大会直後だったから部活も延長なしで終わって、小走りに弓道場へと向かう途中後ろから声をかけられた。相変わらず名字呼びに戻ってしまっていて少しだけ残念だったけれど、あいつがあんな、大声をあげてまで呼び止める奴って一体どれくらいいるんだろうな、と考えてちょっぴり得意な気持ちになる。
佑護に駆け寄って見上げると、若干ぎこちないながらも今日はちゃんと目を合わせて笑ってくれた。
最近また佑護は背が伸びた気がする。本人曰く「筋肉を痛めつけなくなったせいかも」とのことだ。そういえば、成長期に筋肉つけすぎると身長ってあんまり伸びないんだっけ? テレビか何かで観たことだから、本当かどうかは分からない。俺ももうちょい身長欲しいんだけど、両親どっちもそんな背が高いわけじゃないから難しいだろうな。
「今日は万里はいないんだね、珍しい」
「あいつ、なんか用事あるっぽい……早めに帰った」
元々万里は電車通学だから途中までしか一緒に帰れないにしても、そういえばこんな風に学校から佑護と二人きりってかなり久々な気がする。真面目な話をするにはちょうどいい。
俺は、緊張で唇が乾くのを感じながら再び佑護を見た。「ねえ、もしこの後暇なら家に来ない? 今日母親が夜勤でさ、夕飯誰かと一緒に食べたいなって思ってたんだ」佑護は頷いて、親に連絡をしてくれているみたいだった。
確か佑護も一人っ子なんだよね。なんだか仲間意識を感じる。昔から、暁人のことを何かとお世話しているゆきちゃんを見て、いいなあ、って思ってた。兄ちゃんとか姉ちゃんとか欲しかったな。弟も妹もかわいいだろうな。
よく「ウザいだけ」なんて漫画やドラマだと言ったりするのを見るけど、俺のごく近しい人にはそういうことを言う奴はいない。暁人も万里も家族のこと大好きだよね。末っ子だからかな。宏隆も最近は家族とかなり打ち解けてきたみたい。そういうのを見てるから、きょうだいが居たら楽しいだろうな、って気持ちの方が強い。
結局ないものねだりだっていうのは分かってる。手に入りそうにないものって、欲しくなるから。
俺は隣をゆっくり歩く佑護を盗み見た。……確かに人目のあるところでの佑護は強くて足の速い動物って感じがする。暁人は黒ヒョウとかって言ってたっけ。毛皮が黒い動物、かっこいいと思う。
「……俺の顔何かついてるか」
「えっ。あ、ごめんそうじゃなくて、佑護は動物に例えたら黒ヒョウかなって」
「……? なんで黒限定?」
「うーん、筋肉のつき方がスマートだから? かなり鍛えてるのに細く見えるよね。あと全身黒の動物ってかっこよくない?」
別に佑護、色黒ってわけじゃないんだけどさ。
佑護はしばらく首を傾げて思案げにしていた。やがてうすくひらいた唇から、「……お前はなんか、ネコ科の顔してるけど中身は犬」という言葉がこぼれる。
「俺そんな聞き分けよさそう? 躾けられてる?」
「や、そっちの意味じゃない」
そっちじゃないってどっちだ。佑護は暑いのか西日をうらめしそうに見て汗をぬぐう。
こめかみを伝った汗が顎を滑って、ぱたりとシャツに染みを作った。
「ドーベルマンとかシェパードとか、強そうなやつ。一撃で敵を仕留められる……」
俺の反応を窺うような瞳にどきっとした。佑護って俺のことそんなイメージで見てたの? うーん、そこまで凶暴かなあ。もしかして八重歯の印象だけで言ってたりしないよね?
「……狼?」
「えっ、俺絶滅しちゃうの」
俺の言葉に佑護はふっと笑って、「それは困る」と言った。
喋りながら、いいなあ、と思った。この感じ、好きだ。他の人が聞いたらどうでもいい話ばっかりしてるんだろうけど、俺はこういう風に佑護と些細なことで笑いあっていられる時間を大切にしたい。
家が見えてきた。佑護は俺よりも身長が十センチ近く高くて歩幅も広い。けれど歩くのがゆっくりだから無理せず隣に並べる。
気温のせいか、それとも佑護が隣にいるからなのか、体の芯が熱くなっていくのを感じる。確か今日の最高気温は三十五度をゆうに超えると天気予報のお姉さんが言っていた。また一筋、汗が佑護の首を伝うのが見える。
あー、どうしよ。どきどきしてきちゃったな。
「飲み物麦茶でいい?」
「ん。ありがとう」
食事しながら話そうか、それともすぐ話そうか迷ったけれど、遠回りは性に合わないので率直に伝えることにする。俺は麦茶をコップの半分ほど減らしてほっと息をついている佑護に話を切り出した。
「あの、気になってたことがあるんだけどさ。俺、佑護に何か嫌なことしちゃった?」
佑護はすぐには答えなかった。不安そうに見える瞳の色で、「……なんで」と逆に尋ねてくる。
「最近目合わせてくれなくなっちゃったから。今日はそんなことないんだけど」
「あー……それは、お前のせいとかじゃない。俺が勝手に悩んでるだけ」
「悩んでるの?」
しまった、みたいな顔をした佑護がちょっと面白い。うっかり口を滑らせるくらいには信頼されてるって思っていい?
場違いに嬉しくなってしまう。気を引き締めていないと勝手に笑顔になっちゃいそうだ。
「えっと……ほら。大会の日、俺変なお願いしちゃったじゃん? やっぱり嫌だったかなーとか、思ったりしてた。もっと早めに聞けばよかったね、ごめん」
佑護は慌てたように首を振った。「別に嫌じゃなかった。全然」その様子があんまり必死そうだったから、ついからかってみたくなる。
「佑護、結局名前で呼んでくれたのあのときだけでまた元に戻っちゃったね」
「そ、それは……」
うわ、焦ってる。ごめんねほんとは分かってるんだ。佑護って基本的に人のことは名字で呼ぶ。万里は名字で呼ばれるの、あんまり好きじゃないみたいだから佑護が万里のことだけ下の名前で呼ぶのはそのせい。分かってるんだよ。でも羨ましいんだ。
ん。でもなんで俺のこと下の名前で呼ぶのはこんなに渋られるんだろう。
「正直に答えてほしいんだけど佑護って俺の下の名前嫌い?」
「は? え、なんでそんな話になってんだ?」
「だってあまりにも渋られるから……んん? どうしよ、マジで理由が分からない」
俺の下の名前が嫌われてるわけでも俺が嫌われてるわけでもないならマジでなんでだ? 俺の目の前で困り果てた顔をしていた佑護は、一瞬だけ視線を下に落としてぱっと顔を上げた。
「あの……大牙」
突然名前を呼ばれて驚く。無理強いさせたかな、と不安になる間もなく言葉は続く。「俺がお前のことちゃんと呼べなかったのは、俺のせい」ここで佑護は僅かに唇を噛んだ。
――あ。なんかそれやらしいね。
瞬く間に視線を奪われる。思わず唇に親指で触れた。びくっと跳ねた体は混乱しているのが手に取るように分かる。これ以上は駄目だよなあと思うのに、意思に反してなのか寧ろ意思に忠実になっているのか、俺の手は少しだけかさついた佑護の唇を指の腹でそっとなぞる。
「……佑護のせい? どういうこと?」
微かに息をのむ音が聞こえた。やばいな、俺今どんな顔してる?
なんか……スイッチ入ったかも。
いつの間にか随分と距離を詰めてしまっていたみたいで、睫毛が震えるのすらはっきりと見えた。
「っ……お前と、万里は、違うから」
無言で続きを促す。もうすっかり汗も引いているのに、耳からじわじわと赤く染まっていっているように見えた。なんでそんな風になるの。なんで顔が赤いの。暑いだけじゃない。分かる。俺と万里は違うって、それって――。
あっ、と言う間に佑護の黒い瞳が水分で覆われて、ほろりとこぼれた。
「お前は俺にとって特別だから。お前だけなんだ、こんなの」
この言葉を聞いたとき、俺は一瞬だけ後悔してしまった。混乱と、期待と、喜び。それにプラスして、ここまで好きな人を気付かず追いつめてしまっていた自分に悔しくなった。ねえ、佑護の言いたいことちゃんと分かったよ。なんで気付けなかったんだろう、俺。
俺は思わず目の前の体を抱きしめる。佑護の声は震えていて、瞳には不安や緊張をいっぱいに湛えていて、何より心臓の鼓動がびっくりするくらい速かった。俺って情けないな、と思う。こんなんじゃ駄目だろ。
「佑護、言わせてごめん」
続きは俺に、先に言わせて。
体を離してじっと見つめる。何が起こってるか分からないですって顔をした佑護に、言った。
「好きだよ」
口にしてしまえばとても短くシンプルな四文字だった。シンプルながら大切な四文字だ。伝えられてよかったって思うんだけど、俺は我儘だから、「その先」が欲しくなってしまう。
「ねえ、佑護の続きも聞かせて」
先に言わせろって言ったり続きを言えって言ったりめちゃくちゃでごめん。でもそのくらい好きなんだよ。
せめて泣くのは今は堪えよう。潤む視界にそんなことを思う。
だって、好きな人の前だとかっこつけたいでしょ、やっぱりさ。