬間じわりとチョコレートの甘さが舌の上でほどけて、たかだか六百円と少し、コーヒーを付けても千円未満でこんなに幸せになれるなんてお手軽だな、と我ながら思う。
 ちょうど学ランに袖を通すようになった頃から、甘いものが好きだと言えなくなった気がする。似合わないと自分で感じてしまったのかもしれないし、人の目を気にするようになってしまったのかもしれない。友達の前でなんて以ての外、家族の前でだって少しためらう。そんな風に思っていたら甘いものを食べる機会は激減して、だからこれは苦肉の策なのだ。
 学校から少し離れたところでこうして甘いものを買って、食べてから帰る。別にコンビニスイーツだっていいのだが、専門店のものが食べたいと感じることもある。カフェスペースが併設されているケーキ屋は珍しいから、この店にはそれなりにお世話になっている方だ。来るのは気が向いた木曜日だけ。おそらく家族経営なのだろうなという感じの、趣味が全面に出ているこの店は、水曜日が定休日でケーキを焼く日だった。
 ブラックコーヒーで味覚をリセットしつつ二十分ほどかけて食べ終わる。その頃には、変な奴に絡まれたという苛立ちはすっかり消えていた。
 苛立ちが消えたお陰で、一色の言葉を落ち着いて思い出すことができる。舌がバカになるからやめろ――だったか? あいつがどういう意図でオレにだけそれを言ってきたのかは分からないが、ひとつの正論ではあるのだろう。どう考えても舌にも肺にも悪そうだしな、タバコ。
 カップに半分ほど残ったブラックコーヒーにミルクを入れようか悩みつつため息をつく。すると、その瞬間を見計らったかのような声が上から降ってきた。
「お食事中失礼します。こちら試作品のマカロンなのですが、おひとついかがですか?」
 初めて聞く低めの柔らかい声に内心で驚く。この店で、店長のおっさん以外に男の店員がいるだなんて知らなかったからだ。この角度だと手元とマカロンしか見えないが、最近入ったバイトとかだろうか。
 いかがですかと言われて断る理由もないので、「っす……いただきます」と顔を声のした方に向ける。
 そして今度こそ、驚きのあまり声も出なかった。
「………………、いつまで呆けてんの? 食わないのこれ」
「な、ん、……なんでお前っ、ここ」
 オレはようやく我に返る。マカロンの載ったプレートとそれを持っている奴とを交互に見て、あまつさえ指までさして、早々に接客用の声音を放棄したそいつを認識する。
 そいつは――一色は、やっぱりほんの少し口角を上げるだけの笑い方をして言う。
「なんでって……ここおれの家なんだけど」
 つい数十分前にオレのタバコを一本駄目にしやがった男が、散々意味深なことを言うだけ言って去っていった男が、白いシャツに黒い腰エプロン姿でそこにいた。

 オレが真っ先に考えたのは、どうやってこの場を誤魔化そうか、ということだった。まったく言い逃れもできない状況で同じ学校の奴に遭遇してしまった。こんなことならコンビニでエクレアでも買って立ち食いして帰ればよかった……と思ったけれどもう遅い。そもそもオレは、一年以上この店に通っているのである。何もかも今更だった。
 恥ずかしさと気まずさで黙ってしまったオレに、一色は首を傾げた。
「マカロン嫌い?」
「……嫌い、では、ない……普段自分で買ってまでは食わねえけど」
「ふーん。これがフレーズでこっちがピスタチオ」
「あー、じゃあ苺で……」
 全てのことに諦めがついたので素直に希望を伝えると、一色はオレをバカにするでもなく、「やっぱおまえかなり甘いもの好きだね」なんて淡々と言う。……そうだよ、悪いかよ。一人でこそこそケーキ食いに来るくらいだよ。
「っつーか、オレのこと気付いてて黙ってたのかよ……性格悪ィな」
「敢えて言うことでもないと思ったし。うちの学校の制服のまま食いに来てたから、寧ろ隠そうとしてたってことに気付いてなかった。それに、おまえが甘いもの好きそうなのはおまえがこの店に来る前からなんとなく察しがついてたよ」
 いやそれはそれで怖いだろ。なんでだよ。エスパーか?
 まさか本当にオレの心を読んだわけでもないだろうが、そいつはガトーショコラを食べ終わった皿の上にマカロンをひとつ載せて理由について話し始める。
「去年、文化祭の出し物決めるHRでカフェやろうって話が出たとき、おまえ、『適当に冷凍のガトーショコラとかチーズケーキとか売ればいいんじゃね』みたいなこと言ってた」
「お、覚えてねえ……それがどうかしたかよ」
「ケーキにこれっぽっちも興味ない奴は『チョコケーキ』って言うんだよ。ああこいつケーキに対する解像度高いなと思って……それでなんとなく記憶に残った」
 それはオレにとってあまりにもあまりな盲点だった。そうか……全然意識してなかったけど、普段から食ってないとケーキの種類とか認識できねえのか。思わず言葉に詰まってしまって、けれどそれを認めるのはちょっと悔しくて無反応を貫く。
「……たぶんおまえが思ってるよりずっと、ガトーショコラとザッハトルテの区別ついてる奴は少ないよ」
「マジか!? あんなに違うのに!?」
 今度こそ明確に墓穴を掘ったのが自分でも分かった。一色は薄く笑って、「あんなに違うのにね」と同意する。……嘲笑の意図はそこには見えない。
「おれはオペラも好きだけど」
「あー美味いよなあれも」
「おまえ、もはや隠す気ないね。あと、フレーズが苺って通じる奴も珍しい」
「てめっ……さては引っ掛けたな」
「それ美味い? マカロン」
「ん」
「ピスタチオも食っていいよ。嫌いじゃなければ」
 思い切り話を逸らされた気がしたが、有難く受け取っておく。と、そこで店の奥の方から「澄仁! あんたいつまでマカロン配ってんの!?」という叫び声。
「……すみひと?」
「おれの名前だけど?」
「お、おお……」
「っつーかやばい、他に客がいないからって長話しすぎた。親がキレたら面倒だからそろそろ戻るわ」
「あ、おい!」
 また振り返りもせず立ち去るかと思われた一色だったが、予想外にオレの言葉に反応して仕草だけで「なに?」と伝えてきた。オレは、一拍置いて湧いた疑問を口にする。
「なんで今まで会わなかったんだ? ここ、お前の家なんだろ。オレ割と前からこの店に通ってたのに」
 返ってきたのは、笑い混じりのあまりにも明快すぎる答え。
「おれのこの見た目じゃ接客させられねえって親に言われてんの。今日は、客がおまえだけだったから特別」
 淡い色合いの髪と、耳元のピアスが照明の光を反射する。今度こそ一色は、軽い足取りで扉の向こうへと消える。
 最後に聞いた声は、意外なくらい温度の感じられるものだった。

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