羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 聞いてない。聞いてない。こんな風になるなんて聞いてない。俺は未だ混乱の抜けきらない頭で現状をどうにか処理しようと悪戦苦闘していた。
 城里は俺に対して「好きだよ」と言って、それは嘘みたいな本当の話で、俺は誇張でも何でもなく奇跡が起きたと思った。受け入れてもらえるだけじゃなくて同じ気持ちを返してもらえるなんて思ってなかった。驚きのあまり引っ込んだ涙がまた眼球を覆っていくのを感じる。
 こいつ、「めちゃくちゃ嬉しい」って言ったな。俺がこいつを好きで、こいつが俺を好きなのが、めちゃくちゃ嬉しいって言った。そんなの、俺も嬉しいに決まってる。
 たくさん言いたいことがあったはずなのに何も出てこない。というか、何かを考えていられる状況ではないのだ。城里の顔がこんなに近くにあることに動揺してしまってそれどころではない。
「っ、ん」
 下唇を軽く噛まれて、思わず薄く口を開いたら舌が入ってきたので今度こそ一ミリも動けなくなってしまった。腕は強く掴まれていて、体の重心がぐっとこちらに寄ったのが分かる。
 失礼な話だけれど、城里はこういうことに疎いと思っていた。疎い、というか、そもそもそういうことをあまりしそうにないイメージだった。それはこいつの持つ雰囲気のせいかもしれないし、隣にいたのが由良のような奴だったから相対的にそう見えていたのかもしれない。とにかく、俺はこいつの背後に確かに健全オーラを見ていたのだ。自分の勝手な予想が裏切られたことに勝手に衝撃を受けた。柔らかく肉厚な舌が上顎を撫でて、自分でもびっくりするくらい大袈裟に肩が跳ねる。ちょっ、と、これ、マジでやばいんだけど。
「ぅ、んんっ、……は、」
 頭がぼうっとしてくる。俺だって別にこういう経験が無いなんてこと言わないし、寧ろ荒れていた頃に縁もゆかりも無いような女と勢いのまま……みたいなことは何度かあった。この頃のことはあまり思い出したくないし知られたくないけど、ちょうどボクシングができなくなった辺りから急に背が伸び始めて、年相応には見えなくなっていたから。
 でも、こんな風になるのは初めてだ。触れられている部分がどこもかしこも熱くて、痺れて、どうにもならない。激しいトレーニング中というわけでもないのに息があがって、体に酸素が足りていない感じがする。刺激が強すぎて怖いのに少しじれったいような、もどかしいような気持ちにさせられる。
 城里の服を掴んで縋ってしまいたくなるような、不思議な感覚だった。手首を押さえられているからもちろんそんなことはできなくて、拠り所の無い不安感と、女みたいなことを考えている自分への怖さがあった。
 どうしよう。気持ちいい、どうしよう。触れられているのが嬉しいのに自分がどうなってしまうか分からなくて怖いなんて、お笑い種だ。
 感情の波が激しく揺らいでいるせいか涙腺は緩みっぱなしで、気を抜くとまたあふれてしまいそうになる。と、城里の手が俺のシャツをたくし上げて肌に触れてきたので、今度こそ思考が全部ぶっ飛んだ。
 ぞわり、と快感が背中に走って、直感で「やばい」と思った。これ以上は止まれなくなる。
 弾かれたように体が動くようになって、ついでに意味のある言葉をちゃんと発せられるようになって、俺は「っし、ろさと、ちょっと、ストップ」とつっかえながらも言う。声が裏返った気もしたけれど仕方ない。まだ少しぼやけた視界に映ったそいつは……なんというか、狩りの途中ですって顔をしていた。熱っぽい視線にまた背筋が粟立つ。この目は駄目だ。ぞくぞくする。
 そいつは俺の声が届いたからか、はっとしたように表情を変えて「う、わ。ごめん!」と声をあげた。
 数秒、まだ整いきらない息づかいだけが室内に響く。どうにも恥ずかしくて、でも今日はもう目を逸らさないと決めたから、せめてこの緩みっぱなしの涙腺をどうにかしようと目元を袖でぬぐった。途端に「擦ったらだめだよ、危ないよ」といかにも心配性な言葉を投げかけられたので、雰囲気の変わりようにびっくりしてしまう。さっきまでのはなんだったんだ。差が激しすぎるだろ。
「あーもう佑護ありがとう止めてくれて! 危なかったー……こういうのはちゃんとしたいよね。ちゃんとしよう!」
「えっ、いや、別に……っつーかお前、こういうの慣れてんの?」
「な、慣れてるように見える? 見た通り全然なんだけど……」
 えへへ、と恥ずかしそうに笑ってそんなことを言う城里は嘘をついているようには見えない。あまりにもスムーズな流れで手を突っ込まれたから、と言ってみると「それは、無我夢中だったっていうか……本能的に? 佑護、全然嫌がらないし目がとろんってしててなんかかわいくてつい……ごめんね……」という返事。そこまで、説明しろとは、言ってない。
 にしても本能的にって。怖いわ。
「由良家が割と奔放かつオープンだったから、いつの間にか色々培われていたのかも……?」
「門前の小僧かよ……」
 幼馴染の影響が強すぎる。まあ、本当に隣で見ているだけでそういう類のことを学ぶなんてありえないだろうと思うから、由良が色々と話を吹き込んだりしていたのかもしれない。確かにあいつ、色々大っぴらに言いそうだし。
「んー、でも、嫌がられなくてよかった」
「……嫌がるわけ、ねえだろ」
「そういうこと言ってもらえるとかなり嬉しい。でも、嫌なこととかされたくないこととかあったらちゃんと言ってね」
 お前にだったら何をされてもいいと言っていい場面なのだろうか、これは。でも、さっきまでの出来事を反芻して実感してしまった。きっとこいつは俺が嫌がることはしないし、こいつがしてくることを嫌だと思うなんて考えられない。
 俺は返事の代わりに城里の前髪をちょっとよけて額にキスをする。「佑護は意外とロマンチストだね」と言われた。大きなお世話だ。
「よっし、飯にしよっか! 今日は俺が作るよー、まあ冷蔵庫の中身まだ確認してないんだけど」
「……手伝う。何も無かったらスーパー行けばいいだろ」
「いいの? ありがとう! 何がいいかなー、なるべく早く食べられるやつがいいな」
 もうすっかりいつもの調子に戻った城里からは、さっきまでの熱っぽさとかぞくぞくするような雰囲気は伝わってこない。けれど俺は知っている。こいつはふとした瞬間にスイッチが入って、豹変するのだということを。
 ……こいつは明らかに捕食する側の人間だ。
 いつか食われてしまうんじゃないかと思う。にこにこ笑っている城里の口元からのぞく犬歯の鋭さに、これが肌に食い込んだらどんな感覚がするのかと一瞬だけ想像してしまった。なんてこと考えてるんだとすぐさまその想像を打ち消して、火照る体がさっさとさめてほしいと願う。
 夜風に当たれば少しはマシになるかもしれない。「ごめん冷蔵庫レタスとショウガしかない! 買いに行かなきゃ!」と騒いでいる城里が面白くてつい笑ってしまった。こいつも、家に一人のことが多いと言う割には生活力が由良といい勝負だ。
 そういえばまた名字呼びに戻ってしまっているな、と気付いて、夕飯を食べ終わるまでに下の名前で呼ぶことに慣れたいなと密かな目標を立てたのだった。

prev / back / next


- ナノ -