羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 昔話だ。
 その昔、由良雪人という人間は、それはもう素行が悪かった。その頃の俺はまだ両親のことを諦めきれていなくて、幼い弟の面倒を一手に任されていることを割り切れていなくて、でもだからといってまだ小学生になって間もない弟に何か言えるわけもなく、八つ当たり先を家の外に求めていた。
 授業はまともに出ていなかった。酒と煙草の味もこの頃覚えた。あの頃の陵栄東高校――東高はなかなかに治安が悪くて血の気の多い奴が多かったから喧嘩もそれなりにしてたと思う。
 弟に飯を食わせて寝かしつけてから外を遊び歩くのが常だった。大体の場合は適当に女を引っ掛けて、ヤるだけヤッてさよなら……みたいな、かなり不健全なこと。それはちょっと前の俺よりもよほど酷い遊び方で、思いやりも何もなくて、今となってはなんであんなに気持ちが荒んでいたのかよく分からない。ただ、自分は最低な人間だと当時からそんなことばかり思っていた。こんなことしては駄目だと分かっていても苦しくて仕方なかった。
 あの人に会ったのはそんな、自分の感情に振り回されていた時期。夜半過ぎの繁華街でのことだった。
 その日の俺は、一緒にホテルに入った女が連絡先を教えろだの何だの煩いことを言い出して、適当に言い訳して帰ろうとしたら思いっきりひっぱたかれて、ハズレを引いてしまったとげんなりしながら繁華街のネオンの下を歩いていた。
 叩かれた頬が熱を持っている気がして舌打ちをする。自然に漏れてしまったものだったけれど、目の前から歩いてくる人がそれに気付いたのだろう。俯きがちに歩いていたその人はふっと顔を上げて――僅かに目を瞠った。
「子供がこんなとこで何してんの」
 率直な物言いにカチンときた。確かに子供ではあったけど、あんたに何か関係あるのかと思ったから。思ったしそのまま言った。そしたらその人は俺の方に近づいてきて――目のあまりよくない俺は、そのとき初めて気づいた。目の前に立って呆れたように笑ったのは、びっくりするくらいかっこいい人だった。そして、優しそうに笑うひとだった。
「――お前みたいな危なっかしい子供を気にかけるのが大人ってやつなんだよ」
 こっちおいで、と。
 けっして押しつけがましくない、軽い口調でそう言われた。無視してよかったはずのその言葉におとなしくついて行った理由は分からない。けれど、その頃の俺はとにかく「誰かに心配してもらう」ということがとても価値のあることのように思えていたから、ちょっとだけ泣きそうになったのをこらえてその人の後ろについて歩き出した。

「ほら、これで冷やせよ」
 連れて行かれたのはホストクラブだった。最初は看板にビビったけど、休憩所を抜けるとこぢんまりとした居住スペースのようなところに着く。俺を部屋に残してどこかに行ってしまったその人の、「オーナー聞いて、子供拾っちゃった」というゆるすぎる声がしたかと思えばすぐにこちらに戻ってきた。頬に冷やした濡れタオルを当てられて、俺は複雑な気持ちで「……どーも」と言う。
「なーんだ、お礼言えるんじゃん。ただのクソガキかと思ってた」
「俺と大して歳変わんねーだろあんた……」
 ぱっと見た感じ、せいぜい大学生くらいだ。どんなに離れていても五つ差程度だろうと思ったのに、「ふ、お前俺が同い年くらいに見えんの? 笑える」と言われてしまう。
「お前、きれいな顔してんね。ちゃんと冷やして腫れないようにしろよ」
「はあ……」
 明るいところで見るその人こそ綺麗な顔をしていたけれど、素直に言うのは癪なので黙ってしまう。ミルクティー色の淡い茶髪に、耳元には赤いピアスが光っていた。
「……なんでこんなことしたわけ」
「ん? 世間様ぜーんぶ敵ですって顔で泣きそうにしてた子供ほっとくのは心が痛んだから?」
「泣いてねーよ!」
「そんだけ元気あれば大丈夫だな」
 家には帰りたくない? と聞かれて言葉に詰まった。図星だったから。だってあの家に俺を待っていてくれる奴なんて誰もいない。弟は俺が守ってやるべき対象で、そういうのを求める相手としてはちょっと違った。
 俺は弟のためにも強くてなんでもできる奴じゃないといけないのだ。
 その人は俺が黙りこくってしまってからも、急かそうとはしないで隣にいてくれた。無言のまま数分が過ぎてタオルが体温でぬるくなってきた頃、俺はようやく「……まだ帰りたくないけど、弟がいるからちゃんと帰る」と言った。
「へえ、お兄ちゃんじゃん。えらいね」
「別に先に生まれたってだけで偉いもクソもねーだろ」
「きょうだいのために頑張れるってすごくない? 俺は弟だからさァ、そういうとこ尊敬しちゃうわけ」
 手放しで褒められてびっくりしたけど嬉しかった。そういえば、誰かに褒められたりしたのは久しぶりだなと思った。
 その人は変わらず柔らかい笑顔を浮かべていて、それがなんだかとても安心できた。「……なあ、あんたの名前教えてよ」聞いてみたのはただの気まぐれ。対価なしに優しくしてもらえて嬉しくて、「あんた」と呼び続けるにはあまりにもそっけないなと思ったから。
「んー、スズカでいいよ。ここではみんな俺のことそう呼ぶから」
「スズカ?」
「偽名だけどね」
 源氏名というやつか。この人は十中八九ホストだ。俺よりは少なくとも四つ上なのかと思って「……酒飲める歳なんだな」と言うと、その人は愉快そうに笑った。笑って、俺の干支を聞いてきた。素直に答える。俺はね、と教えてもらった干支は、俺のよりもふたつ前。
「……え、二歳差?」
 その人は何も答えない。……ちょっと待ってくれ。それじゃこんな店で働けるわけがない。っつーことは、なんだ?
「――――は!? あんたもしかして三十超えてんの!? おっさんじゃん!」
 驚きのあまりかなり失礼なことを言った俺に、その人はいよいよ我慢できなくなったらしく声をあげて笑った。「アハハハ! めっちゃびっくりしてんじゃんお前! あーやばい、マジで笑える」俺はもうまったく反応するどころの話じゃなくて、驚きのあまり呆然と目の前のその人を見ていた。
「……す、すみません。えー、と、……スズカさん」
「ふふ、突然敬語になったのは突っ込まないでおいてやるよ。お前の名前は?」
 本名を言ったものか僅かに悩んで、でも咄嗟に偽名も思いつかなくて「雪人です」とだけ言った。「ゆき。いいね、きれい」と、端的な口調が俺の名前を優しく褒めるのを、くすぐったい気分で聞いていた。
「……っと、やべ、そろそろ時間切れかも。俺がオーナーに怒られる」
「あ……ごめん、なさい」
「いいよ。大サービスでこれもやる」
 濡れタオルと交換で手渡されたのは名刺だった。裏面にはいつの間に書いたのか、携帯の電話番号が記されている。
「もしこっちの世界で生きてく覚悟があって、大学卒業まで待てなかったら連絡しろよ。学が無くても家族養ってくための生き方がここにはあるから」
「え……」
「親が守ってくれなくても、金はお前を守ってくれる。お前には守りたい奴もいるみたいだしな」
 痛いところを突かれた気分だった。このままじゃ、確かに駄目なのだ。あんな親とは一刻も早く縁を切りたい。でも、弟を置いていくわけにはいかない。
 俺は早く、親になんか頼らず生きていけるようになりたかった。それを見透かされたみたいで何も言えなくなってしまう。
 また無言タイムになってしまった俺に、その人は――スズカさんは茶化すようにして「お前、運いいよ? 俺とサシで喋って一銭も取られないなんて」と恐ろしいことを言った。
「お前が稼げるようになるかはお前次第だけど、ま、死ぬ気でやりゃどうにでもなるだろ。死ぬ気で死んだら駄目だけどな」
 ――その言葉は強く記憶に残った。死ぬ気でやるのはいいけど、死んだら駄目。まっとうに心配された、気がした。
 俺はその後改めてお礼を言ってその場所をあとにした。すぐ冷やしたのがよかったのか頬の腫れはすっかり引いていて、これなら弟にも何も言われないなとほっとしつつ帰宅する。ちなみにタクシーだった。タクシー代はスズカさんが出してくれた。
 その日はかなり珍しく、よく眠れた。俺がスズカさんに再び連絡をしたのは――親の金に頼らず生きていきたいと決めたのは――悩みに悩んで半月後の、ことだ。

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