羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 オーナーに頼んで火曜を早出にしてもらった俺は、どうにかさっさと寝るべくベッドに横たわり、じっと目を閉じていた。どうやら天気予報によると、明日は朝は晴れで昼から曇りというほぼ理想的な天気らしい。日射病とか熱中症とか怖いしな。よそのお子さんを預かってるんだから、気をつけないと。
 食材の手配とか海辺でのレンタル品の予約とかは弟がやってくれた。金は全部こっち持ちでよかったのに、どうやら事前に同額ずつ持ち寄ってある程度資金を集めてしまっているらしい。ほんと、歳の割にしっかりしてるよな。まあ向こうに着いてからもなんだかんだ金はかかるだろうから、それくらいはせめて出してやるか。
 あの子たちに全員揃って会うのはなかなか久しぶりだから、結構楽しみ。若い子にはパワーを貰える気がするよね。なんか生命力に溢れてる感じ。
 そんなことを考えているとだんだん頭がぼんやりしてきて、あー眠れそう、とそのまどろみを気持ちよく思う。
 マリちゃんに会ったらまずなんて言おうかなあ、と、それだけのことにちょっぴり心臓が高鳴った気がした。


「俺真ん中もーらい!」
 レンタカーを家の前に寄せると、乗り込んできた弟は俺の斜め後ろのシートを取った。助手席じゃないのか珍しい、と意外に思う。というか、俺の横とか他のみんなは座りづらいだろうからこいつに座ってほしかったんだけど……。
「お前助手席じゃねーの?」
「え? うん。だって今日は兄貴と二人じゃねーじゃん。俺、何事も中心ポジション狙っていきたいタイプだから!」
「ああそう……いや、移動時間結構あるし、俺の隣とか気ィ遣うかと思ったんだけど」
 弟はそんな俺の心配などどこ吹く風といった様子で、「大丈夫。たぶん今日そこ座るの万里だし」と言った。えっ既に席順決まってんの? っつーかマリちゃんなの? なんで? 何が大丈夫なの?
 嬉しいけど、運転に集中できなかったらどうしよう……なんて内心どきどきだ。弟の話によると、マリちゃんはどうやら車の助手席というものに一度も座ったことがないらしい。あれかな、助手席は事故ったときに一番危ないって言うもんね。見晴らしがよさそうで一度は座ってみたい、と言ってたんだそうだ。
 特に約束をしたわけではないけどみんなそれを覚えてるだろうから、というようなことを弟は言った。約束したわけじゃないのにそういう風にできるの、いいね。こっちまでなんか嬉しくなる。
 とっても嬉しい気持ちで車を発車させた。まずは一番近い大牙くんを拾って、それから高校の前で宏隆くんと佑護くんが待ってるらしいからそこ行って、最後にマリちゃんの家の最寄り駅だ。
「ゆきちゃんおはよう! 今日はお世話になりまーす!」
「大牙くん久しぶりー、聞いたよ、大会かなり好成績だったんでしょ? おめでとう」
「ありがと! 今年は応援パワーが凄かったんだー、へへ」
 車のドアを開けた瞬間とっても元気な挨拶をしてくれた大牙くんは、弟が座ってる真後ろの席に乗り込む。「暁人、ちゃんと起きられたんだ」「はあ? 兄貴より早かったし!」「ゆきちゃんは仕事の翌日なんだから当たり前でしょ!」この二人も相変わらずだな。和むわー。
 玄関先には大牙くんのお母さんもいた。運転席の窓を開けると、「いつもごめんねぇ雪人くん。私じゃ遠くに連れて行ってあげられなくて」と申し訳なさそうな笑顔。看護師さんだからな。忙しいんだろう。夜勤明けを無理やり起きてきたのか、夏の日差しに手をかざす様子は若干の疲れが見えた。お安い御用ですよ、と言っておく。俺もただの付き添いじゃなくて海を楽しむ気でいるし。
 大牙くんのお母さんに「気をつけてねー!」と見送られ、続けて高校の正門前で二人をピックアップ。言葉少なながら「よろしくお願いします」と会釈してくれた宏隆くんと佑護くん。この二人も初めて会ったときに比べてかなり背伸びたな。佑護くんなんて百八十くらいは既にありそうだしまだまだ伸びそう。人見知りっぽかった二人だけど、流石にもう慣れてくれたのか「今日はありがとうございます」と代わる代わる言ってくる。
 そこからまた車を走らせて、最後はいよいよマリちゃんだ。残った座席はやっぱり助手席。
「おはようございます。今日はお世話になります」
「おはよ! もう俺の隣しか空いてないけど座っちゃって」
「いえ、嬉しいです。助手席初めてです」
 景色が綺麗に見えますね、とマリちゃんがにこにこしているので俺も自然と笑顔になる。こうして、六人を乗せたレンタカーはようやく海へと向けて走り出した。
 途中でコンビニ休憩を挟んだりして、やがて車が海沿いの道に出る。海は太陽の光をきらきら反射していた。砂浜が眩しい。窓を細く開けると、独特な潮の匂いがする。
 慣れない早起きでうとうとしていた弟が覚醒したのが声の様子で分かる。「あー早く降りてー!」俺もちょっと肩が凝ったからさっさと降りて体をほぐしたい。駐車場にバックで車を入れる。車内の冷房が切れて、ドアを開けるとまだ朝だというのに熱気が肌を覆った。
 みんなあまり荷物は多くないみたいだ。さっさと走っていってしまった弟はパラソルやら何やら全部現地で借りる予定で来たらしく、さっそく海の家で何やら店員と喋っているのが辛うじて遠くに見えた。
 男が六人もいると作業が早い。スムーズにパラソルの設置を済ませて、着替えも終わって、一旦自由行動だ。
「泳ぐのすげえ久しぶり……」
「うちの学校水泳の授業無いもんね。水泳部はかなり強いのに」
 いい具合に太陽が雲に隠されて日差しの照りも穏やかになったから、みんな思い思いに海へと繰り出していく。少ないとはいえ荷物もあるし俺はしばらくは留守番だなーとそれを眺めていると、「セツさん」と名前を呼ばれた。
「あれ、マリちゃんは泳ぎに行かないの?」
「だってセツさんお一人だと退屈じゃないですか?」
「えっ気にしなくていいのに! せっかくの海なんだしみんなと泳いでおいでよ」
 マリちゃんは微笑んで、「お隣、座ってもいいですか?」と聞いてくる。ああもう、そんな風に言われると俺には断る理由がなくなっちゃうんだってば。
「潮風が気持ちいいです」
 海を見つめて眩しそうに目を細めたマリちゃんの優しい声に、ああ今俺マリちゃんの隣にいるんだなあって実感した。けっして大きい声じゃないのに、不思議とマリちゃんの声はよく聞こえる。この子のことが好きだと気付いてから初めて対面したけれど、心臓がぎゅうってなってちょっと苦しい気がするのにあったかい気持ちになる。
「マリちゃん泳ぐの好き?」
「好きですよ。体を動かすことは全般好きです」
 うわ、誓って狙ったわけではないんだけど「好き」って言わせようと誘導したみたいになってしまった。恥ずかしい。俺も運動は好きだけど汗かくのはあんまり好きじゃないなあと頬が火照るのを感じつつ相槌を打った。
「ふふ、暁人も同じこと言ってました。髪のセットが乱れるって」
「俺はあいつほどこだわってないけどねー」
 そもそも弟は、昔はあんな風に海にざばざば入っていくタイプではなかった。最近は髪の乱れにそこまで目くじら立てることもなくなってきている気がする。そう考えると、あいつも色々変わったな。
「今日の海も、この間の花火も、暁人が考えてくれたんです。いつもどうやったら楽しくなるかを考えてて……そういうところが、いいなって思います」
「あはは、あいつは思いつきで言ってるだけだと思うけどね!」
「おれたちみんな割とタイプが違いますけど、こうやって定期的にみんなで集まれるのはあいつが色々考えて提案してくれてるからだなって車の中で思ってました」
 こんな風に友達と遊んだりできるなんて昔は思ってなかったから嬉しいんです、と言って、マリちゃんは恥ずかしそうに笑った。まあ確かにこの子たち、接点謎だよな。好みもてんでバラバラに見える。それでも一緒にいられるって、めちゃくちゃいい友人関係だね。
 マリちゃんとの会話は、大盛り上がりって感じじゃないけどいつも優しくて穏やかで、楽しいのがずっと続く。言葉選びも間の取り方も、マリちゃん自身の人格が表れていて好きだった。落ち着くのだ。いつまでも喋っていられる感じ。でも沈黙も嫌ではなくて、マリちゃんの視線を追うといつもと同じ景色も数倍綺麗に見える。
 こんなにたくさん好きだったんだ、と改めて気付かされた。俺、よくこれに無自覚でいられたな。
「……あ。セツさん、向こうに貴重品預けられるロッカーがあるみたいですよ。せっかくの海ですし、預けて泳ぎに行きませんか」
 マリちゃんが指さした方角は俺の視力じゃ何が書いてあるか全然分からなかったけど、誘ってくれたのが嬉しくて「そうだね、じゃあ行こっか」と腰を上げる。昼までに腹空かせとかないとね。
 そして俺はふと気づいた。マリちゃんの腹筋すげー綺麗に割れてる……。
 自分のと見比べたりはしない。絶対しない。なんかもう、エロい気分とかそういうのじゃなくてひたすら男としての敗北感を覚えた。すごいね、鍛えると腹筋ってマジで割れるんだね……。
「? どうかしましたか?」
「なんでもないです……」
 俺、筋肉つきづらい体質なんだよなあ。女の子にはこれくらいがいいとかよく言われてたけど、やっぱ少しくらいは欲しいのだ。
 マリちゃんの、これまた綺麗に筋肉のついた背中を見ながらとぼとぼ歩く。そして思った。
 そういや俺、マリちゃんに対してエロい気分になったりすんのかなー? と。
 ――数ヶ月後には、なんでこのとき一瞬でもそんなことを思ったんだと自分を張り倒したい気分になってるんだけど。今の俺は確かにそれを、思考の題材として心の隅に留めてしまったのだった。

prev / back / next


- ナノ -