羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 実は、佑護よりも先に弓道場をあとにしたとき――佑護はそれをおれの気遣いだと思ったようだったけれど、そしてそれは一部正しかったのだけれど――おれは実際、その後に用事を控えていた。
「マリちゃん!」
「こんにちは、セツさん。すみません、お待たせしてしまいましたか」
「へーきへーき。俺からお願いしたんだし……付き合ってくれてありがとね」
 ふわりと微笑んだセツさんにおれも笑顔を返す。今日は、セツさんを高槻さんの喫茶店に案内する約束をしていた。
 以前、おれがカクテルをあのお店でいただいたというのをセツさんに話したことがあった。普通の喫茶店にもかかわらず即興でノンアルコールカクテルを提供できるというのにセツさんは興味を抱いて、それをずっと覚えていたらしい。「ほんとはもっと早めに行きたかったんだけど、ずっとタイミング逃し続けてて」とセツさんは喫茶店の場所を聞いてきた。
 おれが「案内しますよ」と言ったのはもちろんセツさんと久しぶりにお話をしたいなと思ったのと、あとはあのとき高槻さんが作ってくださったカクテルはおそらくメニューには無いものだったからだ。メニューに載ってないからもしかしたらもう飲めないかもしれないけれど、食事も美味しいのでよければ一緒に夕食でも、といったことを伝えて、今日待ち合わせをしたのだった。
 あまり特別扱いを受けるのは心苦しいけれど、お願いしてみるだけなら……と賭けをしたかたちだ。
 ――結論から言うと、高槻さんはカクテルを作ってくれた。けれどそんなことが些事に思えるくらいの出来事がこれから起こるというのは――流石にこの時点では、まったく想像できなかったのである。
 店先の花壇には、少し気の早いコスモスが咲いていた。セツさんは「綺麗だね」と微笑む。「この花は知ってる。コスモスだよね」花の名前を言い当てたセツさんはちょっぴり嬉しそうだ。
 ドアベルを鳴らしてお店に入ると、カウンター席に八代さんがいた。ああ、八代さんも夕飯を食べに来たのか。
 まだ夕方の早めの時間だったけれどちょうどお客さんがはけたところだったらしく、他には誰もいない。「店長、お疲れさまでーす」という声が聞こえて、おそらく裏口から女性の店員さんが帰っていったのだろうということが察せられた。ゆったりした音楽だけが聞こえる空間だ。
 おれは八代さんに挨拶をしようと思ったのだけれど、八代さんがおそらくおれの隣にいたセツさんに気を遣ってくださって笑顔で目くばせをしてきたのでおれも軽い目礼にとどめておく。L字型のカウンターの、八代さんが座っているのとは逆側の端に並んで座った。
 ここで、キッチンから人影が出てきた。あまり忙しくないらしい時間帯、女性の店員さんが帰ったということは消去法で高槻さんだ。今日も変わらず整った顔の高槻さんは、セツさんという初対面の人物に気付いたからか、キッチンへ続く扉を背に接客用の笑顔で「いらっしゃいませ」と完璧な挨拶をした。
 こんにちは、お久しぶりです、と言いかけた声は、しかし大きな音に遮られる。音に驚いて隣を見ると、セツさんが勢いよく立ち上がっていて――ああ、椅子を引いた音かと納得するのに一瞬遅れておれはセツさんの表情が平時と違うのに気付いた。
 一言で言えば、セツさんは驚愕していた。焦りと、ほんの僅かに隠し切れない喜びのようなものを表情に滲ませて。
 おそらく今店内でみんなの視線を一身に集めているセツさんは、しかしそれに気付いた様子もなく声をあげる。
「スズカさん……」
 それはまったく知らない人の名前で、おれは思わず口をつぐんだ。セツさんは、高槻さんのことを、知っている?
 高槻さんの方に視線を向けて、おれはまた驚いた。営業スマイルを浮かべていた高槻さんの表情が分かりやすく引きつっていたからだ。
「えっ、なんでここに!? いや、あの、お久しぶりです……まさかこんなところでお会いできるなんて」
 カウンター席を回り込んで高槻さんに駆け寄っていったセツさんは、けれど途中で急ブレーキをかけた。「……ん? あ、れ……?」さっきまでよりも近い距離でまじまじと高槻さんを見つめて、一歩後ずさって叫ぶ。
「待ってスズカさんじゃない! 誰!? 若返ってる!?」
 と――そんな言葉を聞いた瞬間、表情を引きつらせながらも先ほどからずっと黙っていた高槻さんが、セツさんに負けない声量で怒鳴った。
「――ッうるっせえな誰がスズカさんだ誰が! 人違いだこのボケ!!」
 それはもう、はたから見ているだけのおれも身が竦んでしまうくらいの激昂っぷりだった。声をかけるのすらためらわせるレベルの剣幕にセツさんも驚いている。それだけじゃなくて、僅かに傷ついた、みたいな顔をした。
 高槻さんは、口数は少ないし表情の変化があまり無いけれど怖いひとではない。丁寧で優しいひとなのだ。少なくともおれはそう思っている。だからこの状況に一気に体温が下がった気がしたし、BGMになっている音楽の他はしんと静まり返ってしまった店内に委縮した。痛いくらいの沈黙。それを破ったのは、高槻さんでもセツさんでもなくて、八代さんだった。
「高槻」
 名前を呼んだだけだ。音にしてたった四つ。それだけで、高槻さんは最低限の冷静さを取り戻したらしいことが雰囲気で分かった。
「高槻どうしちゃったの。ダメだよそれは」
 念を押すように、心配しているのを隠さない声音で八代さんが重ねる。それを受けて高槻さんの口から発せられたのは、セツさんに対する謝罪の言葉だった。
「……急に怒鳴って、申し訳ありません」
 その敬語は丁寧さよりも心の距離を表しているかのように聴こえたけれど、セツさんはそれをまったく気にしていない様子で何かに急かされるように言う。
「謝らなくていい。敬語もいらない。あんたが誰なのかだけ教えて。……いや、あんたがスズカさんの何なのか教えて」
 高槻さんは一瞬だけ目を伏せた。そっと息を吐いて、観念したように言う。
「……お前が『スズカさん』って呼んでるのは、たぶん、俺の父親」
「えっ!」
 ここで「えっ!」と声をあげたのは八代さんだ。視線を向けると「うわっやばい」みたいな顔でそっぽを向いていた。ちょっと和んだ。高槻さんもそのリアクションに気が抜けたのか更に大きくため息をついて、未だ棒立ちのセツさんと、座ったまま硬直しているおれに向かって微かに笑う。
「飯食いに来たんだろ。ご注文は?」
「飯もだけどあんたの作る酒飲みに来た。あの、俺こそ色々勘違いして先走ってごめん。料理も酒も全部お任せするんで作ってもらっていい?」
「……酒に関してはあいつレベルを求められても困るんだけど。ここ喫茶店だし」
「分かってるって! 一応言っとくけど俺の話したこと気にしなくていいから。勝手に勘違いしといてなんだけど、ワケありっぽいし」
 高槻さんは、セツさんの最後の言葉には敢えて反応しないことを選んだのか無言のままキッチンに消えていった。「あっ! ごめんねマリちゃん、おいてけぼりにしちゃったね」と慌てた様子でセツさんは席まで戻ってくる。
 この短時間で聞きたいことがそれはもう大量に出てきていたけれど、きっと込み入った事情があるんだろうな……と何も切り出せない。「大丈夫です」としか言えないでいるおれにセツさんは申し訳なさそうな顔で、「俺、高校のときめちゃくちゃ荒れてて――っつー話は暁人から聞いたよね?」と囁いた。
「その、人生で一番どん底だったときに俺のことを拾ってくれた人がいる。それがスズカさんって人。……恩人なんだよ」
 人生で、一番、どん底だったときに。
 おれは『スズカさん』なる人物よりもセツさんのそちらの台詞の方が気になった。いつもにこにこ明るくしているセツさんにそんな時期があったなんて、とにわかには信じられない気持ちだ。
 それにしても。人って思いがけないところで縁が繋がるものなんだな。
 先ほどから視界の端で八代さんがものすごくそわそわしているのが見えるんだけど、大丈夫だろうか。
 おれはここで考えることを放棄した。分かったことと分からないことが多すぎて思考がまとまらない。せっかくセツさんとお食事なのだし、今はこちらに集中しよう。
 どうやらセツさんは高槻さんほど思うところがあるわけでもないらしく、「ずっと機会うかがってたけど久々に連絡してみよっかなー」と気楽な調子だ。何が出てくるか楽しみだね、なんて笑う余裕まであるらしい。どうやら、今この場でこれ以上高槻さんと何か話すつもりはセツさんには無いようだった。
 その後、十数分ののち出てきた食事はとても美味しかった。そのことにある種の安心を覚えて、おれは肉を切って口に運ぶ。ソテーされた肉の衣には綺麗な焼き目がついていて、僅かにチーズの風味がした。
 食事を終えるまでに新しく分かったのは、おれが高槻さんのカクテルを作る手つきに既視感を覚えた理由。要するに、セツさんにカクテルの作り方を教えた――仕込んだのが、その『スズカさん』だったから、ということらしい。なるほど。根っこの部分が似ていると感じたのは、そういう理由か。
 こうして表向きは穏やかに食事を終えて、おれたちは早々においとますることにした。「怒鳴っちまったし、代金は別に……」とお金を受け取るのを渋った高槻さんにセツさんは半ば無理やり会計を済ませて店の外に出た。扉が閉まる直前、おそらくおれたちのいる間ずっと我慢していたのであろう八代さんの声が耳を掠めたので、あの二人はきっとこのことについて話をするのだろうなとぼんやり思う。
「なんか前半ばたばたしちゃってごめんねマリちゃん」
「いえ。驚きはしましたけど……意外なところにご縁があるものですね」
「やーもう俺だってめちゃくちゃ驚いたから! 顔そっくりすぎるんだよ……遠目だと分かんなかった」
 心なしかはしゃいでいるようにも見えるセツさん。セツさんにはきっと今の仕事を始めるきっかけのようなものがあって、それは今日少し話してくれた「人生で一番どん底だったとき」のことなのだろう。
 セツさんの昔の話って、そういえばあんまり聞かないな。
 知りたいと思ってしまうのはたぶん迷惑なことだ。誰だって話したくないことくらいある。それを聞く資格はおれには無い。
 おれは所詮、この一年と少しの期間のセツさんのことしかきちんと知らないんだなと思うと何故だか少し寂しい気持ちだった。もどかしい、というか、焦燥感のような何かがあるというか。
 歳の離れた友人というには距離の近くなりすぎてしまったセツさんに対する気持ちについて、おれはそれ以上考えるのが怖くなった。
「……また、夕飯とかご一緒してもいいですか?」
「え、当ったり前じゃん! また付き合ってくれんの? ありがと!」
 今はただ、セツさんが嬉しい即答をしてくれるという事実に安心を覚えて、セツさんの隣を歩けることに密かに満足感を得たのだった。

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