羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 気付いた瞬間こそまずい、と思ったけれど、自分の気持ちを無理やり抑えつけてもロクなことにならないと考え直した俺は、ゆっくりこの想いを自分の中で溶かしていければいいなとある種の開き直りをした。マリちゃんには黙っていれば済む話だし、好きでいるだけのことを拒否されたりはしないはずだ。そもそも気付いてなければそれに対する感情が湧きようもない。本気で誰かを好きになれた、ってこと自体はとても嬉しいのだ。日の目を見ることは無いだろうこの気持ちは俺くらいしか大切にしてやれないのだから、自分を慰める時間くらいあったっていいだろう。
 まあ正直、相手がかなり年下でしかも男だっつーのはまだうまく消化しきれてねーんだけど……。でも、あんなに優しくて人を大事にできるマリちゃんだから、俺みたいなのがコロッと落ちても変ではないよなーとか、思ったり。
 元々暗い気持ちとか悩みとかをそんなに引きずれない性分だったから、数日も経つ頃には持ち直すことができた。マリちゃんと会ったりしたらぶり返すんだろうけど、そのときはそのときだ。
 マリちゃんとのこれまであったことを順番に思い返してみたりして、うわあマジで好きだわ……と改めて実感するとかいう不毛なんだかなんなんだか分からないこともした。落ち着きたいのか気分を盛り上げたいのかどっちなんだよ、俺。でも、昔は全然理解できなかった好きな人のことできゃあきゃあ盛り上がってる女の子の気持ちがちょっとだけ分かった気がする。確かにね、今の俺はマリちゃんの言葉ひとつで一喜一憂できそうだよ。今の俺っていうか、ちょっと前の俺も自分では気付いてないだけでそうだったんだろうけど。好きな人のことで情緒不安定ってマジで女子高生みたいなメンタルじゃねーか。恥ずかしいにも程があるぞ。
 冷静になったかと思いきや全然そんなことはなかった俺。自分の頭の悪さを再認識しつつ、ぐだぐだと暑い夏を過ごしていたんだけど……そんな俺に弟が呆れ顔で声をかけてきたのは、まだ起きぬけで覚醒しきっていないときだった。
「兄貴最近腑抜けすぎじゃね? 部屋に引きこもって何してんの」
「んん……? いや、べつに……」
 欠伸を噛み殺して、換気扇の下で煙草を吸っている弟を見る。こちとら人生揺るがす出来事にセンチメンタルな気分なんだよ。そう心の中だけで呟いた。
 俺の適当な返事に納得していない風な弟は、それでも気を取り直した様子で「なあ、お前次の休みいつ」と聞いてきた。
「あー……? 来週の水木が連休」
「マジで! ラッキー」
 おい待てラッキーって何がだ? 俺にとってはアンラッキーな予感がすんだけど?
「なあ、海行きたいから車出してくんね? おねがい」
「ええ……? は? お前にひっついてくる女の子後ろに乗せて運転とか普通にヤダ」
「ちっげーよ! 女はいない。いつもつるんでる奴らと行くんだよ」
 万里も来るよ、と言われてぎくりとする。なんでその台詞で俺を釣れると思ってんだよこいつは。こえーよ。
「今年はガチで泳ぐから! 健康的に焼くから!」
「いやお前日焼けすると赤くなるタイプだろ……痛くなっても知らねーぞ。っていうか五人で海行ってガチ泳ぎすんの? 逆ナン待ち?」
「だから女はいないしいらねーっつってんだろ!」
 ちょっと、というかかなりびっくりした。だってまさかこいつの口から「女はいらない」とかいう言葉が出るなんて。一体どういう心境の変化なんだろう。そういえばこいつ、最近めっきりそういう話をしない。女遊び激しい方だったんだけどな。高校でできた友達が真面目な子ばっかりだから、いい影響を受けたのかも。
 なんだか微笑ましくなって、「水曜だったら車出してもいいぜ」と言う。俺含めて六人だと家にある車は使えないからレンタカーになるけど。まあそこは保護者として弟たちの青春に一役買ってやろう。
「サンキュー兄貴! あ、昼はバーベキューだから」
「予定詰め込んでんなー。準備どーすんの」
「全部現地で貸してくれるってよ。ほら見てこれサザエも食える」
「うわっマジだ。いいね」
 つぼ焼き食いたいわ。っつーか長距離運転すんの久々でちょっと心配。でかい車ってどうしても運転しづらいんだよなー。
 弟のスマホで場所を確認する。ちょっと早めに出て、帰りは少し遅くなるかもしれないけど車でそのまま送っていけば大丈夫だろう。俺自身は高校時代にこういうことをしてきてこなかったから、弟たちが楽しそうにしているのを見るのはこちらとしても楽しい。追体験っていうか、青春を取り戻してる、って感じ。そうだ、俺は弟に、こんな風に屈託なく毎日楽しんでほしかったんだ。それを改めて思い出してなんだか胸の奥がじんわりとした。
 俺の毎日も、けっして無駄にはなっていないはずだ。
 こういうときに真っ先に頼ってもらえる兄でいられてよかったと思う。ずっとそういうのを目指してきたから。
「やーでも兄貴が来てくれてよかったわ。みんな一番慣れてるし」
「そりゃこんだけ会ってりゃな」
「もし兄貴が忙しかったら、万里の家が色々手配してくれるっつってたんだよ」
「それは申し訳なさすぎるな……」
「だろ? っつーか普通に辞退して電車で行く気でいた」
「は? そこまで?」
「だってあの家の仕切りで海とか、プライベートビーチに自家用ヘリで乗り付けて松坂牛のバーベキューになりそうだろ」
 金持ちに対する偏見がやばいなこいつ。発想がステレオタイプすぎるだろ。でも確かにプライベートビーチは持ってそうだ。別荘は絶対持ってる。マリちゃんはこういう偏見絶対嫌がるから口には出せないけど、でも持ってそうなんだよな……。
 いやそれにしても自家用ヘリはねーよ。王様か?
「ま、俺が責任持って保護者してやるよ」
「ありがと。バーベキューなのに酒も飲めねーの悪いなって思うから当日は俺も飲まない」
「いやお前未成年だからな? 分かってるよな?」
「なんだ、とっくに諦めたと思ってたのに一応そういうこと言うんだ」
「大人ですから」
「ははっウゼーなにその無駄敬語!」
 はやく大人とかいうやつになりてーな、と弟は笑った。それはたぶん酒とか煙草とか免許とか、それだけの意味じゃないんだろうなと思った。
「……早く大人になりたいって思ってるうちは子供だし、早送りするには勿体ねーよ、それ」
「それ?」
「青春ってやつ」
 眩しくてきらきらで今だけだよ、そんなの。俺は自分のをあまり大事にできなかったから、こいつには大事にしてほしい。
 弟はちょっと黙って、言おうかなどうしようかなみたいな顔をして、結局我慢できなかったのか「お前も最近、なーんか楽しそうにしてるじゃん」と笑った。あー、もしかしてちょっと出遅れたけど俺もようやく波に乗れてる? まあなんてったってレンアイしてっからね。やべーな、春真っ盛りじゃん。
 っつーかこいつ今俺に気ィ遣ったな。別にいいのに。
 なんとなく意趣返しでもしてやりたくて、「なあ煙草一本ちょーだい」と言ってみた。そしたらそいつはからりと夏の太陽みたいに笑って、「やーだよ! 自分の吸え!」と俺の肩を軽く叩いた。

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