羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 なんとなく、スズカさんは魔法のような解決策を与えてくれるのかと当時の俺は思っていたのだけど、二度目に会ったその人が言ったのは「とりあえず、高校だけはちゃんと出とけよ」というとても現実的な台詞だった。
「……別に高校なんかやめてもいいと思ってたんだけど」
「駄目だって。つーかその歳では水商できねえの。オーナーがしょっぴかれるだろ」
 そうは言われても俺にとっては高校生活なんてあまり価値の無いものだ。親はきっと俺の進路になんか興味無い。ただ世間体が悪いからという理由で大学までの学費は出してくれようとしていることは分かっていた。
 そんなことを俺がぶつくさ言っていると、スズカさんは俺を宥めるように笑う。「高校卒業したらちゃんと話通してやるから。それまでは勉強しときな」まるで普通の大人みたいなことを言うんだなとちょっとがっかりしてしまって、勉強なんかそういう世界で何の役に立つんだよと口答えをした。そしたら、スズカさんはやっぱり笑って「馬鹿だねお前、学校の勉強だけじゃないんだって。社会人になって生きていくための勉強をするんだよ」なんて言った。
 そんなこんなで最初のうちは、もしかして騙されたのかも……なんて思っていた俺だけれど、スズカさんの言ってくれたことの本当の意味は高校を卒業するまでにきちんと分かるようになった。スズカさんは俺に、例えばテーブルマナーであったりだとか客に対する作法であったりだとか、確定申告のやり方であったりだとか税金の計算方法であったりだとか、そういうのを教えてくれた。「お前マジでなんにも知らねえのな……よく一人で頑張ってきたね」とスズカさんは慰めてくれたけれど、要するに俺の親は本当にろくでもないんだなということがうかがえる日々だった。何も教えてもらってない、じゃなくて、何も知らない、と言ってくれたのはきっと優しさだったんだろう。
 高校卒業という条件をつけたのも、俺が一時の感情で人生設計を誤らないように気遣ってくれたからだ。たぶんスズカさんは、俺が高校卒業までに「やっぱり大学行って就職したい」と言ったら「そっちのがいいよ」って送り出してくれたんじゃないかと思う。まあ、そうはならなかったわけだけど。
 学校にちゃんと行くようになって、夜遊びの代わりにバイトをするようになった。幸い弟は友達が多くて遊び相手に困らない性格をしていたのと、とても仲のよい幼馴染がいたから親のいない生活も苦ではなかったようで、俺は飯をしっかり作っていれば大丈夫だった。最初のうちはバイトで資金を貯めて弟と一緒に家を出てやろうと思っていたんだけど、それはいまいち現実的な案じゃないな、というのにも気付いた。生きるって金がかかる。それに、校区を移らせてしまうのは弟が可哀想だ。
 とりあえず弟が高校卒業するまではこの家にいてきっちり面倒を見よう。弟にかかる生活費と学費は俺が出して、あのクソ親どもには弟の人生に絶対口出しさせないようにしよう。
 と、まあ、最終的に俺が導き出した結論は、色々なところに妥協を重ねたものだった。でも、きちんと目標が見えたことで生きることに張り合いが出たと思う。俺が突然授業に出席するようになったものだから、教師たちはとても驚いていた。どうせすぐに来なくなるだろって思ってるのがひしひしと伝わってきたけれど、ただ一人、生活指導教員だった担任だけは、「まともな顔つきになった」とやけに嬉しそうにしていたのを覚えている。
 結局俺が水商売の世界に片足を突っ込んだのは、スズカさんと出会って数年経ってからのことだった。
 俺が現在に至るまで働き続けることになるクラブのオーナーに会ったのも、このときだ。
「えっ、こっちで働くの?」
 黒縁眼鏡に無精髭を生やしたその人は、「てっきり姉貴の店でお前のヘルプにつくかと思ってたのに」と意外そうな表情をしていた。そう、俺はホストとして生きていく覚悟を決めてきたつもりだったのだが、スズカさんが紹介してくれたのはホストクラブの裏側の店のバーテンダーの仕事だった。
「たぶんバーテンダーの方がいいと思ったんで。いや、勘なんだけど」
「勘ってお前……まあお前の勘なら当たるかもなあ」
 なんとなくもうしばらくはスズカさんに面倒を見てもらえるだろうと思っていた俺は内心慌てた。でも今更泣き言を言っても仕方ない。どうにか俺の雇い主になるであろうそのオーナーさんに挨拶をすると、にんまりとした笑顔で「いらっしゃい。ま、頑張れよ少年。金持ってる人間は強いぞ」と返ってきた。
「あ、でも使い物になるまではスズカが面倒見てやれよ」
「は? え、なんで?」
「お前が拾ってきたからだろ。ほら、新人研修だと思ってさー、引き受けてちょーだいよ。お前あの店で一番の古株だろ? 年長者らしいことここらでやっときな」
「はあー!? なに普通の企業みたいなこと言ってんの!?」
「あっはっは! こっちの世界に引きずり込んだ責任とってやれよ、自分がしてもらったみたいにさ」
 スズカさんは一瞬言葉に詰まって、「……俺が新人教育って奇跡レベルの珍しさだよお前、ついてないねー」と眉を下げて俺に笑いかけてきた。
 その笑顔にとても安心したというのは、言うまでもない。
 それから――大体数ヶ月。店の人たちはみんな優しくて、俺はイレギュラー的に入ってきた最年少としてかなり可愛がってもらったと思う。スズカさんは未成年のうちは俺に絶対酒を飲ませてくれなくて、でも酒を作らせてくれないわけではなかった。寧ろ毎日のようにたくさんの酒を扱った。スズカさんは俺が味見できないまま作った酒をオーナーに飲ませまくって、「おじさんに酒ちゃんぽんさせるのやめてくんない!?」と言われていた。どうやら俺が「オーナー」と呼ぶその黒縁眼鏡のおっさんとスズカさんが「オーナー」と呼ぶ人は別人のようで、会話の端々から、黒縁眼鏡のおっさんにはお姉さんがいるんだろうな、ということだけぼんやり分かっていた。
 そんなわけで、二十歳を迎えてまともにバーテンダーとしてそのクラブのカウンターに立ったとき、俺は初めて俺の作った酒の味を知ったのだった。正直言って、感動した。これを俺が作ったのか、ってちょっと視界に涙が滲んだくらいだ。
 スズカさんは一度も俺の作った酒を味見してはくれなかったからもしかして不味いのかと思っていたけれど、そうでもないように感じられた。これは後からオーナーに聞いた話だけれど、「スズカは基本的に味見しねえの。だからあいつ、めちゃくちゃ見栄えよく酒作るけどめちゃくちゃ美味い酒作れるってわけじゃないんだよ」とのことだ。それは今でも不思議な事実として俺の中に残っている。
 何もかも不思議な人だった。掴みどころがなくてふわふわしてて、とても優しい人だった。
 今の俺の中にはスズカさんに教えてもらったことがたくさん息づいていて、根付いていて、育っていた。それは親から教わったのよりも余程多くのことで、こういう人が親ならよかったのになあと感じていたことは白状しようと思う。あの人のお陰で、俺は生きていくすべを見つけることができたのだから。


 マリちゃんとの食事から帰ってきて、俺は携帯を片手に唸っていた。スズカさんに連絡をしようかどうか悩んでいたのだ。
 子供がいたなんて知らなかった。しかも、俺と大して変わらない年齢の。初めて会ったとき、スズカさんが俺をやけに子供扱いしてきた理由が分かった気がする。実の息子と同い年くらいの奴はそりゃ子供に見えるだろう。
 もう何年も会っていないから会いたいなと思った。あと、俺も昔よりはだいぶマシな人間になれた気がするっていうのは伝えておきたい気持ちがある。
 今の俺は、例えば花壇に咲く花が綺麗だと当たり前のように思える俺になっていたから。
 こういうのはマリちゃんのお陰なんだよなあ……と若干恥ずかしい。めちゃくちゃな遊び方はしなくなったにしろ結局ずっと女遊びやセックスをやめられないでいた俺が、こんな風に誰かに対してまっすぐ接せられるようになったのは間違いなくあの子のお陰だ。
 心理学者とかだったら、俺の女遊びに「母親からの愛情がうけられないせいで」みたいなもっともらしい理由を神妙な顔で言うのだろうか。
 俺は浮気が嫌い。そう言っているけれど、たぶん実際は浮気自体じゃなくてとんでもない異性関係を続けていた昔の自分が嫌いなんだと思う。今の店で働くようになってからも、セフレなら、本命がいないならまあ……という曖昧な基準で生きて、面倒になりそうならさりげなく切る、なんてことをしていたけれど、それももうきっぱりやめた。
 色々なひとの優しさにふれて俺も変われたのだ。そのことがとても嬉しい。
 手帳を取り出して、何年も携帯の電話帳に残していた番号にコールする。もしかしたら番号が変わっているかもしれないと思っていたけれど杞憂のようで、きちんと呼び出し音が鳴ったことにまずほっとした。
『――ゆき? どうした?』
 数年ぶりなのに、まるで昨日も話したみたいに気軽な声音だった。
 今日、あの喫茶店の店長さんの声を聞いて、そういえばスズカさんはこんな声だったなと思い出した。記憶に違わない声だ。俺は弾む気持ちを抑えて言う。
「スズカさんお久しぶりです。ご無沙汰していたので、お元気かなと思って……」
 スズカさんは電話口で笑ったみたいだった。『いっちょまえに敬語使うようになっちゃって』全部のことが懐かしくなって、俺はスズカさんに会いたいということをその場で伝える。都合のいい日を教えてもらえると嬉しいです、とも。
『じゃあ久々にそっち顔出すわ。売上に貢献してやるよ』
「はは、オーナーも喜びます」
 一番店の混まないであろう日時を指定してくれた辺り、割とゆっくり話してくれる気でいるらしいことが分かって嬉しくなる。マリちゃんからもらったボールペンで手帳に予定を書き込むと、それはなんだか特別なもののように見えた。
 そういえば、あの喫茶店の店長さんには謝っておいた方がいいかな……と今更ながら思い出す。一度はめちゃくちゃな剣幕で怒鳴られたけど、食事美味しかったですって言ったときに見せてくれた笑顔は、やっぱりスズカさんによく似ていた。

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