羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「佑護、もしかして大牙と何かあった……?」
 そんなことを万里に言われたのは、あの大会から一週間ほど過ぎた日のことだった。部活を終えた広々とした弓道場で、万里は弓の手入れをしながら俺の返答を待っている。
「……なんで」
 内心ひやひやしながら尋ねると、「なんとなくぎこちないような気がしたから……」という控えめな言葉。「ほんとうは、黙っていようと思ったんだけど……大牙もなんだか元気がなくなってきてるみたいだから気になって」
 よく見ているなと思った。それとも、俺やあいつが分かりやすいだけなのだろうか。あまり人への口出しをしたがらないこいつが言うくらいだから相当様子がおかしかったのだろう。まあ原因は俺にあるんだが。
 大会の日以来、気まずくてまともに目を合わせられない。まさかここまであからさまになってしまうなんて思っていなかった。自分でも挙動不審なのが分かってしまうから、あいつと同じ部活でなくてよかった、と意味のない安心を覚えてみたりして。夏休みの部活がある間は時間が合えば城里もまじえて三人で帰るような感じになっていたけれど、俺はその場に万里がいてくれることに内心とても感謝していた。二人きりではどうすればいいか分からない。
 別に喧嘩とかじゃないと言うと万里はそれだけでも少し安心した様子だった。余計な口出しをしてしまってごめんね、と申し訳なさそうに微笑んだ万里に、俺は「余計なんかじゃない。ありがとう」と伝える。
 知らず知らずのうちに心配をかけてしまっていたのも、それに気付けないくらいいっぱいいっぱいだったのも、悪いことをしたなと反省をした。こんな、周りが見えなくなるもんなのか。
 いくら気まずいからって、いつまでもこんな態度でいるわけにはいかないだろう。ここ一週間は由良の家にも顔を見せていない。あまり長引けば万里以外にも不審に思われてしまう。
 だからと言って具体的な打開案は何も思い浮かばないのだが。決意を新たにしただけで態度が一変できるならこんな苦労最初からしていない。
 いっそのこと、洗いざらいぶちまけてしまうべきなのだろうか。潔く振られればすっきりする、とか? いや、全然そんな気はしなかった。めちゃくちゃ引きずる自信がある。あいつへの気持ちもボクシングに対する気持ちと同じようにうまく折り合いがつけられればいいのに、それができないのはどうしてだろう。
「万里」
「なに?」
「……絶対諦めたほうがいいことなのに、諦めきれないときって……どうすればいいと思う」
 あまりにも抽象的で要領を得ない言葉だったのに、万里は静かに目を伏せて、じっと何事かを考えてくれているようだった。
「諦めたほうがいいっていうのは、誰かから言われたこと? それとも、自分で思っていること?」
「俺が、自分で思ってる……」
「そっか。じゃあ、それを諦めたときに佑護は『よかった』って笑えると思う?」
 申し訳ないことにたぶん無理だと思う。好きでいつづけるのもしんどいけれど、諦めるのもつらい。こんな風に自分がコントロールできなくなるくらい好きになれた奴のこと、すぐには忘れられない。
 無言になってしまった俺を万里は急かそうとはしなかった。ただ、ゆったりした口調で「おまえが、それを諦めることで苦しかったりつらかったりするなら……それはおれにとって、悲しいし嫌なことだなと思うよ」と言った。
 万里はいつもこういう言い方をする。俺にどうこうしろと言うんじゃなくて、万里自身がどう思うか、ということだけ控えめに発言する。それは優しくもあり、「自分のことは自分で責任を持て」と自立を促されているようでもあった。俺は万里の言葉に不思議と勇気付けられて、自分がつらい思いをすることに悲しんでくれる奴もいるのだな、と今更すぎる気付きを得た。
「諦められるまで待ってもいいし、諦めなくてもいいと思うけれど……無理に諦めようとするのは心に負担がかかるよね」
「……ん」
 俺はやっぱり、なんだかんだ言って諦めたくないんだろうなと思った。あいつに迷惑がかかるから、申し訳ないから諦めたい、なんて思い込もうとしたけど無理だ。まだあいつのことを傍で見ていたいし、笑顔で話しかけられると嬉しい。
 弓に触れる万里の丁寧な手つきを眺めながら、こういうのは気持ちを押さえつけようとするんじゃなくて寄り添おうとした方がいいんだろうな、と感じた。俺一人ではきっと思い至ることのできなかったであろう発見だった。
 俺は再度万里にお礼を言う。「おれは何も大したことは言ってないよ」と穏やかに返された。
「……お前って、なんでもすぱっと気持ちよく決められそうだよな。ちゃんと自分の中に基準があるっつーか」
「まさか。おれだって迷ったり悩んだりするよ。理想通りに行動できることなんて滅多に無い」
「そう、か? 意外だ」
「最近は特に、自分の中できっちり決めていたはずのことが守れなくて自分でびっくりする」
 困ってしまうね、と言うその声音は恥ずかしそうな、でもほんの少しだけ嬉しそうな響きを持っていた。あまり困っているようには見えないな、となんだか面白いものを見た気分だ。
 万里は手入れを終えたようで、弓を丁寧にしまった。「……おれ、今日は少し用事があるから急いで帰るよ」……これは、たぶん大牙を待って二人で帰れ、ってことなんだろうな。
 流石にみなまで言われないと気付けないほど鈍くはない。ここまで気遣われてそれを無下にしたくもない。素直に城里を待とう。
 最後の戸締りは俺がやる、と万里に言って、弓道場の前で別れてから施錠を済ませ職員室へと鍵を戻す。顧問に「慣れてきたみたいだなあ、よかった」と言われて、ここでもまた俺は気遣われていたんだなと殊勝な気持ちになって頭を下げた。
 さてこの後はどうしようかとゆっくり歩いていると、弓道場の方へと駆けていく後ろ姿を見つける。ああもう、遠目からでも分かってしまった。
 俺は深呼吸してから口を開く。
「城里!」
 呼びかけると、ぱっと振り返ってそいつは笑顔になる。
「佑護! よかったー! すれ違ってたらどうしようかと思った!」
 まだ俺に笑顔を向けてくれることが嬉しい。やっぱり好きだ、と思う。
 今日はもう、絶対に目は逸らさない。そう決めた。

prev / back / next


- ナノ -