羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 たぶん、スズカさんからの指摘じゃなかったらここまで素直に受け入れられてなかったと思う。
 現に、今までまったく自分の気持ちに気付いてなかったし。今振り返ってみるとなんで気付かないんだよって思わずツッコミ入れたくなるくらいだけど、とにかく気付いてなかったものはしょうがない。というか寧ろこれマリちゃんに気付かれてたりしないよな? 大丈夫だよな?
 今までのあれやこれやが恥ずかしくなってくる。ここが職場じゃなくて自分の部屋だったらベッドの上を転がりまわってただろう。無意識のうちにたくさん「好き」って気持ちを表に出していたのかもしれないと思うと、なんかもう記憶を消してくれって感じだった。
 俺ってそういう経験は豊富だと思ってたんだけど、真面目に考えてみるとこれまでのはただ数をこなしてきただけであって、気持ちを重ねてきたわけではないんだよなあと気付く。本気で人を好きになったときにどうすればいいかなんて知らない。いや、仮に知っていたところでこんなのどうしようもないだろう。だって相手は男だ。八歳年下、弟の同級生、ってだけならまだぎりぎり大丈夫だったかもしれない。まあそれでも犯罪感はぬぐえないんだけど……例えば高校卒業まで待つとか、長い目で見てアプローチするとか、そういうこともできただろう。でも、男って。もう俺が生まれ変わらないと無理じゃね?
 俺も夜の街で働くようになってから結構経つ。異性よりも同性を好きになる奴っていうのが、昼よりはいくらか隠れず生きていけるのがこの街だ。そういう店だって知ってるし、なんなら知り合いに何人かいたりする。でもいざ自分がと思うと不思議な気分だった。俺ってバイだったんだろうか。そんなこと想像したこともなかったな。
 そもそも俺は、マリちゃんが男だから好き――というわけでは、ないと思うのだ。寧ろ、女じゃないけどマリちゃんだから好き、というのがしっくりくる。男を好きっていう結論が変わるわけじゃないんだけど、それでもこの先、マリちゃん以外の男を自分がそういう意味で好きになるとは思えなかった。
 マリちゃんって、ほんとに俺の『特別』だったんだ。
「……会いたいなぁ」
 望みゼロなのにそれでも会いたくなるって不思議だ。声が聴きたい。
 俺の人生を根底から揺るがす感情に、心が不安定になっているのかもしれない。安心が欲しかった。マリちゃんがまだ、俺に笑いかけてくれるっていう安心が。
 もし俺がこの気持ちを暴露したとして、マリちゃんは絶対に「気持ち悪い」とか「嫌だ」とか、そういうことは言わないでいてくれると思う。でもきっと、いや、確実に困らせてしまうだろう。だからこそ、これからも秘密にしておいた方がいい。
 俺が諦められるようになるのが先か、マリちゃんが大学に進学して疎遠になるのが先か……って感じ。
 そう、まだまだ高校生なのだ。知らないことなんてたくさんある。大学生になったらもしかして、単発じゃないバイトを始めるかもしれない。サークル活動で他所の大学の子と飲み会に行ったりすることもあるだろう。これから広がるばかりのマリちゃんの世界を邪魔してしまってはいけない。
 いつかマリちゃんの隣に立つだろう恋人が、優しい子だったらいいな、と思った。
 まあマリちゃんが選ぶんだから、どんな子だろうと俺よりよっぽど立派な育ちの器量よしだっつーのは、確実な話なんだけどね。
 一応俺も大人なので、自分の気持ちの整理くらい自分でつけられる。大丈夫。ゆっくり消化していけばいい。自分が、ちゃんと誰かを好きになれる心があってよかったと思う。
「――こんばんは。何か作ってほしいんだけど、おすすめはなんですか?」
 歌うような声で話しかけられた。
 慌てて思考を中断しそちらを向くと、そこにいたのはクリスマスの日に一緒にアイスを食べたあの子だった。目が合うと、にっと歯を見せて笑いかけられる。
「遊びに来たよ。久々にセツの作ったお酒飲みたくなっちゃった」
「あ……ありがとう。いらっしゃいませ」
 思わず笑顔がこぼれる。自分の作ったものを求めてもらえるのは嬉しい。
「元気してた? 結構久々になっちゃったけど」
「俺? ちょー元気よ。色々あったんだけどね……っつーかマジで久々じゃん? 忙しかった?」
「んー、まあね。ちょっと身辺整理をしておりました」
「え、なにそれ」
 自殺か? 蒸発か? とかなり物騒なことを考えてしまったけれどそうではないらしかった。その子は静かに笑って言う。「ほら、セツがあんまり遊び歩かなくなったじゃん? クリスマスのときから思ってたんだけど、なーんか羨ましくなっちゃって」
「羨ましい、って」
「誰かに本気になれるのが。すっごくかっこいいなって思ったから、あたしも見習ってそういうのやめにしたんだぁ」
 ねえ聞いてよ、みんな割り切って楽しくやってたと思ってたのに、もうセフレとかやめるって言った途端マジギレする男ばっかだったんだけど! とその子はからから笑った。危うく監禁されかけたらしい。マジで危ねー。無事でよかった。
「たっくさん謝ってさー、もう下げる頭も在庫切れって感じ。でも全部終わったらすっきりしちゃって、美味しいお酒飲みたくなって今日は来たんだ」
「そう、だったんだ」
「うん。たぶんね、あたしこれまでのこといつか後悔すると思う。誰かに本気になれたとき、なーんであんなことしてたんだろうなって自分にがっかりすると思う。まあ本気になれる人がいるかはまだ分かんないんだけど……」
 でもこの歳になって変わろうと思えた自分はけっこー好き! と言って、その子は笑ってみせた。
 なんでもない風に笑って言っているけれど、相当大変だったはずだ。やっぱりいい女だな、と俺にはその子が眩しく見えた。後悔なんてしない、とは、言わないんだな。俺も言わない。言えるわけなかった。
「……俺そういうことやってねーわ」
「ん?」
「いや……なんというかちょっとフェードアウトを狙ってたとこはあるというか……」
「あーっ、悪い男だ!」
「うっ……いや、でも、ちゃんとする。今日決めた」
 俺が本気になれる人が誰なのか、分かったから。
 とりあえず酒ぶっかけられてもいい服で会いに行こう……とレベルの低い決心をしていると、「ねえ、今日はセツの気分で何か作ってよ。全部お任せしちゃうからさ」と提案された。ベースは何がいいと聞くとそれすらお任せらしい。
 じゃあ新しい門出を祝って俺がごちそうするよと言うとやったーと喜ばれた。美味しい桃のストックがあったのでそれを使うことに決める。出来上がったのはちょうど、今の季節くらいの朝焼けのような色をしたカクテルだった。ほんのりピンクでかわいい感じ。
「お待たせしました」
 照明に照らされたカクテルはきらきらしていて、我ながらとても綺麗にできたと思う。グラスに口をつけたその子はにんまりと目を三日月型にして、「……おいし。セツの今の気分がとってもあまぁいことはよく分かった」とからかうように言った。
「そ、そんな分かる?」
「分かる。ほんと、おいしいよ」
 やっぱり今日ここに来てよかった、とその子は呟いた。この素敵な友人のためにできることがひとつでもあるなら、それはとても嬉しいと思った。
 その後は口数も控えめに、徐々に混み始めた店内にかかる音楽に耳を傾けながらその子は殊更ゆっくりとカクテルを飲んだ。一体、今何を思っているのだろう。過去に思いを馳せているのだろうか。それとも未来を夢見ているのだろうか。
「――っと、一杯だけでかなり長居しちゃったね、ごめん。今度はちゃんとたくさん飲むよ」
「いや、自分の好きなように来て好きなように飲んでくれればいいって。今日、会えて嬉しかった」
「あはは、友達最高! セツほんと、いい感じになったよ」
「んー……俺がその、いい感じ? になれたのは俺の手柄じゃないんだよな」
「ふうん?」
「変わりたいって思えるのは、嬉しい」
 その子は俺の言葉に何やら考え込んでいる様子だった。「セツは、その誰かのお陰で変われたんだね……」ぱっと顔を上げて今日は帰ると明るい口調で言ったその子は、最後にこんな言葉を残していった。
「セツのお陰で変われたやつもいるんだよってこと、たまには思い出してね」
 驚いた。俺がマリちゃんにたくさん優しさをもらって、綺麗なものをたくさん教えてもらって、変わりたいって思えたのと同じように――俺も誰かにいい影響をもたらせているのだとしたら、それはとてもすごいことだと思う。
 そう、泣きたくなるくらい。
 心の中でマリちゃんにお礼を言った。もう、どれだけ感謝しても足りないな。
 グラスを洗いながら思わず笑顔になる。この気持ちが伝わらないのが残念なようなほっとするような、複雑な思いを抱えながら俺は、祈るように吐息だけで囁く。
 俺、マリちゃんのことが好きです。俺の世界を変えてくれて、ありがとう。

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